第12話 ハルク・アルフォード-1


「何もリタイアするこたぁなかったろうに。お前さんも意固地だね」


 ロイドに笑われて、ハルクは「はい」とだけ答え、うつむいた。


 試験をリタイアしたハルクは、ロイドに連れられてルミエール北門の目の前まで帰ってきていた。


 森を抜けた先、街を囲う高い外壁がそびえ立っている。ついさっき、ここから出発したばかりだというのに、もう戻ってきてしまった。


「……僕は別に、ウォーカーになりたかったわけじゃないですから」


 ハルクは今日まで、一度たりとも、親友の夢を真に応援したことなどなかった。


 一緒にご飯を食べて、一緒に勉強して、一緒に汗を流して、一緒に眠る。気を抜くとついつい真面目になりすぎてしまう自分に、シオンはいつも呆れたように笑って、色んな悪さを教えてくれた。


 その輪にマリアが加わって、余計に笑顔が絶えなくなって、あんなに恨んでいた運命に、感謝さえするようになった。大嫌いだった茜色の空を、美しいと思えるようになった。


 ハルクは、ただ、ずっとずっとこんな日々が続けばいいと、本当にそれだけを望んで生きてきた。


 それでも、それが親友の夢なら、せめて危なっかしい彼を一人にしたくないと思った。ハルクが剣を学んだ理由は、そこにしかない。


「じゃあ、なんで泣いてる?」


 ロイドの塞がった目が、射抜くようにハルクを見ていた。ハルクは固まった。音も立てず、鼻をすするのも堪えてバレないようにしたつもりだったのに。


 ハルクの端正な顔は、今は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。


「お前さんは、昔はそりゃあもう泣き虫だったよな。けど、めっきり泣かなくなった。強い男が泣くとすりゃ、二つくらいだ。愛する人が死んだ時か、死ぬほど、悔しい時か」


 堪える必要のなくなったハルクは、声を上げて泣き崩れた。


「……く…………悔じい…………!」


 ウォーカーになるのは手段だった。ただ、シオンの隣に並びたかった、その一心で、彼に合わせて目指していたに過ぎない目標だったはずだ。


 それなのになぜ、こんなに悔しいのだろう。心が張り裂けそうなほどに、地団駄踏みたくなるほどに、叫びだしたくなるほどに。


「悔しい気持ちがあるなら、次があるさ。またアイツらを追いかければいい」


「……ダメですよ……僕は、臆病だから」


「そいつは違うね。お前さんは--」


 背後の森の中腹から突然花火が上がったのは、その時だった。


 ロイドは盲目だが、その分他の感覚に優れている。火花の炸裂する音を感知するや否や、有事を悟ったようだった。呑気な表情を珍しく険しくして、短く言った。


「ハルク、ここからは一人で戻れるな? 何かあったみたいだ」


「え……?」


「俺はちょっくら、急いでシオンたちのところへ戻らなきゃならん。そこの門番に学生証を見せれば中に入れてもらえるはずだから、先に帰ってろ」


 ロイドの言葉に、ハルクの大きな瞳が揺れ動いた。シオン。マリア。二人の大切な友人の笑顔に、ピシリと亀裂が走る。


「だーいじょうぶだ。あの無愛想なブラッド先生が煉術の花火で俺に集合かけるあたりが、なんかニオうけどな。二人とも必ず無事に連れて帰るから、心配すんな」


 僕も、連れて行ってください。


 叫んだつもりだったが、音にさえならなかった。ハルクは僅かに開けた口を、なすすべなく閉じた。


 シオンに言われたばかりである。足手まといだと。その通りだ。強くなりたい、守りたい、口では散々そう言っておいて、いざシオンがゴブリンに組み伏せられた時、自分は腰を抜かして動けなかったではないか。


 こうべ垂れたハルクの金髪を、ロイドは乱暴に撫でて、韋駄天いだてん、瞬く間に森の奥へと消えてしまった。取り残されたハルクは、すぐ背後にあるルミエールの門にも、シオンたちのいる森にも足を動かせないまま、その場にうずくまった。


 結局こうなった。一番恐れた未来がやってきたのだ。危なっかしい親友を、こんな自分でも守ってやりたくて、ただそのためだけに腕を磨いてきたというのに。


 危険に晒されるシオンを、マリアを、自分は助けることができない。臆病だからだ。自分が傷つくことも、この剣で何かを傷つけることも、怖くて、怖くて、仕方がないからだ。


 助けに行きたい。そう思ったところで、いざ駆けつけて助けられるのは間違いなく自分の方だ。それなら、彼のいう通り、足手まといに違いない。大人しく国で彼らの帰りを待つことしか、許されない。


 そこまで分かっていながら、国に帰る一歩さえ出ない自分は、どこまで情けないのだろう。どちらも選べず、踏み出せず、結局その場から動けないままの木偶でくの坊。


 ハルクは立ち尽くしたまま、左手の盾と腰の剣に目を落とした。立派な装備をまとった自分が、滑稽で仕方ない。



「どうして泣いているの?」



 鈴を転がすような、なんて表現が、まさかこれほど当てはまる声があるだろうかと思った。


 いつの間にか、ハルクのすぐそばに一人の青年が立っていた。背の高い、真っ白な青年だ。髪も、肌も、瞳も、くるぶしまでを覆うローブも、背中の大きな剣も、全てが、新雪や白鳥の羽のように清廉な白。


