第2話 コトハ・ナツメ-1
肉の焼ける香り以上に素晴らしい匂いを俺は知らない。熱された鉄板の上で、白い煙を上げて脂を落としていく肉が、少しずつ赤みを失わせていく様子を見ていると、それだけで幸せになる。
「おぉぉ……うまそう……」
「シオン君、相変わらずの食い意地ね」
目を輝かせ、よだれまで垂らさんばかりに目の前のステーキを見つめる俺に、カンナが楽しそうに笑った。
歓迎祭の夜、あの店で、今度は俺にステーキを奢らせてほしいーー先日、勇気を振り絞って俺はカンナを誘った。カンナは快諾してくれて、俺はこの日を、ずっと心待ちにしていた。
……のだが。
「悪いな、こんな大所帯になっちゃって……」
二人で来るはずだったステーキハウスに、今俺たちは五人もの人数で詰めかけていた。カンナは笑顔で手を振った。
「ぜんぜん! 皆で食べた方が楽しいし!」
「すみません、僕までお邪魔しちゃって……」
隣でハルが恐縮したように頭を下げる。
「新人ウォーカーのアルフォードと申します。まさかカンナさんとお食事できるなんて……」
「固いよハル君! 君の話はシオン君からよく聞いてるし、活躍も知ってるよ。そんなに緊張しないで」
カンナに微笑まれて、ハルは顔を赤らめて俺をこづいた。
「カンナさん、名前は有名だけどこんなに綺麗な人だったなんて……羨ましいよシオン」
「何がだよ」
小声で言い合ってから、もう片方の隣に目を向ける。そこにちょこんと座っているのは、俺が今日最初に助けたアメリカ人の少女。
「レン、食欲あるか?」
「は、はい!」
レンはパッと赤褐色の目を見開いて、ぶんぶん頭を上下に振った。ショートカットの金髪がひらひら揺れて、いい香りが飛んでくる。
向こう側の席、カンナの隣には、長い黒髪の少女が、行儀よく、物静かに座っていた。一見、宇宙の心理でも考察しているような真剣そのものの眼差しは、真っ直ぐ鉄板の上のステーキに注がれている。さすがは妹、血は争えない。
俺、カンナ、ハル、レン、コトハ。いかにも珍妙なメンバーでの夕食となってしまったのには、わけがある。
妹ーーコトハが目を覚ましたとき、彼女は俺のことを、何一つ覚えていなかった。
最初は、記憶喪失とか、他人の空似とか、いろんなことを考えた。それで、去年マーズが語ってくれた"神話"を思い出したのだ。
毎年百万人もの人間が地球から消えていれば、大ニュースになるに決まっている。そうならないということは、何か、俺たちの知らないところで世界の
たとえば、アカネに呼ばれた人間は、「最初からいなかったことになる」、とか。
去年、俺が地球から消えた瞬間、棗 詩音という人間は、最初からいなかったことになったのではないか。世界線とか、平行世界とか、どういう原理かは俺には想像することしかできないが、とにかく俺の存在が抹消された世界を、その後の地球人が何食わぬ顔で生きていたとしたら。
コトハは、俺の存在しなかった棗家で育ち、今日まで生きてきたことになる。そして今日、俺と同じようにアカネに呼ばれたのだ。俺とハルは、二人で話し合って、そう仮説を立てた。
コトハは俺のことを知らない。思い出せないのではなく、最初から、俺のことなど知らないのだ。俺にとっては妹でも、コトハにとって俺は、赤の他人。
だから……俺が彼女の兄であることは、これからできる限り隠していこうということになった。
俺はこの危険な世界から、コトハを守りたい。だが、俺が兄だと明かせば、コトハは気味悪がって、俺から離れようとするだろう。
コトハが妹だということは、俺とハルだけの秘密。当然、一緒に暮らすことなんてできない。今日、俺がずっと楽しみにしていたデートをぶち壊しにしてでも、コトハ(とついでにレン)をカンナに会わせたのには、狙いがある。
この二人を、カンナに保護してもらえないか頼むためだ。必要とあらば、カンナには秘密を打ち明けても構わないと思っている。
「コトハちゃんもお腹空いてるみたいね。なんだか誰かにそっくり」
幸いカンナはさすがの鈍感っぷりで、俺たちが兄妹なんてつゆほども思っちゃいない。
「……ご馳走になります」
