epilogue〜バケモノと呼ばれて〜-1

 腐った生ゴミのにおい。


 黒いパーカーのフードを目深にかぶり、顔を隠して、俺はルミエール東区の路地裏に広がるスラム街を歩いていた。淀んだ空気。そこら中に転がる食べ物のカスや、寝てるのか死んでるのか分からない人間。漂う異臭は、今の俺の鼻には強烈だった。


 ここを訪れるのは初めてになる。こんな場所があるということさえ噂程度にしか聞いていなかった。《貧民街》。この地区に住む者には税の取り立てが軽減される他、最低限の生活必需品が支給される月一回の配給もある。貧しい者が最後に行き着く場所だ。


 職を失った者や、働きたくても働けない者。働く気力がない者。生まれたときから貧民で、人生が決まってしまった者。ここには色んな人間が住んでいる。子どもたちは、スラムは危険だから絶対に近づいてはならないと最初に教えられる。


 白皇との修行が始まって三日。まだ何一つ進展していない。ただ、この三日間一度も暴走が起きていないことを評価して、白皇が一時間の自由時間をくれた。白皇の監視なしで、自由に動ける時間。俺は用事を済ませるために、ここに足を踏み入れたのだった。


「おい、チビガキ」


 ずんずん奥へ進んでいた俺の行く手を、ふと、数名の男が遮った。構わず通り抜けようとすると、胸ぐらを掴まれ、ぐっと吊り上げられる。


「出すもん出したら、命だけは助けてやるよ」


 顔色の悪い男が、鬼気迫る目で俺を睨む。あまり騒ぎを起こすとまずいのだが、黙って通らせてくれそうもない。


「今すぐ離してくれたら、無傷で帰すけど」


「はあぁ? 面白え、かかってこいよボクちゃん」


 俺の胸ぐらを掴んでいる男の太い腕を右手で握ると、そのままぐっと握り潰す。


「いぃッ!!!!? いだだだだだだだだだだだ離せ!! 離してくれぇぇぇ!!!」


「じゃあ、ちょっと道案内してくれよ」


 男は首を何度もブンブン縦に振った。


 


――――――――――――――――――――

――――――――――――――



 男たちの案内で、目的地にたどり着いた。スラムの最奥にある、朽ちた石造りの建物。人が住むにしてはかなり大きく、窓が高い位置に並んでいて、元はなにかの工場だったと思われる。入り口には、蜥蜴とかげのシルエットが刻まれた赤い布が、国旗みたいに貼り付けられていた。


「も、もう行っていいすか、オレら!?」


「おう、ありがとう。その腕、固定して寝ればすぐ治るはずだから」


 逃げるように去っていった男たちを尻目に、俺は廃工場の分厚い鉄の扉を開いた。


 途端に、幾重にも重なった罵声が中から響いてワンワン反響した。


 転がる酒瓶や古い血汚れで荒れた工場内部には、六、七人の男たちがいて、口々に怒鳴りながら武器を取り俺に近づいてくる。


「ここがどこだか分かってんのか?」


「どこって、レッドテイルのアジトだろ」


「ガキが……知ってて来るとはいい度胸だな」


 一人の男が、俺の喉元に斧槍の刃を突きつける。俺は黙って頭のフードを外した。露わになった俺の顔に、途端、男たちがうめく。


「お、お前……!?」


 レッドテイルもウォーカーの端くれ。ほとんどのやつがあの玉座の間にいたはずだ。俺のことは、よく知っているはず。顔を見られただけで気味悪がられるのは、もちろん気分のいいものではないが、こんなことでヘコんでいたらキリがない。


「レザード、いる?」


 にこっと笑って尋ねた俺に、男は慌てて武器を下げ、「あ、あそこの奥の部屋だ」と教えてくれた。


「ありがとう」


「……ば、バケモノが、レザードさんになんの用だ」


「まさかオレたちを潰しにしたのか」


 好き勝手言う奴らを無視して、さっさと奥の部屋の前まで歩いた。鉄製のスライドドア。鍵はかかっていない。


 取っ手を掴み、ひと思いに開け放った瞬間、目と鼻の先に刃物が飛んできた。


「おっ!?」


 腰の刀を八割がた抜いて顔の前に構え、刃を受け止める。弾ける火花の先、俺を襲った犯人は、糸目の狐面きつねめんを被った――子ども?


「チッ!」


 狐面の口元から舌打ちが飛ぶ。その体は、俺より更に一回り小さい。二、三と鋭く刃物を切り返すのに合わせ、俺も刀を抜いて迎撃。


 速い。ボロボロのローブに身を包んだ小枝のように華奢な痩躯そうくからは、想像もつかないキレの剣舞だ。両手にそれぞれL字型に湾曲した曲刀、《ククリ刀》を握り、体の一部のように操ってくる。


 速さも鋭さも、まるで小さな獣。なんだこのガキ、いきなり!