 彼の存在そのものが、淡く発光しているように見えた。この距離にいるのに、人間臭さのようなものが微塵もない。霊的な、神秘的な雰囲気を感じてならなかった。


「あなたは……?」


「僕? 僕は……《白皇はくおう》、そう呼ばれているよ。まぁ、僕のことはいいじゃないか」


 薄く笑う青年、白皇の容貌は、男のハルクでさえ魅了されてしまうほどに美しかった。その名に聞き覚えがあるのも忘れて、ハルクは白皇に見惚れた。


「で、どうして泣いているの?」


「あ……えっと、どうしてでしょう。悔しくて……うん、多分……自分の弱さが、許せなくて」


 不思議だった。彼に聞いてもらうと、自分の感情が整理されていく。


「君が、弱い?」


「はい。ゴブリンの一体も、殺せないんです。友達が、そいつに目の前で襲われたのに、体が、動かなくて。それで、友達には……向いてないから帰れって言われて」


 言葉にすればするほど、悔しくて悔しくて、引っ込みかけていた涙が再びにじむ。白皇はずっと黙って、頷きながら聞いていたが、ふと知ったような口調で言い出した。


「君は弱くなんかないよ」


 ハルクは面食らって、動揺した。


「君はただ、自分、友達、そしてゴブリン、その全ての痛みを、想像できてしまうだけだ。弱さなんかじゃない、それが君の、優しさだ」


 白皇は教師のような顔になって、ハルクの肩に手を置いた。


「その友達は間違っているね。ウォーカーに向いていないなんて、とんでもない。その優しさを武器にするすべを、今は心得ていないだけ。前に進み続ければ、きっと綺麗な花がひらくよ」


「花……」


「君を一目見た時、咲くべきか迷っている花みたいだと思ったんだ。そういうものには、水をあげたくなる性分なんだよ」


 ハルクは、思い出した。白皇とは、ルミエール王国に世界樹を持ち帰った、白薔薇に在籍する最強のウォーカーの名だ。仲間パーティーも持たず、世界中を旅して回っているという。


「あ、あの!」


 ハルクを追い越し、国の門へ歩き出していた白皇を、ハルクは自分でも驚くほど、せっつくように呼び止めた。


「世界樹って、どんなのでしたか!? すっごく大きいんですよね! 葉の色とか、形とか、香りとか、土も気になります! ……いや、それよりも、白皇さんが見た中で、いっちばん感動した景色ってなんですか!?」


 息を荒げるほど矢継ぎ早に質問したハルクに、白皇は振り返ると、嬉しそうに破顔した。


「とびっきり美しい花を見たよ。摘んで帰るのがもったいなく思えるほど、そこに在りうべくして咲いているような花だった。……うん、やっぱり君は、ウォーカーになるべきだよ。いつか君も、見に行ってみるといい」


 白皇は手を振って去っていった。今追いかければ、彼と一緒に国に帰って、もっともっと色んな話を聞けるかもしれない。


 だが、ハルクは白皇に背を向けた。


 --せーので踏み出そうぜ。


 今朝、シオンはハルクの肩を抱き寄せ、溌剌はつらつとそう言った。ハルクはあれが、正直、涙が出るほど嬉しかった。


 初めてシオンに、ウォーカーになることを、認められた気がしたからだ。シオンがずっと、迷いながら剣を教えてくれていることを、ハルクは感じ取っていた。


 そうだ。とっくに僕は、ウォーカーになりたかったんだ。


『俺は世界の美しさも知っている。これ即ち、ウォーカーの特権である』--ロイドの演説を聞いて、なす術なく想像してしまった。この世界には、見たことのないほど美しく、雄大で、どこか不思議な自然が広がっているかもしれない、と。


 安全な壁の中に引きこもっていた自分が、いつのまにか、どこか遠くの世界を見てみたいと思うようになっていたことが、信じられなかった。


「……ごめんよシオン。あの時はまだ、僕だけ踏み出せてなかったみたいだ」


 涙を拭ったハルクの青い目が、真っ直ぐ前を、暗い森林を睨み据える。先刻のゴブリンの今際いまわの形相が、途端に暗闇から飛び出してきた。それが黒い辻風となって吹きつけ、ハルクを後ろへ吹き飛ばそうとする。


 この一歩を踏み出すということは、あれを、殺す覚悟を決めるということだ。ゴブリンにも家族があり、生活があり、命がある。必死なのはゴブリンも同じ。それを、この剣で殺す。


 ハルクはその場で目を閉じ、唇を噛み、後ろへ下がろうとする足を懸命に踏ん張って抗い続けた。胸を抉るような葛藤。口の中に、血の味が広がる。


 斬られる痛み。死を背後に感じる恐怖。理不尽に道半ばで生を奪われる、悔しさ。全てをその身に引き受けて、想像する。



 命を想い、それでも、その命を殺せるか。


「……僕は………………………………殺す」


 生まれて初めて、その言葉を口にして、そのあまりの重たさに、ショックを受けた。それでもハルクは、覚悟を決めた。乱れた金髪の下、涙で滲んだ青い目を精いっぱい精悍せいかんに引き締めて、大きく、力強く、友のために一歩を踏み出した。

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