第19話 再出発-2

 翌朝、点灯した空の光で目を覚ますと、鼻や喉の中がからかった。やはり不衛生な部屋で寝るものではない。


 光が差し込んで、部屋の様子が昨晩に比べてずいぶん鮮明に見えた。かといって綺麗に見えるかというと全くの逆で、俺はこんな汚い部屋で一晩過ごしたのかと愕然とした。埃は雪のように積もり、壁や床があちこち朽ちて、虫がわいている。うげ、と顔をしかめ、たまらずひらりと一階に飛び降りた。


「ぎゃんっ!?」


 着地した瞬間に床が割れた。俺の下半身は完全に床に埋まり、割れた床板が宙を舞う。いくらなんでもボロすぎるだろ。憮然とする俺の頭上に、上品な笑い声が降ってくる。


「おはよう、シオン」


「……見てないで助けろよ」


 白皇の手を借りて、床から這い出す。床板は丸ごと取り替えだ。木材も買ってこなければならない。


「窓という窓全部開けて、ひとまず換気だ!」


「はーい」


 俺たちは手分けして部屋中の窓を全開にした。途端に北からのそよ風が入り込んで、部屋の空気が洗われる。


 仕上げとばかりに玄関扉を開けた俺は、小麦畑の畦道を渡り、荷車を引いてこちらへ向かってくる人影を見つけた。


「……ハル?」


 黄金色の小麦畑がよく似合う金髪の少年は、俺に気づくなり、荷車を置き去りにして猛スピードで走り出したかと思うと、一気に俺の元まで飛び込んできて――


「おらぁっ!!!」


 渾身の跳び蹴りを叩き込んできた。


「げふっ!?」


 腹に凄まじい衝撃がきたかと思うと、俺は玄関から部屋の中央まで吹き飛ばされ、木製テーブルに激突、机は真っ二つにへし折れた。買い換えるものがひとつ増えた。


「なんで帰ってこなかったんだよ!? 夜通し待ってたんだぞ!」


 ものすごい剣幕で家に入ってきたハルに、俺は慌てて弁明した。


「い、いや、実は王に帰るなって言われててよ」


「知ってるよ!」


 え、と困惑する俺に構わずハルは怒気を込めた口調で続ける。


「昨日の夜に王様の遣いが家にきたからね! シオンは北門の側に移るから荷物をまとめておけって! 家の周りには警備もいたよ。でも……君なら帰ってくるじゃないか! イタズラっ子みたいに笑って、窓からでも煙突からでも、帰ってくる! それがシオンだろ! 君に言いたいこと、謝りたいこと、こっちはたくさんあったんだぞ……」


 唇を噛むハルに、俺は、「俺もだ」の一言が出なかった。俺もだ、ハル、言いたいことがたくさんあった。


「だから、君の荷物を運ぶ役を引き受けたんだ。あの荷車に、白皇さんのも積んである」


「……そうか。悪いな。そのへん置いとってくれ」


「っ、なんだよ! 迷惑だったか!? 昨日言ったばかりだろ、一人で抱え込むのは……」


 近づいてきたハルに、俺は鋭く怒鳴った。


「それ以上!」


 ピタリ、とハルの足が止まる。


「……近づくな」


 暴走の記憶が、断片的に頭の中を這い回る。ハルは青い目を揺らして、俺を呆然と見下ろす。


「シオン……僕は、君と、今まで通りの関係でいたいよ。ただ、それだけなんだ」


「それは、無理だ」


「なんで……」


「だってお前――俺のこと、怖いだろ」


 ハルは目を見張り、生唾を飲み込んだ。それだけで答えは出た。心が冷え切っていく。


 お前は、分かりやすいんだよ。


「お前の気持ちは嬉しいよ、ハル。でも、無理だろうが。もう俺、気安くお前の肩を組んだり、背中合わせて戦ったり……できねえよ……!」


 昨晩で、涙腺が緩くなってしまったのだろうか。情けなく涙ぐんで振り絞る俺に、ハルはたじろいだ。ハルが本心で俺を変わらず思ってくれていることは、十分伝わっている。


 でも、ハルの心の隅っこに、今まで通りじゃいられないものが巣食ったことも、誤魔化せない。


 そりゃ、怖いよな。いつ暴れ出すかもしれない、爆弾みたいなバケモノだ。逆の立場なら、俺だって……だから、仕方ないことなんだ。


「辛いんだ。もう、お前の顔見るのも辛いんだよ。戻りようがねえ昔思い出しちまうから、だから……」


 出会った日から、毎日並んで一つの布団で寝た。一人きりで、毎晩心細かった月明かり一つない真っ暗闇の夜が、あの日から途端に温かくなった。


 飯を食って、学校に行って、剣を教えて、勉強を教えてもらって、喧嘩したり、怒られたり、救われたり。色んなことを、思い出す。全ての記憶にハルがいる。アカネでの思い出は何一つ、ハルなしでは語れない。いつでも隣にお前がいた。昨日の決勝戦は、人生で、最高の思い出だ。


 ハルの笑顔、怒った顔、泣き顔、そして昨日、戦いの中で初めて見せた顔。全部が矢継ぎ早に脳裏を駆け抜ける。


 今まで、本当に楽しかった。ありがとう、生まれて初めての、俺の友達。



「もう、俺に近づかないでくれ」 



 俺が、お前を殺す可能性なんて、一ミリだって残すわけにはいかないんだ。


 呆然と見開いたハルの目から、一筋の涙が零れて頬を伝った。俺の頬にも。ハルの唇が震え、打ちひしがれ、引き結ばれる。あらん限りの力で、どうにか奮い立たせたように。


「いや、だよ。嫌われたわけじゃないなら、そんなの」


「嫌いになんてなれるかよ。でも顔も見たくない。もう、行ってくれ」


 泣きながら笑った俺に、ハルは両手をだらんと下げて立ち尽くした。


「マリアや、ユーシスたちにも。機会があったら頼む」


 背を向けたハルは返事もせず、震えながら、ゆっくりした足取りで出て行った。ハルが見えなくなった途端、せきが決壊したように、俺は膝を折って泣き崩れた。こんなに泣いた記憶はないぐらい、大声を上げて幼子のように泣いた。


「……君は大変な選択をしたね。鈍感なふりをしてこれからも彼と一緒にいれば、そんな張り裂けるような思いをすることはなかっただろうに」


 白皇の口ぶりは、俺に正しかったと言ってくれているみたいだった。正しくなんてない。ハルにあんな顔をさせる選択が、正しくあってたまるか。これしかなかっただけだ。選択じゃない、俺には、選べるものすらなかった。


 格好がつかないかもしれないけれど。泣きながら、俺は筋違いなことを願っていた。自分でも、本当に情けないと思う。


 もう二度と目も合わさなくなったとしても、ハルが、俺のことをずっと好きでいてくれたら。俺が、そうであるように。

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