第9話 祭り囃子-3

 血の気が引いていく。叫び声の主はコトハだった。そして、血まみれで倒れているのは――ユーシス。たった数十分前まで俺たちと一緒にいた、彼が認めるかは分からないが、俺の友と呼べる人。


 抱き上げられたその顔はろうのように真っ白で、ぐったりと閉じた目は開く気配もない。


 駆けつけた俺は、胸に走る傷跡を目の当たりにして愕然とした。頑強そうな深紅の軽鎧ライトアーマーごと、胸部がぱっくり切り裂かれている。三本の、巨大な獣の爪がつけたような刀傷だった。


「おろ、随分早いご到着じゃのォ」


 しゃがれた、独特ななまりのある英語が刺すように投げかけられた。


 路地の奥に、大きな酒樽に両膝を立ててひとりの男が座っている。折り畳んだ脚が不気味なほど長い、鋭利なシルエットの男だった。


 赤い髪を刈り上げた左側頭部には剃り込みが刻まれ、左耳に三つのピアス。襟の立った黒いシャツにド派手な赤のスーツを着こなし、どこか人を小馬鹿にするような赤い瞳の狐目が、品定めするみたいに俺を観察していた。


「誰だ、お前」


 低く問いながら、男のスーツの胸ポケットから覗くハンカチに、蜥蜴とかげの刺繍が施されていることに気づいた。


「《レッドテイル》……」


「おォ当たりじゃ。お前以外と観察力あるのォ」


 よっと、と男が酒樽から飛び降りる。立ち姿はより一層ひょろ長く感じた。二メートル近い長身痩躯が、まるで一振の刀のような殺気を帯びている。


「黒い軍服に腰の刀……あぁ、ワシのファミリーに喧嘩ふっかけたルーキー、もしかしてお前のことか?」


 ひらりと伸ばした男の右手が、真っ赤な血に濡れているのに気づいたとき、こめかみの血管に焼けるような痛みが走った。


「お前がやったのか!!!」


「大袈裟じゃのォ、ちょっとでただけじゃろうが。先に掴みかかってきたのはそいつじゃぞ」


 ウォーカー同士のいざこざで、ユーシスが剣を抜くはずがない。ただでさえハルとの戦闘で消耗していたユーシスを、この男は一方的に攻撃したのだ。許せない。地べたに這いつくばらせて、詫びを入れさせてやる。


「おぉ、やる気か。ええでええで」


 狐目を細めて狡猾に笑む男を、睨み殺さんばかりに凝視して今にも飛びかかりかけた俺は、全精神力を使って矛を納めた。


「……こいつの手当てが先だ。構ってほしけりゃしばらくそこで順番待ちしてろ」


 跪いてユーシスの顔を確認する。酷い出血で顔は蒼白、か細い呼吸こそしているが意識がない。医療煉術を使えない自分が恨めしい。一刻も早く病院に連れていかないと。


「……なんじゃ、とんだ腰抜けじゃのォ」


 挑発に乗るな。暴れ狂う衝動を必死に押さえつけながら言い聞かせる。珍しく取り乱しているコトハに「立てるか。心配するな、助かるよ」と声をかけ、ユーシスを抱き抱えようとしたとき、背後の殺気が音もなく接近してうなじに触れた。


「固いこと言わず遊んでけぇや」


 息を呑み振り替えると、目と鼻の先に男が立っていた。速い、などという次元ではない。音もなく、風もなく、まるで影を伝ってきたように男は突然距離を詰めたのだ。


「コトハ、ユーシスを連れて走れ!」


 全細胞が警笛を鳴らした。男の右腕が閃き、俺の首筋に向かって蛇の如く迫る。咄嗟に腰の刀を鞘ごと抜いて、その爪が俺の頸動脈に達する寸前のところを受け止めた。凄まじく重い手応えを伴って、散った火花が一瞬路地と男の顔を明るく照らす。


「ぐお……!」


「悪くない反応じゃのォ」


 こんな細身で、なんて馬鹿力をしてやがる。仰け反る俺をなおも力任せに押し込む男の右腕は、人のモノではなかった。


 スーツの袖から出た手の皮膚を覆い尽くすのは、ぬらりと光る深紅の鱗。そこから伸びる五指はいびつかぎ型に湾曲し、常軌を逸して長い漆黒の爪が、今にも防御に構わず俺の首筋に到達しようとしている。


