第20話 帰還-2



 温かい。


 揺られていた。誰かの、背中の上だ。鮮やかな赤毛が俺の顔をくすぐる。


「気がついたか」


 気品高い横顔がこちらを向く。気絶した俺を背負ってくれていたのは、ユーシスだった。溺れた後みたいに、記憶がにごっていて、状況をすぐに把握できない。


 なんだか、赤色の海に溺れていたような気がする。燃えるような樹海。赤い毛並みのバケモノ。炎。飛び散る鮮血。閃光。断片的に蘇る記憶のすべてに、鮮烈な赤がある。


 見上げた空は、赤かった。しかし、周りの木々は青く、俺の心をずいぶん落ち着かせた。ハッ、と、全てをようやく思い出した。


「ハルは!?」


「おう、ここにいる。心配すんな」


 隣で豪快な声がして、俺はそこで初めて、すぐ横に巨漢が並んで歩いていたことに気づいた。


「ろ、ロイド教官……」


 にかっと笑ったその顔が、ずいぶん懐かしくて、まなじりが緩んだ。ロイドが背負っている金髪の少年の、寝息を立てる穏やかな顔を見て、俺はいよいよ耐えられなくなって、ユーシスの服に顔を埋めて泣いた。


「ハル……よかった……お前、生きて……」


「よく頑張ったな、シオン。お前らは俺の誇りだよ。すぐに助けに来てやれなくて、本当にすまなかった」


 俺は顔を伏せたまま首を横に振った。あんな場所に落ちて、助けなんて望めなかった。誰があんなところまで、助けに来てくれるというのか。誰も気づいてくれないと思っていた。ロイドは、来てくれたのだ。


「ついたぞ、シオン」


 顔を上げた俺の目に、遠く、妖しい赤空あかぞらの下で力強く建つ巨大な石壁が映った。数日空けただけのルミエール王国が、もう何年も帰っていないふるさとのように見えた。


 門の前に立っていたいくつかの人影が、俺たちに気づいて一斉に駆けてきた。ユーシスは俺をおろし、横から体を支えてくれた。先頭を走ってきた栗毛の少女は、俺とハルの姿を見るなり大きな瞳を潤ませて、勢いよく体当たりしてきた。


「ぐふっ!?」


 飛びついてきたあまりに小さな体は、俺のみぞおちあたりに顔をうずめるなり大声で泣いた。普段よりずいぶん幼い、初めて聞く声にびっくりしながらも、安心して、俺まで泣けてきた。


「ただいま……マリア」


「……………ばかぁ」


 マリアはやっとそれだけ絞り出して、自分の泣き顔は意地でも見られたくないのか、かたくなにしがみついて離れなかった。


 遅れて駆けつけてきたのは、ユーシスといつも行動を共にしていた赤毛の二人組。まだ学生のはずだが、ユーシスが一人卒業した今も、付き合いは続いていたようだ。心配そうに、やや遠慮がちにユーシスを見つめる二人に、ユーシスは「なんだ、その間抜けな顔は」と仏頂面で言い放った。


 平常運転に安心したのか、笑顔になる二人に対し、ユーシスは明後日の方向を見ながら、小さく早口で「心配かけた」と呟いた。


 最後に、一人の女性が、緋色の髪を振り乱し、息も絶え絶えに俺たちの前にたどり着いた。俺は彼女の姿に目を見張った。


 俺にこの世界のことを教えてくれた、大切な人。相変わらず目の覚めるような美女で、でも今は、ミステリアスな雰囲気なんて欠片もない。


「あ……マーズさん、その……俺」


 咄嗟に言葉の出ない俺に対して、マーズは形のいい両目にたっぷり涙をためて、母親みたいな顔で、マリアの上から俺に抱きついた。


 優しく、温かく、強い力で抱きしめられて、誰かにこんな風にされたこと、あったっけって思った。頭の上に大きなロイドの手のひらが落ちてきて、ぐしゃぐしゃに撫でられ、俺はその場に立っているのがやっとになった。ぽうっと心に去来した温水のような感情。ほんの些細な、唯一の願いが、報われたことを実感した。


 あぁ……俺、生きて帰れたんだ。





***





 ユーシスたちとは、ニュービータウンの入り口で別れた。別れ際、背を向けたユーシスは唐突に「アルフォードの目が覚めたら」と言い出した。


「たら……なんだよ」


「ギルドの受付から俺宛に連絡を寄越せ。口約束とて、レッドバーン家の一男いちなんが破るわけにいかないからな。アルフォードも、ちゃんとした装備が必要だろう、ついでだ」


 なんのことやら、最初はさっぱり分からなかったが。そういえば、武器を作るのに付き合ってもらう約束をしていたのだった。俺は吹き出して、頷いた。


「あぁ、楽しみにしてるよ」


 ユーシスは背を向けたままこたえず、取り巻き二人を従えて、キザに片手を上げて去っていった。白薔薇のマントを背負った後ろ姿は、やはり大きく見えた。


 ロイド、マーズ、マリアは、俺とハルを家まで送ってくれた。六畳程度の空間に五人が入ると大変窮屈だったが、部屋がこんなに賑やかになったのは初めてで、無性に心が安らいだ。寝床に寝かせたハルの横に、マリアはつきっきりでいてくれた。


「まぁ、キッチン綺麗に使ってるのねぇ〜!」


 我が家の、非常に狭いながらも整頓されたキッチンを見て、マーズはなにやら感激していた。そのへんは全部ハルが管理していたから、俺は曖昧に笑ってごまかした。


 マーズは俺とハルのために、水や食材を調達してきて薬草粥やくそうがゆと卵のスープを作ってくれた。調理中ロイドは一人手持ち無沙汰で、マーズの後ろを手伝いたそうにうろうろしては「邪魔」とあしらわれてしょげていた。なにやらずいぶん仲が良さそうだ。


 ロイドは確か二年前まで現役のウォーカーだった。ギルドの受付嬢であるマーズとは古い付き合いなのかもしれない。


 ハルは結局目を覚まさなくて、食事は全て俺が食べることになってしまったが、とても温かく、沁みるような味で、あっという間に完食してしまった。


 やがて夜になり、三人も帰ってしまった。途端に静かになった部屋で、俺はなんとなく寂しくて、眠るハルの顔を傍らから眺めていた。


 思わぬ来訪者があったのは、その時だ。


 ドアをノックされて、俺は不審に思いながらも応じて部屋のドアを開けた。そこに立っていた人物を目の当たりにして、俺は数秒、石のように固まった。


「こんばんは。久しぶり、シオン君」


 あまりに可憐な笑顔で俺の前に現れたのは、俺の記憶より十ヶ月分大人になった、カンナだった。

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