第11話 サバイバル-2
*
少しの間、気を失っていたのかもしれない。
じっとり冷たい湿原にうつ伏せに倒れ込んでいた体が、すっかり冷え切っていた。寒気を感じて震えながら起き上がると、ぼやける目をどうにかこじ開けて、俺は辺りを見回した。
そこは血をまき散らしたようなジャングルだった。足場に生える背の低い草も、熱帯林のような木の幹も葉も、目に映るものすべてが燃えるように赤い、樹海。ジメジメとしていて薄暗く、どこからか、低い唸り声が這ってくる。
不気味で仕方ない。こんな場所が、ルミエールの近くにあったなんて。
上を見上げれば、崖が遥か
ねずみ返しの崖。高さは五十メートルは優にありそうだ。登るのはさすがに難しそうである。
「……ぅ、いて……」
ピキリと痛みが走り、呻く。軽い打ち身のような痛みが全身にあるものの、ほぼ無傷と言っていい。ふと、首に下げたネックレスを手で触れる。
ここにあったはずの守護石は粉々に砕けて、もう小さな欠けらが僅かにこびり付いているばかり。よく目を凝らせば辺りに真紅の破片が散乱している。五十メートルの高さを自由落下して全身を地面に叩きつける直前、俺の守護石が、一度限りの加護で俺を守ってくれたようだ。
「……ありがとな」
俺は輪っかのみとなったネックレスをそっと外してポケットにしまい込んだ。状況は、絶望的である。
ここにはハツカの木の匂いも届かない。モンスターがうじゃうじゃいるはずだ。上の森に這い上がる
ふと、俺をここに蹴落としたやつの顔が思い出されて、怒りのままに呪詛を吐いた。
「あの野郎……」
ブラッドに妙な術をかけられた感覚は、今にして思えばないでもなかった。僅かでも心を許した俺の落ち度だ。それにしても、妹をダシにするなんて許せない。
こんなところに落とされてたった一人にも関わらず、妙に落ち着いている自分がいた。マリアもハルもいないのに、冷静だ。むしろ全身の感覚が鋭敏になって、頭も軽い。
俺には、単独行動の方が向いているのかもしれない。
幸いなことに、ハルから夫婦石などの携帯品を預かったばかりだ。サバイバルに必要な最低限のアイテムは、全て俺の手元にある。武器も失くしていない。これなら、まだ希望を捨てるには早い。
「生きてやるさ……じゃなきゃ、あのゴブリンにも申し訳が立たないからな」
もう守護石はない。コンテニュー無し、残機ゼロのサバイバル開幕だ。
俺は夫婦石を取り出して手に乗せた。青い石が、十時の方向に転がる。当面は、これの指す方に向かって歩きながら上に登る手段を探そう。
俺が行方不明になったことは、遅かれ早かれ露見する。もしかしたら、ブラッドが自ら明るみに出すかもしれない。
それなら、ここまで助けが来ることも、決してあり得ない話ではない。限界まで生きてやる。学園で学んだ、全てを出し尽くして。
右も左も真っ赤に染まった不気味な密林は、風通しが悪く湿気が多いためか、歩いていると蒸し暑く感じてきた。ちょうどジメジメした夏の夜のような感じだ。それを好んでか、大量に蚊のような虫が飛び回っている。
手や頬に停まる蚊をそのつど払いながら、モンスターの気配を警戒して進んでいく。崖を背に歩くこと十数分、熱帯林の生い茂った密林の中で、俺は完全に方向感覚を失っていた。
その時、遥か前方、暗がりの奥に何かとてつもない気配を感じた。俺は反射的に息を殺し、手近の茂みに転がり込んだ。心臓が、バクンバクン鳴っている。
やがて--……ズシン……ズシン、と冗談のような足音が聞こえた。それは着実に近づいてくる。その息遣いさえ聞こえる距離になると、足音一つ響くたびに、まるでトランポリンみたいに地面が揺れた。もたれかかった木の幹を挟んで、すぐ背後を、巨大な気配がゆっくり通り過ぎていく。必死で口を手で覆い、息を潜める。
鼓動が強く、早まり、心臓の音で俺の存在がバレてしまいそうなほどになる。気の遠くなるような時間をかけて、気配が真後ろにやってきた。
俺はごくほんの僅か、首と目だけを動かして背後の存在を視認し--呼吸を忘れた。
赤い、
あまりに近くて、大きくて、俺には壁のようにしか見えなかった。その壁は呼吸に合わせ、柔らかく波打っている。
満月のように爛々と輝く金色の目。縦長の
近くを飛んでいた蚊が一匹、耳の周りをからかうように飛び回って、頬に止まった。今身動き一つ取れば、見つかって食われる。その確信と恐怖だけが俺の体を支配していた。俺はぐっと息を詰め、目を固く閉じた。
早く、早く通り過ぎてくれ……!
