第12話 ハルク・アルフォード-3

「なんでこんなところにお前がいるんだ……早く逃げろ……!」


 ハルは俺の言葉を黙殺し、たった一言、短く命じた。


「合図したら目を閉じて」


 俺の知っているハルじゃないみたいだった。怒り狂ったボス狼が吼え、狼たちの包囲網が一斉に縮まる。四方八方から真紅の獣が躍りかかる。爪と牙が今にも俺たちに到達する寸前、ハルは叫んだ。


「今だ!」


 目を閉じるのが一瞬遅れた俺の眼球を、刺すような閃光が貫いた。

 ハルの肩越しに爆散した眩い光。肌に熱を感じるほどの光量だった。眩惑げんわくする俺を、細くも逞しい腕が抱きさらう。目を潰された狼たちの包囲を、ハルは俺を抱えて素早く脱し、茂みを縫うように駆け抜けていよいよ引き剥がした。ハルに担がれて揺られながら、俺の意識もだんだんと遠くなっていった。



 目を覚ましたとき、俺は洞窟のような場所で、ハルの外套を敷いた上に寝かされていた。


 狼に噛まれた箇所には全て止血帯が丁寧に巻かれている。起き上がろうとすると全身に激痛が走り、思わず呻いた。それで、傍らに座っていたハルがこちらを向いた。


「気がついた?」


「……どのくらい、気絶してた」


「一時間くらいだよ」


 微笑むハルは、ゴリゴリ小気味いい音を立てて、薬研やげんで何やら数種の草をすり潰していた。苦味のある香りが鼻腔びこうに届く。


「血は止まったみたいだね。薬を塗るから、包帯替えようか」


「薬って……そのグロい緑色のやつがか?」


「はぁ、植物学を真面目に受けてなかったな? 自然界の薬を軽んじない方がいいぞ。特にアカネ産の薬草は、知識を持って用いればどんな怪我も病も治してくれるよ」


 どのみち、毒に侵された俺には抵抗する力も残っていない。仰向けに寝かされ、止血帯をほどかれながら、俺はうわ言のように呟いた。


「どうして……こんなところに来ちまったんだよ」


「それは自分に対して? それとも僕?」


「両方だが、特に文句があるのはお前に対してだ」


「さっきも言っただろ。君を助けに来たんだよ」


 左腕から包帯をほどき、露わになった患部に、ハルは先ほど薬研ですり潰した草汁を染み込ませた清潔なガーゼを当てた。ひりつくような痛みが走ったが、直後から痛みが和らぎ、太い牙に抉られた傷口の熱がとれていく。


「さっきの閃光は……ありゃなんだよ」


「あぁ、これだよ」


 ハルは傍らに置いていた透明な瓶を俺の目前に掲げた。《採虫瓶さいちゅうびん》という、虫を捕獲しておくための特殊な瓶だ。中に目的に応じたみつを入れて蓋を開けておくと、狙いの虫を捕まえて閉じ込めることができる。どうやら個人的な採集目的で、卒業試験に持参していたようである。


 その瓶の中には、セミほどのサイズの黄色い虫が一匹、狭い空間を窮屈そうに飛び回っていた。尻の部分が淡く、金色に発光しており、やけに幻想的だった。


「《閃光蛍せんこうぼたる》。驚かせると強烈な光を発する蛍だよ。その光度は実に100万カンデラでスタングレネードに匹敵する。資料でしか見たことなかったけど、ここはレア生物の温床だね。木にとまっているのを見つけたから、君を助けるのに使えると思って捕獲しておいたんだ」


 俺はそんな虫の存在などつゆほども知らなかった。というのも、学校から

配布されたモンスター図鑑に載っているのは全て大型の、人を食う怪物であり、その他の生物、人に比較的害を与えない草食動物や虫のたぐいは全く網羅できていないのだ。


 ハルは学園のさまざまな研究室に顔を出して研究の手伝いをしていたが、虫や植物に対する深い知識はそこから得たものだろう。元々、勉強熱心で優秀な男だった。


「虫といえば……毒虫に気をつけろ。蚊みたいなやつだ。俺はやられちまって、このザマだよ」


「蚊?」


 ハルは険しい顔になると、俺にずいっと顔を近づけた。蚊に噛まれた痕を俺の頬に見つけると、間近でじっと観察し、さらに表情を険しくする。


「針が太い……それにこの腫れ方。アレルギー症状に似ている。シオン、その毒はどんな症状が出るの?」


「……頭痛、目眩、それから……吐き気がひどいな。吐くと一時的に楽になる。あとは、体が熱い」


「それって……もしかして」


 ハルは何か閃いたように表情を変えると、更にずいっとにじり寄り、俺の口元に顔を近づけた。ギョッとして目を見開くも、抵抗する元気はない。


「お、おいっ、近いぞ!?」


「やっぱりだ。匂う」


「はぁ!? なんの匂いだよ、朝ちゃんと歯磨きしたぞ!」


「お酒だよ」


 離れてくれたハルが真剣な表情でそういうが、俺はますます動揺してしまった。もちろん飲んだ覚えはない。ハルは自分の背嚢から木製の水筒を取り出すと、俺に寄越した。


「すぐに飲み干して。君の水筒に入ってる分も全てだ。また汲んでくるから」


 訝しむも言われるがまま、体をゆっくり起こし、俺は水筒の水を全て飲みきった。思えばろくに水分もとっていなかったし、嘔吐までしている。飲み終わると全身に水分が行き渡って、生き返ったような気分になった。


