第11話 サバイバル-3

 飢えた獣の牙が四方から迫るのを、けぶる意識が把握する。その殺気に、背筋が凍る。


 俺は乱暴に息を吸い、ぐっと詰めると、身を低く屈めて狼たちの突進の下をかいくぐって包囲から転がり出た。


 空中で衝突した赤い毛並みの狼たちは、互いを爪で引っ掻き合いながら着地するや否や、俺という獲物を争うように、目を爛々と血走らせて我先にと飛びかかってくる。


「--ラアッ!!」


 俺は目を力いっぱい見開き、両手で握った剣を振りかぶって、一番先に飛びついてきた狼にそのはがねの刃を叩きつけた。


 渾身の力を込めて、狼の頭から尾までを、一息に両断する。肉を断つグロテスクな手応え、血しぶき、至近距離で俺を睨む狼の瞳から光が失せる瞬間、その全てを、しかと目に焼き付けて、そのまま、ぶった斬った。


 今度は、俺が咆哮した。


 真っ二つに分かれた肉塊が、左右に分かれて俺の背後に落ちる。命をひとつ、奪った。そのことに、今はなんの感慨もない。


 この狼たちと同じように、俺も、必死だからだ。


 外の世界に出て、思い知らされた。生きる者すべて、生きている限り、生きようとする意志に抗えない。


 今朝はその意志の凄まじさに圧倒されて、ゴブリンに遅れをとった。だがおかげで迷いはなくなった。


 生きるために、俺は殺す。殺せなければ、死ぬだけ。


 尽きることのない、この意志、本能に、今日まで鍛えてきた全身を委ねて、剣を振るう。今、俺を闘争へと駆り立てているのは、たった一つの心の叫びだ。


 --生きたい!


 俺はもう一度、喉が裂けるほど絶叫すると、血濡れの剣を握って残りの狼たちに向かって踏み出した。狼たちが、目に見えて怯む。それでも退く気はないようだった。俺は二匹目の突進を体をひるがえして避けながら、その首を容赦なく斬り落とした。


 かすんだ視界、脳が響くような頭痛の中でも、戦闘に向ける全神経だけは冴え渡っていた。一体一体がゴブリンよりも手強いであろう狼たちを、物ともせずに即刻四体斬り倒し、気づけば周囲に血溜まりを作って立ち尽くしていた。


 酷い臭いに再び嘔吐しかけたが、どうにかこらえ、俺は少し離れた茂みまでいくと、土の柔らかそうなところに見当をつけて、剣を使ってそこを掘り始めた。十分、十五分と掘り続けて、やっと満足のいく規模の穴が掘れた。


「……悪いな」


 俺は、見るも無残に斬り殺されてしまった狼たちの死骸をひとつひとつ、手や服が汚れるのも構わず抱き上げると、掘った穴まで運んで、できる限り丁重に埋めた。


 生き物の死体は、放っておくと煉素が勝手に分解して、新たな煉素にしてしまう。土に埋めたところでそれが変わるわけでもない。だが、せずにはいられなかったのだ。殺すのも、それを弔うのも、結局俺のエゴに違いない。


 アカネに来たばかりの頃は、ウォーカーになってモンスターを殺すことばかり考えていた。きっとあの頃の俺なら、モンスターに墓を作るなんて思いつきもしなかっただろう。


「必ず……生き延びる……お前らの、分まで」


 そこで、糸が切れた。


 狼を埋めたばかりの墓に、覆いかぶさるようにして俺は倒れ込んだ。全身が弛緩しきって、指の一本も動かせない。


 ダメだ。こんなところで寝ていては、たちまち鼻の効くモンスターに嗅ぎつけられて食われてしまう。一刻も早く全身を土で汚して、茂みに身を隠さなければならないのに。


 立て。さっき殺した狼たちに申し訳が立たないだろう。自分を叱りつけてみるのだが、もう、糸の切れた体は芋虫ほどの前進も叶わない。自分の体じゃないみたいだった。


 さっきの毒が、いよいよ回ってきたらしい。目がぐらんぐらん回って、おかしくなりそうだ。


 その時、土につけた俺の耳が、草をそっと踏みしめる、忍ばせた足音を拾い上げた。


 目だけをかろうじて動かして、その方向を睨む。砂嵐のかかったような視界に、闇を穿うがつ、一つの赤い光点が浮かび上がった。獣の、目玉だ。


 闇をかき分けて、赤い毛並みの狼がたった一頭、姿を現したかと思うと、ひたりひたりと地面を踏みしめてゆっくりこちらに向かってくる。先ほど俺が斬り殺した四頭に比べて図体がふた回りも大きく、左目には真一文字まいちもんじの刀傷が走っている。