足音が僅かずつ遠ざかっていく。微かに気を緩めたその
心臓が口から飛び出るかと思った。
無造作に揺れる長い尻尾が、鞭のように幹を殴りつけたのだ。
--恐竜。
俺の知る生物の中から、名前を借りるなら、それ以外にあり得なかった。真紅の鱗に覆われた、体長、優に十メートルを超える恐竜である。
いじらしいほどゆっくり遠ざかり、やがて恐竜の足音も気配も、全くここまで届かなくなってからも、俺は音を立てて呼吸する気になれなかった。
信じられないものを見た。その気持ちしかない。ゾウの三倍もあるバケモノが、すぐそこにいたのだ。そして、あんなのが、このフィールドに一体だけとも限らない。
俺はとんでもないところに落とされたのかもしれない--そう、不安が心に巣くったのと同時、脳が溶けるような
「うっ……!?」
たまらず膝を折ってうずくまる。頭に、杭を打たれるような痛みが継続的に走る。全身が燃えるように熱い。目の焦点が合わず、酷い吐き気まで催してきた。
なんだ。ブラッドの術がまだ続いているのか。いや、さっき幻覚を見た時とは感覚が違う。もっと直接的に、体になんらかの異常が起きている。
こういう時、最初に疑うべきは--毒。俺はハッとして全身を手で払った。
いつの間にか俺の周りを、蚊の大群が隊列を組んで、陽炎のように取り囲んでいた。霞む目を手で押さえ、悪態をつく。
毒虫か……!?
抜かった。アカネの生態系を単なる蚊が生き残れるはずがない。この世界にいる生き物は、たとえ米粒ほどの虫でも油断してはならない。散々学園で教わってきたはずだ。
目眩を追い払って剣を抜き、黒い塊と化した蚊の一団を力任せに両断。左右に分かれた蚊たちの
蚊の大群は一斉に追ってくるが、飛行速度はそう早くない。引き剥がし、赤い密林の奥へ奥へと逃げる。服や体にへばりついていたのか、一、二匹と蚊が口の針を俺の肌に突き刺した。
もう立っていられなくなって、俺は半ば転倒するようにして茂みに転がり込んだ。途端に限界、胃の中身を全て戻してしまう。吐くと、いくばくか楽になった。
症状が少し和らいでも、体力の消耗は著しかった。ズキズキ痛むこめかみを押さえて、荒い呼吸を整えながらどうにか立ち上がる。--そこで、獣の唸り声に囲まれていることに気づいた。
「……勘弁、しろよ」
光の届かない、暗く湿っぽい谷底の密林に、赤い光点が8個。グルルルル……と、飢えた野獣の唸り声と舌なめずりの音が、四面楚歌、俺を取り囲んでいた。
血で染めたような赤い毛並みの狼だった。それが四頭。それも一頭ずつ、体長が俺と同じくらいある。木も、草も、オオカミも、全てが赤くて、気が狂いそうだ。
「ハァ……ハァ……ハァ………………さっさと来い」
右手の剣を握り直した瞬間、四頭が一斉に
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