第19話 アカネウォーカー-2



 無限に続くかに思えたグレントロールの慟哭どうこくが、んだ。


 それまで、むごい拷問にかけられ続けているような痛ましい絶叫で喉を枯らし、全身をむしりながら転げ回っていたグレントロールは、その瞬間、き物が失せたように止まった。しばらく死んだように転がっていたが、やがて泥まみれの体を、ゆっくりと起こす。


 見事だった紅蓮の毛並みは見る影もなく、大半が抜け落ちて地面に散乱し、残った体毛はこの数分間の激痛の凄まじさを物語るように、壮絶に脱色され真っ白になっていた。


 グレン、と呼ばれる由縁ゆえんを失ったトロールは、禿げ上がった頭の下の猿顔をキョロキョロと彷徨さまよわせた。その顔色に消耗の色はなく、つい先ほどまで地獄の痛みにのたうち回っていたとは思えない。


《ジゴクラク》の毒を乗り越えた者は、極楽を見るという。それぐらい、毒の効き目は突然訪れ、七日たっぷり襲ったのちに嘘のように去っていく。


 痛みから解放されたグレントロールは、今、血眼ちまなこになって探していた。自分をこんな目に遭わせた、忌々しい金髪の冒険者を。


 熱源感知の眼は、その背中を、すぐに捉えた。熱源が三つ。距離は三十メートルほど。足は止まっていた。容易く追いつける距離だ。


 グレントロールは憎悪に駆られて走り出した。短距離選手のようなフォームで腕を振り、彼らが命がけで離した距離を瞬く間に詰めていく。金髪の冒険者は、いま、うつむく黒髪の冒険者によって地に寝かされるところだった。


 手を下すまでもなく、死んでいるように見えた。しかしグレントロールにとって、それは大した問題ではなかった。ぐちゃぐちゃにして、バラバラに切り刻んで、胃の中に順番に入れられればそれでいい。


 その瞬間を想像し、色の抜け落ちた体毛をわき立たせて絶頂したグレントロールは、よだれを撒き散らして右手の大剣を振りかぶった。横たえられた金髪の冒険者目がけて、恨みつらみを有りっ丈乗せて剛剣を振り下ろす。


 果たして、ハルク・アルフォードの胴体を分断するはずだった黒い大剣の切っ先は、予定より一メートル七十センチほど手前で金属音に阻まれた。


 彼をかばうように進み出た黒髪の冒険者が、左手一本で握った剣を頭上で倒して、とてつもない衝撃の全てをついにその細腕のみで受け切ったのだ。爆風が放射状に飛び散って、ぬかるんだ地面を削る。


「あぁ……もう、いい」


 黒髪の冒険者は、うつむいたまま低く呟いた。全てに絶望し、失望した声音の奥底に、音もなく煮えたぎるような殺意。



「殺す……神も、世界も、もちろん、お前も」



 顔を上げた少年の目は、空を映したような真紅に染まっていた。



 閃光と轟音の下に、一本の火柱が上がる。炎ではなく、そう見えるほど濃い赤色の、質量を持った光のような物質だった。夥しい量の赤いエネルギー体が火山の如く、地から噴出し少年を貫通して天を突く。


 その光の中、苛烈かれつな憎悪に燃える灼眼しゃくがんから一滴、赤い涙が流れて、頬を伝って滴り落ちた。


「ガァッ!!!」


 少年の声では、既になかった。人ならざるおぞましい声の半分混じった絶叫を上げて、少年は頭上の剣を力任せに前方へ斬り払った。


 その一閃はグレントロールの振り下ろした大剣を押し戻すどころか、その巨体もろとも赤子のように吹き飛ばした。ぶちかれる赤い閃光。三メートル半の巨躯が低空を飛び、ぬかるみを弾み、木々を次々と薙ぎ倒してようやく止まるのを、獣のように唸りながら赤い目が睨む。


 彼のすぐ後ろで、呆然と立ち尽くす赤毛の冒険者、ユーシス・レッドバーンは、声もなく戦慄していた。


 シオン・ナツメの身体に、おぞましいほど大量の煉素が集結している。あれは、【煉氣装甲】。煉素を全身にまとって身体能力を上げる、煉術。


 地球人が、煉術を使っている。その事実にユーシスは震えるしかなかった。それも、ただの【煉氣装甲】にしては規模が大きすぎる。


 シオンの周囲でうねり、狂喜乱舞する大量の赤いカケラたちからユーシスが連想するのは、獲物にたかる飢えた狼や、蜜に群がる虫の大群。


 ここら一帯まるまるの煉素が、我を忘れてシオンに群がり、夢中になって力を貸しているのだ。まるで……シオンを、強いモンスターと勘違いしているみたいに。


 地球人は、煉素を感知できない。煉素と対話するすべを持たない。ゆえに、煉術は使えない。そのはずだった。


 しかし、地球人の意思と関係なく、煉素自らが一方的に力を貸すことがあったとすれば--


「ゥゥゥゥゥァァ……ァァアアア……ッ!」


 唸るシオンが右腕を振るうと、失われた肘から先がボコボコと泡立ち、たちまちそれを突き破るようにして新しい腕が生えてきた。


 あ……有り得ない。目を剥いて絶句するユーシスの前で、シオンは具合を確かめるように手のひらを二、三度握っては開くを繰り返す。


 剣を杖のようにして起き上がったグレントロールは、色素の抜けた体毛をぶるんと震わせて吼えた。地響きを上げて猛然と距離を詰めてくるトロールを、赤い閃光が真っ向から迎撃する。


 重機同士の正面衝突を思わせる、凄まじい衝撃が樹海を駆け抜けて大地を抉り上げた。両者弾き飛ばされ、すぐさま再び飛びかかる。


 グレントロールの左右の剣が雨の如く襲うのを、走り、跳び、滑ってかわす。病的にかっ開いた両の目に灯る真紅の光が、尾を引いて虚空を跳ね回る。


 バネのように跳躍したシオンの一閃を、今度はグレントロールが大剣で弾く。三倍の体格差などないかのようなシオンの剣圧に、巨体が揺らいだ。


 腕力も、剣速も互角。それならこの勝負は、決まったようなものだった。


 剣術のレベルが、違いすぎる。


 ぐわりと揺らいだグレントロールの両腕に、刹那せつな、無数の刀傷が刻まれた。グレントロール自慢の長い腕は、細切れになって茜色の空に舞った。


 血の雨と肉塊が降り注ぐ樹海で、腕を失った哀れなトロールは悲壮な顔でわめいた。立つ位置を入れ替えるようにして背後に着地していたシオンは、その赤い目で、細長くなってしまったトロールを汚物を見るように見上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る