 あえて形容するなら、それは――竜の、鉤爪。


「お前、何者だ……!?」


「名前ぐらいは教えちゃるわ。レザードじゃ、よろしくなァ」


 狐目を細めて笑った直後、レザードは右腕を無造作に振り抜いた。それまでどうにか拮抗していたかに見えた競り合いは一瞬で崩落し、俺の体は路地の壁に叩きつけられた。


「うぎ……!?」


 全力で抵抗するも、竜の爪は人ならざる馬力で俺を押し潰す。背につけた石造りの壁に盛大な亀裂が走り、胸の奥から血の味が込み上げた。


「ハァァァァァッ!!!」


 上擦ってもなお凛とした雄叫びを上げ、横から黒い影が乱入した。レザードにとってもそれは予想外のことだったらしい。糸目を見開いたレザードの、俺を押し潰す右腕に、懸命に助けに入ったコトハの木刀は想像を越えた鋭さで叩きつけられ――木刀の方が、中腹から真っ二つにへし折れた。


「は……」


「こりゃ驚いた。嬢ちゃん、次は真剣を持っておいでぇ」


 空中で無防備なコトハの体を、目にも留まらぬ蹴りが後方へ毬のように吹き飛ばす。コトハの体は路地を抜けて屋台の一角に激突し、群衆の悲鳴を呼んだ。


「あり……力の加減は難しいのォ」


「て、めぇ……!!!」


 あらん限りの力で右腕の圧力に逆らう俺を、レザードはうとましそうに一瞥した。


「ワシにもギルドの立場があるからのォ、命までは取らんでやるわ。けどウチに手ェ出した落とし前はつけてもらわんとの。そうじゃなぁ」


 竜の腕が高速で弾け、俺の首を凄まじい握力で掴んだ。声も出せず苦悶する俺の体が、ふわりと浮き上がる。気管の空気が締め出され、全く息ができない。


「まぁ、両足スパーンで許しちゃるわ。ワシって優しいのォ」


 冗談じゃない。首を掴まれた体勢のまま必死で刀を引き抜こうとした俺の右腕は、レザードの長い足に踏み抜かれ、背後の壁に縫い止められた。ミシミシミシ、腕の骨が悲鳴を上げる。


「歯ァ食い縛りや」


 三日月型につり上がった口角から長い舌が覗く。洒落を言っているような目ではなかった。この男は躊躇などしないだろう。レザードの振りかぶった左腕も、茜色の空にかざしてみるみる竜のそれに変貌していく。


 どんな剣より鋭利な爪から、俺はどうにか致命傷を避ける受け方だけを考えた。そんなものありはしない。プロなら、この距離で獲物を仕留め損なうようなミスは絶対にしない。


 レザードの左腕がピクリと動いた。痛みに備えて目を閉じかけた、その瞬間――清廉な香りと共に、俺の前を白い突風が駆け抜けた。


「レザード……あなた、私に殺されたいの?」


 信じがたい光景だった。光の如く駆けつけたカンナが、その細腕一本で、手首を掴んで竜の腕を止めているのだ。


 カンナは私服姿で、帯剣もしていない。それなのに至近距離からレザードを睨み上げる鳶色とびいろの瞳に宿った、どこまでも静かで、凄絶な殺気は、蚊帳の外の俺でさえ背筋が凍るものだった。


「《舞姫》……あんた帰ってきとったんかい」


「こっちの台詞よ《火竜かりゅう》。あまり見たくない顔ね」


「お互いのォ」


 ゴギゴギ、と凄惨な音がして、カンナの掴んだレザードの手首が不自然に曲がる。レザードは顔色ひとつ変えなかった。


「やめじゃやめじゃ。あんたとはやり合いたくないわい」


 レザードは殺気を引っ込め、肩をすくめた。俺の首から手を離すと、途端に解放された俺はそのまま地に落下し、激しく咳き込む。


「私のお友だちに手を出しておいて、腕の一本で帰してもらえると思ってるの?」


「十分高すぎるじゃろうが。治るのに五分もかかるんじゃぞ。それに、はよそこのお友だちを病院に連れていってやらんと死ぬで」


 カンナは倒れているユーシスを一瞥すると、パッとレザードの手首を解放した。レザードは折れた手首をゴキリと強引に元の角度に戻してから、やや疲れた様子で俺たちに背を向けた。


「のぉ、そこのザコ刀使い。お前は中途半端じゃなぁ。お前、どう考えても"コッチ側"じゃろ」


「シオン君、無視していいよ」


 しゃがんで俺の顔を覗き込むカンナの可憐な顔を見つめながら、俺の耳はどうしてもレザードの言葉を無視できなかった。


「ウチのマリアみたいに、お前ももっと欲望に素直になれや。この世界はそういうやつの味方をするで」


 レザードはカカカ、と笑い、路地の奥に吸い込まれるように消えていった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る