「邪魔、すんな!」


 足を払い、転ばせたところに刀を突き刺す。少年の耳スレスレに突き立った刃が、まだ暴れ続けそうだった彼の動きをピタリと止めた。


「お前の負けじゃのぉ、キバ」


 室内は、ヤクザの事務所のような内装だった。奥の黒革のソファに長い脚を組んで腰かけるスーツ姿の男が、カカカカと笑いながら片手を上げる。


「す、すみません、レザード様、オレ……」


「そいつはワシの客じゃ。下がっとけ」


「はい……」


 キバと呼ばれた狐面の少年は、刀を鞘に納めた俺の足元から立ち上がると、俺に悔しそうにひと睨み寄越して、部屋から出ていった。


「あんな子どもまで家来にしてんのかよ」


「人聞き悪いのぉ。いらん言うのにずっとワシにくっついとるんじゃ。で、世間から隔離されたバケモノさんが、ワシになんの用じゃ」


 深くソファに体を預けたままのレザードの元に、俺は大股で近づいていった。


「噂で聞いた。マリアが、まだお前んとこから抜けられずにいるって」


「あぁ。そりゃ、アイツはウチの幹部じゃからの。そんな簡単に抜けられたら下のモンに示しがつかん」


 レザードは冷笑した。


「あの冷徹娘が土下座で頼んできたときは、面食らったわ。アイツが胸に埋めとる《煉結晶》がいくらすると思っとるんじゃ。これからも働いて、コツコツ返してもらわんと。……ほんで? 脅しにきたんか? 確かにお前にここで暴れられたら、ワシはかなり困るのぉ。なんせ世界を滅ぼすバケモンさんじゃけえ」


 あぁ、俺はバケモノだ。もう、ハルやマリア達と一緒にいることはできない。でもあいつらが大好きだ。離れていても、あいつらのことばかり考えてしまう。


 ハルとマリアは、互いに想い合っている。近くで見ていたから、分かる。二人には、幸せになってもらいたい。俺が近くにいられなくても、二人には、笑っていてほしい。


 懐に手を入れた俺に、レザードがぴくりと反応する。ソファに預けた体重が、前にかかる。いつでも俺の喉笛を最短で斬れる、戦闘態勢。


 俺は懐から、麻袋を取り出すとレザードに投げ渡した。


「あん?」


 受け取ったレザードは、中身を覗き込むなり糸目を見開いた。


「金貨130枚。それでマリアを売ってくれ」


 新客の頃から銀貨数枚単位で貯め続けた貯金。新人大会の報酬50枚と合わせて、俺の全財産だ。これで駄目なら、白皇に頭下げて借金してでも積むしかない。


 レザードは、下衆だが、取引のできる相手だ。


 『ウチに手ェ出した落とし前はつけてもらわんとの』『お前の物差しで測って気に入らんからって、指図するなや』『ワシになんの筋も通さずファミリーを抜ける気か?』――これまでの言動の端々からそれが窺える。


 こいつにはこいつなりの物差しがあり、美学がある。頭ごなしに拒絶し、対話を放棄するのではなく、もし対等な立場から取引を持ちかけることができたら、レザードは多分、耳を貸す。


 あのムカつく王も、レザードも、力でぶっ飛ばして言うこと聞かせてやれたら痛快だろう。でもそれでは、俺より強いのに王や他者を尊重し、共存している白皇やカンナたちには到底及ばない。


 バケモノと呼ばれて、俺は恐れられることの孤独を知った。真っ先に俺を恐れ、攻撃し、拒絶するのは、決まって俺のことをろくに知りもしない奴らだ。


 それから、考えるようになった。腹が立つやつ、生理的に受けつけないやつ、救いようのない下衆だと断じたやつにも。想像力を、捨ててはいけない。見る前に、蓋をしてはいけない。


「レザード。お前のことは大っ嫌いだけど、ちゃんと見てみた。大っ嫌いなのは変わらないが、お陰でお前に刀を向けるよりは、マシな選択ができた気がする」


 レザードは初めて見せる表情で、麻袋と俺を交互に見た。ベテランウォーカーのレザードにとっては、金貨130枚など目も眩むほどの金額ではないだろう。だが、マリアがレッドテイルに納める金だけでその額に達するには何年もかかるはずだ。マリア一人の脱退をただ認めるだけでいいレザードにとって、破格の取引。


「お前……そうまでしてあの女を助けたいんか」


「俺たちは三人セットだったんだよ。マリアがいなきゃ、ハルが独りぼっちになっちまう。……足りるか」


 レザードは、はぁ、とため息を一つついた。


「ちっと多すぎるわ。借り一つ、ってことにしとくで、"旦那"」


 その呼び名からは、これまでの侮るような声音が消えていた。

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