コトハはカンナと俺の顔を交互に見て、かすかに頭を下げたが、俺の時には少しだけ顔を不審げに歪めた。俺は頬をかきながら苦笑するしかない。
俺がコトハの名前を知っていたことについては、「寝言で呟いていた」とか適当に言って誤魔化したものの、この通り不信感は拭いきれていない。明らかに馴れ馴れしかったし、家に連れ込んでベッドに寝かせていたのだから、当然である。
「さ、さ、食べよ!」
全員ぶんのステーキが揃ったところで、カンナが笑顔で手を合わせた。レンは150g、カンナとハルは200g、俺は600g。コトハに至っては「三十分以内の完食で無料! 爆盛り1000gステーキ!」を頼みやがった。
昔から人に気を遣うとか空気を読むとか、そういうことが全くできないやつで、今回も「無料……お得……」ぐらいの思考回路に違いない。無料ならご馳走にならずに済むと考えた辺り、むしろコトハにしては気を遣えていると言える。
案の定俺以外の三人は軽く引いているが、彼女は間違いなくこれを完食するので、これからもっと引くことになると思う。
こうして、奇妙なメンツでの食事会が始まった。
「それにしても……たった一年でシオン君がウォーカーになっちゃうなんて。それどころか、二人も新客を助けてるんだもん。しかもこんなに可愛い女の子二人」
ステーキを頬張る傍ら、にやにやしながらそう言い出したカンナに、「何が言いたいんだよ」と毒づく。
「ううん。でも、二人とも運がよかったねぇ。シオン君たちに助けてもらえて」
「は、はい!」
顔を赤らめてレンが食いぎみに頷く。
「……保護していただいて、ありがとうございました」
コトハは俺から目線をそらさず、小さく頭を下げた。心が痛むほどの他人行儀だ。地球にいた頃は、兄さま兄さまって懐いていたのに。
「最初は怖いかもしれないけど、町の中は安全だから。何かあっても私たちが守るから、心配ないよ」
「あぁ、そのことなんだけど。ちょっとカンナに頼みがあってさ」
「なに?」
「この子たち二人を、保護してもらえるところに宛はないかな? ほら、聞けば二人とも俺の一個下で……そんな女の子をあの汚いニュービータウンで暮らさせるの、かわいそうでさ」
「僕からも、お願いします」
ハルも頭を下げてくれた。カンナは「なるほど」と考え込む仕草をした。
「本人たちの前だから、言いにくいけど……若い女の子の新客ってすっごい狙われやすいんだよね。先客だけじゃなくて、破滅的な考えに陥っちゃった新客とか……。すごく危ないと思う。私も、マーズさんが引き取って一緒に暮らしてくれたのは、それを心配したかららしいし」
俺とハルも、全く同じ心配をしていた。この世界にいきなり召喚され、半狂乱になった男の中には、普段の判断能力があればあり得ない暴挙に出る者がいると聞く。特に性犯罪が多いのは、強い命の危険や不安を感じることで、種の保存という生物の本能が強まるからだそうだ。
コトハは強いからまだその辺は安心だが、レンは心配だ。カンナが微笑んだ。
「二人ともうちにおいでよ。もちろん、よければだけど」
「え、いいんですか……?」
レンは目を丸くする。
「もちろん。私もね、九歳のときにこの世界にきて、怖くてたまらなかったとき、女の人が優しくしてくれたの。恩が返せるみたいで、私も嬉しいから」
さすがは聖母。俺は半ば打算的に安堵した。カンナは、手の届く限りの人間は全て救おうとするような女だ。宛を教えてくれというだけで話は進むと確信していた。カンナのところなら、世界一安全と言っていい。
「ご迷惑では。私は一人でも大丈夫です」
「だーめ。知り合っちゃったんだから、もう心配で気が気じゃないよ。それにコトハちゃん、なんだか誰かに似ててほっとけないし」
「はぁ……では、少しの間だけ」
堅物のコトハも陥落し、カンナは満足げに頷いた。
「よし、決まり! 私も一人は寂しかったから嬉しいよ! ……ところでシオン君とハル君、今度の新人大会には出るのかな?」
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