茜色の異世界 冒険者シオン・ナツメ編

Prologue~とある少女の異世界召喚~

「お待ちどお」


 ウェイターが運んできたホットサンドの素晴らしい焼き色に、レン・フローレスは表情をほころばせた。


 夏休み真っ盛りの八月四日。午前中の補講を終えて友人たちと下校する途中、レンはホットサンドが美味しいと評判のカフェテリアに寄り道をしていた。


 いざ目の前に現れた評判の品に、思わず口の中が湿る。ハムとチーズ、しゃきしゃきのレタスを挟んだパンが黄金色こがねいろに焼けて、カットした断面からチーズが溶け出していた。


「きゃ~っ! 美味しそう~!」


 友人たちと目を輝かせ合い、食前の祈りもそこそこにナイフを手に取る。これでも街では名の知れたお嬢様学校の制服を着ているので、手にもってかぶりつきたいのはやっとこらえた。


 一口大に切り分けたサンドをフォークに突き刺し、とろけ落ちるチーズをくるりとからめとって、ぱくり。


「ん~~~~~~~~っ! ……幸せぇ」


 口の中にジュワッと溢れた味に、レンは悶絶してぎゅっと目を閉じ、頬をだらしなく緩めた。


 彼女が再び目を開けたとき、最初に見たのは、血で染めたような赤い空だった。


 体重を預けていたカフェの椅子が消えて、レンの体は後ろにひっくり返った。したたかお尻をうちつけて、仰向けに転がったレンの視界には、この世のものとは思えない深紅の空が広がる。


 洒落たカフェテリアの内装も、磨き抜かれたガラス窓から差し込んでいた夏の日差しも、友人たちの笑顔も、食べかけのホットサンドも、何もかもが忽然こつぜんと消えて、レンは知らない場所に転がっていた。きちんと怖くなるのには、少し、時間がかかった。


 不気味な空には、太陽も月も見当たらなかった。空だけでなく、辺りに生い茂った木々の、幹から葉の一枚一枚に至るまで全て、燃えるように赤い。とんでもなく遠い場所にきてしまったのではないか、という疑念が、わずか十四歳の少女の胸を蝕んで、レンは不安でたまらなくなって叫んだ。


「パパ……! ……ママぁ……」


 どれだけ叫んでも、大好きな家族も、友だちも、誰一人助けにきてはくれなかった。代わりにその声は、ナニかを呼び寄せた。


 背後の茂みが激しく音を立てて、びくりと振り返る。大きな足音、気配を隠そうともせず、なにか巨大な存在が木々を掻き分けてくる。小さな体を震わせ、戦々恐々とその先を見つめるレンの目の前に、次の瞬間、紅蓮の森から巨大な獅子が躍り出た。


「ヒッ、ひぃぃぃぃぃぃッ!! イヤァァァァァァァァッ!!!」


 ただの獅子でも恐ろしいのに、その獅子は普通ではなかった。桧皮ひわだ色のゴツゴツした頭部から、深紅のたてがみが炎のように生え広がって、二メートルを軽々と越える全長の全てを覆い尽くしていた。低く唸る口の端から、白い噴煙がほとばしる。


 どこか神秘的な美しさえたたえる獅子の姿に、心を奪われる余裕なんてレンには欠片もなかった。爆炎をまとうような獅子の面に睨まれ、その前肢まえあしが一歩進み出た瞬間、レンは叫ぶことも逃げることも許されず失禁した。


 股がじわりと温かくなる屈辱で、まなじりに大粒の涙が滲んだ。なぜか、つい数分前、カフェテリアのテーブルでホットサンドを頬張っていたときの記憶がフラッシュバックした。今、皿の上にいるのは自分の方だ。


 獅子の体は高熱を帯びていた。動けないレンの、目と鼻の先に獅子の顔が近づく頃には、むせ返るほどの熱気がレンの肌を焼いた。大きく顎を開けた獅子の、唾液にまみれた口の中を虚ろに見つめて、レンは最後の抵抗、腹の底から泣き叫んだ。



「--間に、合っ、たぁッ!!」


 まさに、剣山のような牙に頭を噛み砕かれる直前。横合いから突進してきた何者かが、獅子の巨体を吹き飛ばした。


 地を弾みながら滑走する獅子は素早く体勢を立て直し、起き上がると鬼の形相で咆哮ほうこう。レンの目の前には、黒い軍服の上に白いマントを羽織った、黒髪の少年が立っていた。背は低く、中性的な顔立ちも相まって、性別は断定しづらい容姿であったが、レンが少年と決めつけたのは、彼が王子さまに見えたからだ。