 他のモンスターか、あるいはウォーカーに付けられた傷か。どちらにせよ、左目を塞ぐその傷跡は、熾烈しれつな生存競争を勝ち抜いてきた勲章に思えた。


「お前が……ボスか……? 悪いな、仲間を斬っちまって」


 ボス狼は応えず、低く唸りながら順調に距離を詰めてくる。赤く光る右目には、俺に対する深い憎悪の色が見えるようだった。


 不思議なことに、立てそうだった。真下の墓から、俺が殺した狼たちが、立ち上がるだけの力を貸してくれたような気がした。俺はあらん限りの力を込めて、どうにかこうにか起き上がった。


 ひどい立ちくらみがしてよろめく。もう立っていることさえ奇跡のように思える体に鞭打って、俺は剣を正眼に構えた。


 ボス狼は牙を剥くと、天に向かって首を突き上げ、音高く遠吠えした。空気がビリビリ震えるような咆哮だった。


 八方から、一斉に獰猛どうもうな気配が駆けつけてくる。俺と、ボス狼を取り囲むように、十、二十、三十と、無限にも思える数の狼たちが次々に闇から飛び出して、俺に向かってわめいた。


 俺はここが自分の死に場所になることを悟った。この中の誰かの牙が、必ずや俺に到達し、肉を裂き、骨まで砕いて俺を殺す。


 その苦痛を想像したら、自ら命を絶ってやろうかとさえ思った。だが--俺は剣を強く握りしめ、歯を食いしばって涙をこらえた。


 火蓋が切って落とされた。先ほどとは違い、統率のとれた動きで狼たちが数頭ずつ俺に殺到する。眩む目を必死で開き、折れそうになる膝を叱りつけ、俺は最初の三頭を一息に斬り捨てた。迸る鮮血。激しく動き回るたび、頭に杭を打つような痛みが襲う。


 二群目を相手取ろうとしたところで、熱湯に浸したような熱が足に走った。後ろから姿勢を低くして飛びついてきた一匹に、足首を噛まれていた。凄まじい顎の力に、足の骨がミシミシ音を立てる。


 恐慌し、一心不乱にそいつの首を斬り落とした直後、今度は背後から突進の直撃を受け、俺の体は前のめりに吹き飛ばされた。泥濘るかるみに腹ばいになって倒れた俺に、狂喜乱舞する狼たちが牙を剥いて殺到する。


 腕やももに次々と牙が突き立ち、筆舌に尽くしがたい痛みが全身を這い回る。狼の牙には釣り針のような"返し"がついていて、噛み付かれた腕をどれだけ振り払っても抜くことができない。俺の足首には、斬り落とした狼の首がそのままひっついていた。


 気の遠くなるような痛みが続いても、俺は死ぬことを許されなかった。狼たちは首などの急所を決して噛まなかったからだ。四肢をいで、動きを止めて、トドメは誰かに譲るように。


 両腕両足の感覚が無くなり、生温かい血溜まりができた頃、狼たちは噛むのをやめた。大量出血で半分気絶した俺は、動くことも、声を上げることもできず、小さく痙攣しながらじっとその時を待った。


 俺をしっかり押さえつけた下っ端たちを押し退けて、ボスが俺の頭の前まで進み出た。侮蔑的に顎を上げて俺を見下し、犬歯を剥き出しにした口の端から、臭い唾液がこぼれ落ちて俺の顔に触れた。


 いよいよその瞬間が迫った時、俺は初めて、生への執着、生きたいという意思を手放した。その瞬間まで、俺は精一杯、生きようとした。抗った。どんなに痛くても、苦しくても、戦い抜いた。だからもう、楽になってもいいはずだ。


 ボス狼の前脚が、乱暴に俺の肩を踏みつけた。噛み跡から血が吹き出る。その痛みさえ、どこか遠い世界の出来事のように思えた。ボス狼が大口をハサミのようにけ、俺の首をその間に挟んだ。


 その寸前、全てを投げ出した俺の全身に、一瞬、ほんの一瞬、苛烈な力が蘇った。視界がぼやけている。俺は、泣いているのだった。


 死にたくない。死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――!


 死ぬときは潔く。そう心に決めていた俺が、最後の最期、この世に残した言葉は。


「……………だれか……たすけて……」


 生まれて初めて口にした、命乞いだった。




「――シオンッ!」


 爽やかな風が、血に淀んだ異臭を切り裂いて、代わりに清廉な花の香りを運んだ。


 肩に乗っていた重みが消える。ボス狼を突き飛ばし、代わって俺の目の前に躍り出たのは、薄暗闇の中でも映える金髪を振り乱した、幼い騎士だった。


 狼の包囲の中に自ら突っ込み、数十の狼に囲まれ、唸られ、突き飛ばしたボス狼から殺気がましい眼光を向けられても、ハルは体を震わせながら、しゃんと背筋を伸ばす。


 そんなはずないのに、初めて、ハルの背中を見た気がした。


「はぁ……はぁ……よかった……間に合った…………よかった……!」


「…………ハル……どうして……」


 俺はまだ、ブラッドの幻覚を見ているのだろうか。ハルは息を切らせながら振り返り、汗にまみれた顔に困ったような笑顔を浮かべた。


「……言ったじゃないか。君は危なっかしいから、僕が守ってやるって」

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