第七話 カンナ・ヒイラギ-2

 カンナたちが上がった湖面には、なにやらいい香りのする泡があちこちに浮いていた。そういえば、麻のシャツに着替えたカンナとマリアの髪からも同じ清潔な匂いがする気がする。


「シオン君たちも使ったら? 気持ちいいよ」


 濡れた髪にタオルをかぶせたカンナが俺に差し出してきたのは、何やら小ぶりのヤシの実のような黄色い果実だった。受け取るとぬらりとした粘液でまみれており、危うく手から滑り落ちそうになる。


「《シャンプーの実》だよ。あの辺りに自生してたの」


「あぁ、無患子ムクロジみたいなのか。こっちの世界にもあるんだな」


 別名ソープナッツ。果肉に含まれる界面活性剤を石鹸やシャンプーとして代用できる木の実だ。地球にいた頃、修行で見ず知らずの山に放り込まれるたび世話になったものだ。


 カルデラ湖のほとりで採れたシャンプーの実からは、ほのかに甘く、それでいてすんなり鼻に抜ける爽やかな香りがした。随分上等な泡だ。持ち帰って瓶に詰めて売れば儲かるんじゃないだろうか。


 カンナたちが背を向けたのを確認してからパンツ一丁になった俺は、シャンプーの実片手にザブザブ湖の深いところまで走っていくと、一度頭まで潜って全身を濡らしてから、早速果汁を泡立て始めた。


 一つ手のひらの上を滑らせるだけで、ふんわりと極上の泡が立つ。まず体を洗い、頭を洗った。毛穴に詰まった皮脂や汚れが、泡と一緒に指の腹で軽く揉むだけで、じゅわじゅわと蒸発でもするみたいに消えていく感覚。天にも昇る心地だった。


 再び湖に潜り、泳ぎながら泡を落とす。上がったときには本当に清々しい気分になっていた。髪が記憶にないほど指通りなめらかになっている。


 そんなスッキリした俺の方を、何やらテトが引いた目で見つめているのに気づいた。


「おーい、テト、お前も使えよ。すげぇぞこれ」


 ところがテトは、警戒する猫のように目を釣り上げて俺から距離をとった。湖面を漂う泡が近づいてくるだけで、もうハチでも出たみたいに怯えて逃げる始末だ。


「なんだそれ!? キモい! なんかヌルヌルしてるし!」


「なにってシャンプーだよ。まさかお前、泡で体洗ったことないのか? フケツだぞ。洗ってやるよ」


「ギャー!!」


 ハルの背中をよく洗ってやっていた癖で近づいたのだが、全力でバシャバシャ逃げるテトがなんだか面白くなったので、俺も全力のクロールで追いかけた。どうやら水中では俺の方が速いらしい。十秒足らずで追いついて、両足でロックし、左手の実を握力で絞って大量の粘液をにゅるにゅるにゅるっと直接テトの頭へ。


「ひぎゃーーーーーーっ!!!」


「大人しくしてろ」


 抵抗するテトの頭を両手でわしゃわしゃわしゃっと泡立ててやると、大量にふくれた泡を怖がってテトはかえってピクリとも身動きしなくなった。目に入らないよう、これでもかとぎゅうっと目をつむって力んでいるテトの全身を洗っていると、嫌がる犬か猫を風呂に入れている気分になってくる。


「もっ、もういい! もう十分キレーになった!」


「まだだっつの。電撃は使うなよ、泡に引火して大爆発起こすからな」


 大嘘だが、鵜呑みにしたテトはいよいよ全身を固くしてただ耐えるのみとなってしまった。数分後、ピカピカに洗われたテトは露骨に不機嫌な顔を水面から出し、遠いところから俺を睨んでいた。


「サッパリして気持ちいーだろ?」


「自分の匂いが消えて落ち着かねー……」


「野生動物かよ」


 結局、ルミエールに戻ったらまた綿あめを奢ってやる、という条件でどうにか許してもらえた。


 暗くなる前に夕食の準備をすることになった。食材はテトが大量に殺生せっしょうしてしまった湖の魚たちである。浮いている魚たちを一つ一つ、全て回収すると相当な量になった。それでも、殺した命は決して無駄にしないのがウォーカーの流儀だ。


「料理の担当を決めようか」


 カンナの言葉に、テトとマリアは「リョウ……リ?」と首を傾げた。


 予想通りというか、二人は冒険者の癖して一度も自炊の経験がなかった。


「君たち、今までどうやってフィールドで生き長らえてきたのかな……?」


「どうって……ぜんぶ焼いて食べる?」


「生で食う」


 貴重この上ない、原始人と野生動物の回答である。


 テトは論外として、俺の料理スキルもマリアと大差ない。白皇に料理が全く期待できないせいで、ここ一ヶ月ようやく俺も自炊の必要に迫られただけのこと。


「じゃあ、マリアちゃんは丸焼き担当ね。先に火を起こしておいて。シオン君はじゃんじゃんさばいて、生で食べられそうな部分はそのまま刺し身にしちゃって。私はシチューでも作るから」


「ねぇおれはおれは?」


「テト君はそうねー、味見係」


「おぉー!」


 さすがカンナ、適材適所だ。俺も刃物の扱いだけなら自信がある。


 マリアが薪を集めて火をおこしている間に、湖の水で洗った大きな平たい石をまな板代わりに使い、大量の魚を捌いていく。すべての内臓を取り出し、身の柔らかさや臭みから、生で食えそうなものと火を通すべきものを半ば直感で選別し、後者はカンナに預ける。


 サバイバルにおいて特に不足が心配されるのはビタミンだ。野菜や果物の採集が難しい環境では、長引けば壊血病かいけつびょうといったビタミン欠乏症をわずらう危険もある。


 ビタミンは熱で破壊されるため、いけるものはなるべく生食せいしょくするのがサバイバルの鉄則。ナイフで大量の刺し身をこしらえ、洗った石の上にこんもり盛った。醤油があれば最高なのだが、贅沢は言っていられない。携帯している塩を振りかけていただく。


 マリアは俺が内蔵を抜いた魚を串で刺して豪快な丸焼きにした。カンナは湖畔で採れた僅かな野菜・キノコ類と余った魚介を、持参した自家製らしいルーで煮込み、素晴らしい芳香を上げるブラウンシチューを作った。出揃った品々の味はすべて、味見役のテトのお墨付きだ。


「こんな大きな鍋持ち歩いてたのか」


「鍋はいいんだよー、なんでも余すことなく食べられる。背嚢に入れていれば、いざというとき鎧の代わりになるしね」


 たっぷり四人前は入った鍋の前でカンナは笑った。食べようかという時に、夜が訪れた。消灯した空の下で、マリアの作った不格好な焚き火の明かりが、それを囲む俺たち四人の顔を闇の中に浮き上がらせた。


「夜に間に合ってよかったね。それじゃ、皆さん手を合わせましょう。いただきます」


「いただきまーす!」


 ご飯は美味くて、何気ない会話は楽しくて、こんなに明るい夜は久しぶりだった。


 事件は、夜中に起きた。

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