 黒い刀を片手で握り、獅子に油断のない眼差しを向ける少年のマントが風になびいて、背に刻印されたエンブレムがあらわになる。


 金糸で刺繍された、美しい薔薇だった。


「怪我はない?」


 アジア系の顔立ちから、流暢な英語で問われて、レンは混乱した頭でどうにか頷いた。間もなく、青の鎧に同じマント姿の金髪の少年が、息を切らせて駆けつけた。


「ハル、その子を頼む」


「は、速すぎるよシオン、置いていかないでよ」


「お前を待ってちゃ間に合わなかったっつーの。そんな重たい鎧着てるからだ」


「鎧を着ないウォーカーなんて君くらいだぞ……」


 ぶつくさ言いながらも、ハルと呼ばれた金髪の少年はレンに近づき、膝をついて目線の高さを合わせると、優しく微笑んだ。


「怪我は、なさそうだね。もう大丈夫。助けに来たよ」


 こちらも、王子さまのようだった。レンは夢でも見ているような気持ちになって、彼にいた。


「あ、あなたたちは……」


 ぶったぎるように獅子が吼え、レンたち三人に向かって猛烈な突進を仕掛けた。背後の二人を庇うように前に出た、シオンと呼ばれた少年も駆け出す。刀とたてがみが真っ向から激突し、その衝撃の凄まじさに、大気がビリビリ震えた。


「僕らは、冒険者ウォーカーだよ」


 シオンの叩きつけた黒いやいばは、分厚く波打つ紅蓮のたてがみの数本を切断するにとどまり、受け止められていた。舌を打ち、空中で獅子の顔を蹴り飛ばしてシオンが後退する。


「こいつのたてがみ、刃が通らねぇ! 水みたいに受け流される!」


「そいつは《ヴァルムズ》、たてがみには触らないで! 一本一本がピアノ線並の硬度で緩衝材クッションになるだけじゃなく、触った相手を絡めとってズタズタにする。数百度に熱されてるからシオンでも火傷じゃ済まないよ!」


「おいおい、先に言えよ」


 冷や汗混じりに笑い、シオンが距離を取る。獅子は蹴りの威力が強烈だったか、ぶるんぶるんと首を振ってよろめくと、狙いを変えてハルとレンの方を目掛けて地を蹴り飛ばした。


「そっち行ったぞ!」


「分かってる! 君、少し離れてて!」


 ハルはレンを庇って前に飛び出すと、背に担いだ岩のような円盾を構えて腰を落とした。ぺちゃんこになってしまいそうな体格差にレンは思わず目を覆ったが、ハルは重量級の突進を見事に受け止め、受け流すと、空いた手に握った剣で獅子の鼻っ面を突いた。


 傷は浅く、ダメージはほとんどなさそうだったが、獅子がたたらを踏む隙にハルは素早く離脱し、背後のレンを抱き上げてただちに獅子から距離を取った。背を向けて走るハルに凄まじい睨みをきかせると、獅子は大口を開け、銃口のようにそれをハルの背に向けた。


 その口から、大量の噴煙とともに、紅蓮の炎が集中していく。


「っ、おいハル、何かくるぞ!」


 獅子の口で勢力を増していく炎は間もなくバランスボール大の火球に成長すると、大砲の如く放たれた。恐ろしいスピードで低空を飛翔し、あやまたずハルの背に襲いかかる。


「大丈夫、これを待ってた」


 ハルはくるりと振り返ると、自分とレンの体を庇うように盾を構えてぐっと下半身に力を込めた。至近距離に迫った特大の火球が盾に触れる瞬前、盾が、茜色に光り輝いた。


「【リフレクション】!」


 直後、ハルの盾を飲み込まんばかりの巨大な火球は、獅子に向かって一直線に跳ね返された。


 発射時のスピードを上回る速度で驀進ばくしんした火球は、泡を食った獅子の鼻っ面に直撃すると、大爆発を巻き起こした。


 悲鳴を上げてのたうち回る獅子のたてがみに炎が燃え移り、バチバチ音を立てて焼け千切れていく。地面の上を必死に転げ回って鎮火した頃には、首回りのたてがみは無惨に焼け落ちて、桧皮色ひわだいろの皮膚があらわになっていた。


「やっと首をさらしたな」


 閃光の如く距離を詰めたシオンの眼が、茜色の光を灯して尾を引く。靴跡から遅れて火の起こるような速度に、獅子も流石の反応を見せた。跳躍したシオンの軌道上に、空気を切り裂くような勢いで鋭い爪が振るわれる。


 それが彼を引き裂く直前、シオンの靴底にまたも茜色の光が灯ったかと思うと、シオンは何もない空中を蹴って“んだ”。その体はふわりと弾んで反転しながら爪を飛び越え、がら空きとなったうなじの真上に躍り出た。


「新・なつめ一刀流――【鳴神なるかみ】」


 落雷が落ちるような一閃だった。天を蹴って急降下したシオンの刀が、雷鳴にも似た轟音響かせ、獅子の首をぶった斬った。


 血しぶきと土煙の中で、シオンは刀を振り払って美しい所作で鞘に納めると、レンに向けて、ようやく年相応の笑顔を見せた。


きたいことが、山ほどあるとは思うけど……それには時間がかかるから、今はこれだけ知っといてくれ」


 ハルの背に隠れたレンのもとまで歩み寄ってきたシオンは、しゃがみこんで笑った。人懐っこい、そのやんちゃな笑顔が、このときレンの心を、どれだけ救ったか。


「大丈夫だ。何も心配するな。何があったって、もう俺が守るからさ」

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