第七話 カンナ・ヒイラギ-1

 巻き上がった湖の水が、数秒間大粒の雨を降らせた。濡れねずみのテトが立つ水面に、ぷかり、ぷかりと大小様々な水棲生物の死骸が浮かんでくる。


 狩りの常套じょうとうは、まずターゲットを弱らせること。大物釣りと同じだ。いきなり引き上げず、じっくり抵抗させて疲れたところを釣り上げる。それさえ忘れて、いきなり首を狙って突っ込んでいった自分があまりに情けない。


 弱らせるために、テトの電撃ほど優秀な攻撃はない。だが高熱を発するジフリートの体に直接触れて、テトが電撃を与えるのは難しい。


 あの状況で、即座にそこまで考えて、カンナはジフリートが自ら水中に潜るよう仕向けた。知らなかった。俺とカンナに、これほど差があったなんて。


「……っ!?」


 何かを察知してテトが水面から飛び退すさった直後、大量の死骸が浮いた湖の中心が、ボコリと盛り上がった。


 水面を突き破って現れた巨竜に、さしたるダメージは見られなかった。空中で独楽こまの如く巨体を捻ったジフリートは、水しぶきを撒き散らして一息に上空へ飛んだ。


 身構えた俺達だったが、ジフリートは一直線に上昇していくと、赤い雲の中に姿を消し、二度と現れなかった。


「……逃げた、のか……?」


「賢い竜だね。決して感情的にならない。格下相手に撤退なんて。かなり警戒されちゃったから、もう私達の前には現れないかも」


 カンナは、ふぅ、と少し疲れたように額を拭った。


 俺とマリアは、ジフリートの消えてしまった空を見上げていた。何もできなかった。呼吸するたび、火傷した喉が責めるようにヒリヒリ痛む。ヤツがもう現れないと聞いて、じわりじわりと、苦い味が舌の根に広がる。


「大丈夫だよ、シオン君。まだチャンスはある」


「え?」


「私が投げつけたのはね、生卵に注射器で《腐臭スライム》の粘液を注入した特製《マーキングボール》だよ。投げつけると殻が割れて中身が付着する。激臭でモンスターを追い払う効果と、洗っても三日三晩落ちないその激臭を辿って、モンスターを追跡できる効果があるの」


「……追えるのか。まだアイツを」


 カンナが頷く。思い出したように、全身が震えだして困った。


「あのヤロー、おれの電撃食らってピンピンしてやがった。次は容赦しねえ」


「あたしも、次こそは、アイツに一撃ぶち込む算段があるわ」


 燃える俺たちの顔を、カンナは姉のような目で見守る。早速追いかけたがった俺を制して、カンナは「明日にしましょう」と有無を言わさぬ調子で提案した。言われて、もうあと二時間ほどで夜が来る時分だと初めて気づく。


「忘れてるかもしれないけど、三人とも疲労困憊ひろうこんぱいなんだよ。体以上に頭が、判断力が鈍ってる。いきなり三人揃って突進するんだもん、呆れたよ」


「う……」


「返す言葉もねー……」


「それに、あんなに暑い中歩き回って汗びっしょり。水浴びして、着替えたいもんね」


 服の胸元をつまんでパタパタするカンナに、ついクラっときた。




 背後のかすかな衣擦きぬずれの音が、とんでもなく大きく聞こえて仕方ない。


「もうこっち向いちゃダメだからね?」


「お、おう……」


 俺とテトは、湖を背に体育座りをして、赤面した顔を真っ直ぐ前方にガチガチに固定したまま締まらない返事をした。すぐ後ろでは、おそらく一糸まとわぬ姿となったカンナとマリアが湖に足を浸そうとしている。


「あー、きもちぃ〜。ねっ、マリアちゃん」


「は、はい……」


 マリアの声は、なぜか俺たちより強張っていた。女同士でも緊張するものなのだろうか。


 汗だくの一同にとって、カンナの「水浴びしよう」という提案にはなんら異存なかった。女性陣を差し置いて野郎が先に浴びるわけにもいかないし、俺たちが先風呂を譲ったのも自然な成り行きだ。問題は、そのかんを俺たちがこうして待たなければならないことだった。


 チャプチャプ水音を立てて湖の深いところへ進んでいくたび、その冷たさに上げるカンナの声が妙になまめかしく聴こえる。一方、マリアは必死に声を殺そうとしているようで、かえってその気配がしっかりこちらまで感じ取れてしまう。


「お、おれたちずっとこのままかよ……てっきりどっかで時間潰しにいくもんかと……」


「耐えろ、違うこと考えて頭を誤魔化すんだ……おじいちゃんが入れ歯を洗っている様子とか」


「おじいちゃんおじいちゃんおじいちゃんおじいちゃんおじいちゃん……」


 ジフリートと対峙した瞬間に匹敵する緊張感を背に感じながら、俺たちは死んでも首を動かすまいと必死に知らないどこかのおじいちゃんの顔を思い浮かべた。


「カンナさん、あいつらなんかブツブツ言ってますよ……!? やっ、やっぱりマントかなにかで、アイツらぐるぐるの簀巻すまきにしといた方がよかったんですよ! それで木にくくりつけとくんです!」


