第七話 カンナ・ヒイラギ-3

 食事と歯磨きを終えると、火の番を一人立てて、交代で仮眠をとろうということになった。この火山地帯に、この場所ほど涼しく、落ち着いてまとまった休息が取れる場所はきっとない。夜はモンスターの活動も鈍るため、朝まで全員が十分に休む必要があった。


 俺は最初の見張り役を買って出た。カンナは絶対に最初を引き受けて、そのまま俺たちを起こさずいるに違いなかったからだ。俺も含め、カンナ以外の三人は目を閉じれば今にでも爆睡できるほど疲れているが、単純なプライドの問題だった。


 カンナは予想通り「私がやるよ」と立候補したが、俺が譲らないと意外にすんなり「じゃあお言葉に甘えるね」と笑った。彼女も疲れているのだろう、と、このとき俺は深く考えなかった。


 テトとマリアに否やのあろうはずもなく、女子用と男子用のテントへ這うように転がり込んでから、あっという間に幼い寝息を立てだした。カンナも「何かあったらすぐに起こしてね。おやすみ、シオン君」と一度俺の肩に手を置いてから、甘い香りを残して女子テントに潜った。


 俺は、好きな人の「おやすみ」と肩に残る感触と、彼女がすぐそばで寝ているという事実だけで、朝まででも火の番を続けていられる気がした。


 ところが、一時間も経たないうちに、テントから一人起きてきた人物がいた。


「……眠れないのか?」


「うん、ちょっとね」


 畳んだ毛布をぬいぐるみのように抱きしめ、近づいてきたカンナの素肌は、揺らめく炎に照らされていつもより艶めかしく見えた。寝姿勢で微妙に着崩れた麻シャツからこぼれる肩や首筋、胸元の白さに、妙にどきどきしながら隣を空けた。


 他愛のない話をしたと思う。情けないことに記憶がないのだ。意識が全く違うところに向きっぱなしだったから。だから気づくのが遅れた。


 いつもより、距離が近いこと。声が普段より少しだけ低くて、甘いこと。


 俺がそれらに気づいたのは、肩と肩が触れた瞬間だった。雷に打たれたように固まり、時間をかけてほとんど目だけで隣を見ると、カンナの顔が思っていたよりずっと近くにあった。息が止まった。


 カンナは、見たことのない目でじっと俺を見つめていた。とろけるような、悲しい目だった。


「……少し、散歩しない?」


 長い時間をかけて、カンナは魅惑的にささやいた。手を握られた俺は、立ち上がったカンナの操り人形になったみたいに、手を引かれるがまま、湖畔の茂みの深くまで呆然とついていった。


 焚き火の灯りがほとんど届かないほど深く進んだあたりで、カンナは足を止めた。太いヤシのような木の根元に毛布を敷き、自分がまず座って、手を引いて俺を隣に座らせた。


 一言も交わさぬままだった。俺たちが二人きりでいて、これだけ沈黙が続くというのは、尋常じゃないことだった。闇の中に青白く浮かび上がるカンナの途方もなく美しい横顔を直視できず、俺はじっと、かえってかつてないほど精悍せいかんな顔で正面を凝視ぎょうししていた。頭は高速で回っているようで、完全に停止しているようでもあった。


「……シオン君」


 何度も呼ばれたその名前を、まるで初めて呼ばれたみたいに思った。カンナは、暗闇でも分かるほど顔を赤らめて、俺を真っ直ぐ見ていた。


「シオン君は、私のことが、好きなの?」


 このとき、俺の脳は完全なパニックに陥った。何を言われたのか分かるのにかなり時間が必要だった。分かった瞬間、ぼやけていた視界に映るモノすべての輪郭が一気に鮮明になり、正面でじっと俺を見つめるカンナの顔が、暗闇の中とは思えないほどくっきりと、俺の前に現れた。


 呼吸を忘れ、喉の水分をすべて蒸発させ、俺は、ぐるぐるする頭で言ってしまった。


「………………うん」


 俺は何を言っているのか。何を言わされているのか。何も分からないのに言ってしまった。ここを逃せば、二度と伝えられないような気がした。


「カンナのことが、好きだ。出会ったときからずっと、好きでした」


 カンナの反応は大きくなかった。驚くでも、拒絶するでもなく、ただ、かすかに恥じらいながら一つうなずいて、「ありがとう」と微笑んだ。


「嬉しい。ずっと気づかなかったよ。人に教えてもらうまで」


「だ……誰がしゃべったんだ」


「ナイショ。でもひとりじゃないよ。何人かの人」


 マーズ、リーフィア、ロイド、サヤ……容疑者の顔はいくらでも思い浮かぶ。


 膝の上に置いていた手の甲にカンナが手を重ねてきたことで、犯人を特定して一発入れる算段をつけていた俺の思考は全てぶっ飛んだ。


「嫌なら、突き飛ばしてね」


 俺の両手を上からそれぞれ握ったカンナが、そうささやき、ゆっくりこちらに上体を近づけた。石のように固まった俺をよそに、滑らかな手が俺の手から腕へ滑り、背中に回って引き寄せられる。カンナの手付きから伝わる緊張。今や見上げた俺の顔のすぐ上に、カンナの顔があった。


 真っ赤に上気した肌。潤んだ瞳。やわい桜色の唇が目と鼻の先にある。カンナは全身の力を抜いていた。彼女の言うとおり、俺が拒絶すればいつでも簡単に突き飛ばせるほど拘束に力がない。


 ところが、今の俺が四肢に込められる力はそのカンナ以下だった。頭が熱暴走して目まいを起こし、後ろに倒れ込んだ勢いで押し倒された格好になる。ますます全身が密着し、地面に敷いた毛布とカンナの柔らかさに挟まれて、互いの心臓がどこにあるのかハッキリと分かった。


「……いいの?」


 幸福の絶頂に溺れていた俺に、首を振る気力なんて湧くはずもなかった。俺の無抵抗をどのように解釈したのか、カンナは左手で俺の顎、頬、耳に触れ、鼻先が触れ合うほどの距離でゆっくり目を細めた。



 唇が触れ合う寸前、カンナは動きを止めた。俺が、泣いているからだった。


「……あ、ごめん、やっぱり嫌だった、よね」


 嫌なはずがない。嫌なはずがないんだ。大好きな人とこんな風にできて、幸せに決まっている。


 たとえ、カンナが一度だって、俺のことを「好き」だと言っていなくても。


「それでもいいやって、今は考えないようにしとけって思ったのにな……」


 俺はカンナの体を押しのけ、上体を起こした。


「好きな人がそんな顔してたら、そういうわけにもいかなくなった」


 カンナの見開いた両目からは涙が止まらない。「ごめん、ごめん」とうわ言のように繰り返し、カンナは震えながら何度も目を拭った。彼女のこんなに弱った姿を初めて見たことが、見せてくれたことが、俺を少しだけ慰めた。


「話してくれたら、許してやる」


 カンナは嗚咽おえつ混じりに泣き崩れた。胸中で己をなじり続けているように見えた。やがて、涙声で振り絞った。


「私……この任務が終わったら……………王様と、結婚するの」

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