第19話 アカネウォーカー-3
自分より遥かに低い位置にある、深いアカネ色の目に睨まれたグレントロールは、全身から
あぅ、あぅ、と声にならない声で喘いでから甲高い悲鳴を上げたトロールは、ようやく硬直の解けた両脚を
空気が
追う気か。ユーシスの予想とは裏腹に、シオンは納刀した剣の柄に手をかけたまま。ぶるぶると、その手が怒りで小刻みに震えている。
間もなく、彼の全身を炎のように覆っていた赤い光が、爆発的に膨張した。
ブホォッ、ブホォッと息を荒げ、顔中の穴から水を噴き出しながら必死に走る腕のない大猿は、何かの気配を感じ取り、ちらと背後を見た。遥か遠く、米粒ほどのサイズになった少年が、火柱を上げて激昂している。
「--死ねェッ!!!!!」
目の前の虚空に向かって、シオンは左手の赤鞘から目にも留まらぬ居合斬りを放った。風を斬る流麗な音が、樹海を一息に突き抜けてトロールの耳に届く。
幾千と重ねた新聞紙を一度に裂いたような快音弾け、数十メートル先、全力疾走中のグレントロールの首が吹き飛んだ。
間欠泉の如く断面から血を噴き出して、腕と首をなくした胴体は二、三歩走ってから転ぶように崩れ落ちた。首は高々と宙を舞い、胴体のほど近くに落下した。
水平に剣を斬り払った体勢で静止していたシオンの身体から、満足したように煉素が去っていく。シオンはその場に、電池が切れたみたいに倒れ伏した。
「ナツメ!」
一目散に駆け寄り、ユーシスはシオンの体を抱き上げた。ぐったりとしたまま動かないが、呼吸は安定している。気を失っているだけだ。
ユーシスを
何より、ユーシスが気になって仕方がないのは最後の攻撃。遠く離れたグレントロールの首を、この場所から
斬撃を、飛ばした? シオンとグレントロールを結ぶ直線上にはいくつか太い木が生えているが、それらに外傷はない。
シオンの居合に合わせ、突然グレントロールの首付近に出現した真紅の
「ナツメ……お前は、何者なんだ……」
穏やかな寝息を立てているシオンに、言い知れぬ寒気を覚えた。それでも、自身も相当の満身創痍に関わらず、深く眠る友を肩に担いで立ち上がった。折れた肋骨やぐちゃぐちゃの内臓が悲鳴を上げるが、歯を食いしばって耐えた。
ハルクの亡骸も、意地でも持ち帰らなければならない。そう考えたが、流石にこの体では、二人を抱えて満足に歩くことは難しい。生きている人間が優先だ。分かっている。しかし……
珍しく、冷静な判断を下せない自分にユーシスは困惑する。その時、くらり、と強烈な
幸か不幸か、地に横たわったことで、ユーシスは初めて、かすかな地響きを察知できた。
心臓がばくんと跳ねる。地響きは規則的に繰り返し、一度ごとに、確実に大きくなる。足音、なのか。バカな。一体どれだけの巨体が歩けば、これほど大地が揺れるというのか。
次の瞬間、ユーシスは、目の当たりにした光景に納得した。
首と腕を斬り落とされて絶命したグレントロールの胴体が転がっている、その先、薄く
それだけでグレントロールの上半身ほどもある、爬虫類の頭部。その顔つきはあまりのおぞましさを超えて、どこか神聖ささえ覚える。
紅蓮の恐竜。全身を覆うのは、ぬたりと光沢を放つ緋色の鱗。
血の匂いに誘われたか。それともグレントロールが、毒の痛みで騒ぎすぎてしまったか。恐竜は泡立つ酸性のヨダレを口の端から垂らすと、その巨体をくねらせてぐんぐん前進し、グレントロールの胴体に豪快に食らいついた。
あんなに巨大だったグレントロールの体が、食べ頃サイズに見えてしまう。べき、ばき、ごぎゅ--ものの数十秒で食事を終えると、恐竜は血みどろの食い残しを踏みつけ、頭が割れるほどの音量で
衰弱した体に鞭打って再び起き上がろうとするも、痛みなのか、恐怖なのか、体はほとんど動かなかった。それでもシオンだけはどうにか背後に投げ飛ばして、ユーシスは全身を硬くして衝撃に備えた。
「--オラァッ!!!」
巨大な
白目を剥き、長い舌をはみ出させた恐竜の頭が飛び、胴体と分断されてユーシスのすぐ横に転がる。その頭だけで、二メートルを超える全長だ。
「よぅ……無事か。ウチの生徒、たった一人で守ってくれてたのか」
黒髪の
《心眼のロイド》。引退して学園の教官になった今も、ギルドで語り草になっている。《白皇》を除けば、現役ウォーカーの誰よりも強いはずだと。まだ三十手前という若さで引退したことに、誰もが疑問符を浮かべた。
結局、どんなに強くとも盲目だから、計り知れない苦労があったのだろうということで人々は納得したそうだ。
だが、目を合わせた一瞬、ユーシスは、ロイドの両目が開いていたように見えた。もし、見間違いでなければ、人の目ではなかった。
「た……助かった」
ロイドは首を横に振って、ユーシスの背後にいるシオンの体を、優しい手つきで抱き上げた。
「すまなかったな……すぐに、見つけてやれなくて」
上流貴族であるユーシスに、こんな口のきき方をする教官はロイドだけである。今まで不快でたまらなかったそれが、今は全く気にならなかった。ロイドはユーシスの方に顔を向けると、弱ったように頭を下げた。
「悪い。ハルクのところに、俺を案内してくれないか。気配を……感じないんだ」
ユーシスはぐっと喉を詰まらせた。ロイドが盲目であることを実感したのは、それが初めてのことだった。
ユーシスの案内で、ロイドは地に横たわるハルクの前にひざまずいた。そっと伸ばした手がハルクの体に触れたとき、ロイドの表情が見たこともないほど曇った。
「ハルク……」
「……ヴァーミリオン、教官。アルフォードは……俺たちの命を救った。勇敢だった」
「そうか……俺はつくづく、教師に向いちゃいねぇなぁ。子どもは俺の想像なんて、簡単に超えていきやがる」
絞り出すようにそう言って、ハルクのほおに触れたロイドが、ハッと息を呑んだ。ユーシスも同時に目を見開いた。
ハルクの全身が、白く、光り輝き出したのだ。
「な、なにが起きて……!?」
ユーシスとロイドの目の前で、ハルクの胸を深く深く抉った刀傷が、少しずつ塞がっていく。奇跡を目の当たりにしていた。蝋人形のように青白かった顔色が、みるみるうちに生気を帯びる。
「これは……」
ロイドは、目に見える情報とは違う何かを感じ取ったのだろうか。この現象に一人だけ、心当たりのあるような顔をしていた。
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