「そんなことして今モンスターが現れたら、全裸の私たちじゃすぐに二人を助けられないでしょ。むしろ、無防備な私達を守ってくれる人が必要だよ。あの二人なら大丈夫。ひどいことはしないよ」


「シオンはともかく、あたし、テトって人のことはあまり知らないんですけど……」


「シオン君によく似てるよ。彼よりさらに無鉄砲だけど、優しい子なんだ。すっごくウブでヘタレなところもシオン君にそっくり」


「シオンが、ヘタレ……?」


「あははっ、戦闘の話じゃないよ! マリアちゃんってやっぱり可愛い」


「あ、あたしなんか、全然……」


「ほらっ、私しか見てないんだし、いつまで色んなところ隠してるの? テト君がモンスター全滅させてくれたことだし、泳ごうよ!」


「えっ、ちょっと!?」


 ザバン、と大きな水音が上がった。「後ろはすげー楽しそうだな」とテトが耳まで赤くした顔を膝の間に埋め込んで呟いた。


「聞こえたか、おれたちヘタレだとよ。なめられっぱなしで悔しくないのか? 男を見せてやろうぜシオン」


「そんな勇気ねーくせに」


「お前は見たくないのかよ、カンナ、あぁ見えてけっこう胸あるんだぜ」


「なっ!? なんでお前が知ってんだよ!?」


「アイルーは肌寒いからな。一度、体のラインがくっきり分かるニットを着てたんだ。どうやら着痩せするタイプだったらしい」


 な、なにぃ……!?


「いま、すぐ後ろでそいつが揺れてんだぜ。こんなチャンス二度とない! おれが電力全開で動けば、後ろを振り向いてから再びこの体勢に戻るまで十分の一秒を切る。絶対バレねぇ!」


「……そんな一瞬じゃ何も見えないだろ」


「あっ……」


 やっぱりバカだ、こいつ。


「ていうか、お前もそういう煩悩あるんだな。ちょっと意外」


「なにが?」


「いや、なんつーか」


 天真爛漫だけど、どこか人間味がないやつだから……まさかそう言うわけにもいかず言葉尻を濁した。


「おれだって、誰のでも見たいわけじゃねー。カンナは美人だからな。シオンこそどうなんだよ。見たいだろ、普通」


「いや正直見たくない。服を着たカンナを直視するのさえやっとなのに、そんな神聖なもの盗み見るなんてどんな大罪だよ、俺の魂一つじゃ一生かけてもみそぎきれない」


「逆にキモい」


 互いに少しずつこの状況に慣れてきて、他愛もない雑談が始まった。


「さっき水の上に立ってたの、どうやったんだ?」


「【月靴ゲッカ】って煉術。煉素を靴裏に集めて、水に反発するように命令するんだ。グラグラするからけっこー難しい。上手いやつは水の上を地面みたいに走れるぜ」


「へぇ、俺にもできるかな」


「んじゃこのあと練習するか? ただ水浴びするのも暇だし」


「マジ!? ありがとう!」


 思わず声を弾ませると、テトは照れたように少しだけ顔を背けた。


「テトはいつからウォーカーになったんだ?」


「あー……十歳くらいだったかな」


「そんなに早くか。どうしてなろうと思ったんだよ」


「別に、普通だろ。ウォーカーはみんなが憧れる仕事だぜ。おれはぶっちゃけ敵なしの強さだったからな。なれたからなった、そんだけ」


 なんとなく、俺はテトが、自分のことではなく、一般的な誰かの話をしている気がしてならなかった。いつもガキみたいに明るいテトが、自分の話となると妙につまらなそうな顔をする。


「なぁ、テト。もし、なんか、困ってることがあるんなら、俺でよければいつでも言えよ」


 テトは目だけ動かして俺を見た。馴れ馴れしいくせに、コイツは俺たちとの間に、透明な分厚い壁を作っている。決して中身のある会話を交わそうとしない。彼の守るなにかに直接話題が触れると、テトは密かに身構える。それが筒抜けなのは、この少年がとても不器用で、優しいからなのだと思う。


「俺たち、もう友達みたいなもんだろ」


 何を言っても動かないように見えたテトの目が、かすかに揺れた。


 それは、俺自身を救おうとした言葉だったかもしれない。肩を並べて戦える仲間がもう一度現れることを、俺は諦めながら渇望していた。だから、今日は本当に、久しぶりに楽しくて、それがカンナとマリアのお陰だけじゃないってことにも自覚的だった。


「……シオン。あのさ」


 思いつめた目で俺を見つめたテトは、瞳を揺らし、じっくり数秒かけて――へらっ、と笑った。


「なんでもねーよ、バーカ。あんま真面目くさった顔をするから、ちょっとノッてみただけじゃねえか」


 ほぼ同時に、着替えたカンナが「二人ともありがとうー! お先です!」と後ろから声をかけてきた。マリアも既に着替えて、濡れた髪の水分をタオルで乾かしているところだった。


「待たせすぎだっつーの。シオン、入ろうぜ!」とさっそく上半身裸になって湖へ駆け出したテトを、俺はすぐに追いかけられなかった。

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