「君を刺した蚊ってのは、たぶん《ウィスキート》だ」


「ウィスキート……?」


「摂取した糖質を原料に、体内で酒を造る蚊だよ」


 頭痛。目眩。吐き気。発熱。これらは全て、アルコールによる症状だったのか。俺はなんだか肩透かしを食らった気分になった。


「なんだよ、毒じゃなかったのか。よかった」


「何言ってるんだ! ウィスキートの体内で製造されるアルコールの度数は40パーセント以上。それを血液に直接流し込まれるんだぞ! あっという間に全身に巡って急性アルコール中毒だ。あと一、二匹でも多く噛まれていたら、君は死んでいたぞ!」


 すごい剣幕で脅されて、さすがに生唾を飲むしかなかった。急いで自分の背嚢から水筒を取り出し、一息に飲み干す。


「よし、それ貸して。どこかで飲めそうな水を探して汲んでくる。内臓の働きを促進する薬草も摘んでこなくちゃ。シオンは横向きに寝てて。仰向けで寝るなよ、寝ゲロしたが最後窒息死だぞ」


 テキパキと指示を出して俺の水筒をひったくり、さっさと洞窟の外へ出て行こうとする友人を、黙って見送れるはずもなかった。ハルの腕を掴み、あらん限りの力を込めて引き戻す。


「何考えてんだ、お前を一人で外に出せるわけないだろ。実際命を拾われちまったからきつく言えねえが、俺は怒ってるんだぞ。なんでこんなところに来た。守ってほしいなんて、俺は一度も頼んじゃいない」


「あぁ、頼まれちゃいない。僕が間違ってた。君が、僕にそんなこと頼むなんて、あり得ないことだった。それなのに勝手にショックを受けて、僕は試験をリタイアした」


 ハルは俺の腕を振り払い、正面に立って力強く言い放った。


「だから、ここに来たんだ! 今度こそ自分の意志で、一歩を踏み出して! 頼まれなくたっていい。僕は勝手に、君の隣にいる。――これは、僕の意志だ!」


 俺の知るハルとは、別人みたいだった。剣を学んできたのも、ウォーカーを目指してきたのも、今日の試験だって、ハルは今まで、兄の真似をしたがる弟みたいに俺の後をついてきた。


 俺はそれが心苦しくて、同時に少しだけ、気持ち良くて。


 これは俺の罪だ。ハルを中途半端な覚悟で鍛えてしまった。昔のままなら、ハルはどんなに心で思ったって、俺を守るために谷底へ飛び込むなんて無茶はしなかったはずだ。


「……ごめん、ハル。俺がお前を変えちまった」


 ハルは失望したように顔を歪めると、腰の剣を音高く抜き放った。狼狽する俺の目の前で、ハルは手首を回して剣を逆手に持ち替えたかと思うと、制止も待たずに振りかぶった。


 ザクリと、剣は目前の地面に突き刺さった。ひざまずいたハルの差し出した、左手の甲を貫いて。


「……いつまで、師匠のつもりだよ」


 絶句する俺の前で、ハルは肩を震わせてそう絞り出した。痛いのが、血が、この世で一番苦手なハルが、自分で自分を刺すなんて、世界が逆立ちしたってありえないことだ。


「いつまで兄貴のつもりだよ。僕はいつまで、守ってやらなきゃ一人でおつかいもできない子どもなんだよ」


 剣を引き抜き、血の溢れ出す左手に構いもせず、ハルは両手で俺に掴みかかった。青い目が泣いていた。凄まじい強さを秘めた目だった。初めてハルに怒鳴られた日のことを、それで思い出した。俺はいつから、ハルが本当はものすごく強いやつだってことを、忘れてしまっていたのだろう。


「僕が君に剣を教えて欲しいと言ったのは、本当は、君を守りたかったからじゃない。ただ、対等な友達になるためだ! いつまでも、血が怖い、ひ弱なザコだと思うなよ。――いい加減、上から目線はやめろよ!」


 途端に、俺を頑なにしていた何かの糸がプツンと切れた。


 ハルが助けに来てくれたとき、戸惑った。今まで、誰かを助けることはあっても。俺を守ってくれる友達なんていなかったから。カンナが助けてくれたあの日も、同じように戸惑ったものだった。差し出されたあの手を握ったとき、顔も知らない母のぬくもりは、きっとこんなだろうと思った。


 俺は。ずっと。本当は。きっと、誰かに守ってもらいたかった。こんな風に。


 頬を涙が後から後から伝って、止まらない。俺は――今まで、一度だってハルを対等に見たことなどなかったではないか。


 ごめん、ごめん、と繰り返す俺をハルは抱きしめ、小さくうなずいた。


「わかってる。君は元から強いから、誰かに頼るっていう発想がないんだ。助けは必ず来る。それまで一緒に生き延びよう。僕たち二人なら、きっとできるよ」

 子どものように声を上げて泣きながら、俺は何度も頷いた。

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