第10話 卒業試験-2

 森は深く、暗く、そして静まり返っていた。


 森林に足を踏み入れて間もなく、ロイドとブラッドは音もなく姿を消した。近くにいる気配すら感じない。息を殺し、身を隠しながら俺たちを追跡して、陰から行方を見守るつもりらしい。そう遠くない距離にいるはずだとは思ってみても、三人だけ取り残されたこの状況が、じわじわ不安を広げていく。


「ね、ねぇ、歌でも歌わないかい。怖くて気がおかしくなりそうなんだけど」


 呆れた俺を、ハルは「だって」と涙目で見返す。


「落ち着こう。授業で習ったこと確認しようぜ。外に出たら、まずは何をするんだった?」


「フィールドの分析」


 意外にも、マリアがハルより早く答えた。俺は頷いて、辺りを観察した。


 木々の高さは低いものでも三メートルあり、傘のように枝葉を伸ばしているため空の光が届きにくい。足場も悪い。露出した木の根っこを落ち葉やぬかるみが隠しているので、全力疾走しようものなら瞬く間に転んでしまうだろう。


「足元は要注意だな。万が一の時は走るより、木から木へ飛び移った方が逃げ切れる確率高いかもしれないぞ」


「そんなことできるの君たち二人くらいだよ……」


「ハルは俺が担いでやる。それより二人とも、いつでも武器抜けるようにしておけよ」


「分かってるわよ」


 ふんと鼻を鳴らしたマリアの背に担がれた武器を見て、俺は改めて辟易した。


「マリア……今更だけど、もうちょっと小さいサイズにしたほうが良かったんじゃないか」


 マリアの背には、彼女の背丈に匹敵するサイズの大剣が斜めにかけられている。ハルとのランク戦でも愛用していた彼女の武器、対モンスター用大剣である。ただし、あの時と違い、マリアが今装備しているのは鋼鉄製の真剣だ。


「木剣の比じゃないくらい重いだろ。てか、引きずってるし……」


 マリアはぶすっとして、リュックでも背負い直すみたいにひょいっと軽く跳んで大剣を担ぎ直した。意地でもその大荷物を持って歩き回るつもりのようである。


 マリアだけでなく、俺とハルも今日ばかりは特別な許可を取って、はがねを打って鍛えられた剣を学園から借りて腰に帯びている。ハルは左手に円盾バックラーも装備して、半泣きでさえなければお姫様を守る騎士みたいである。


 剣を差して歩くだけで、なんだか強くなった気分になる。腰を落とし、木の幹や茂みに体を隠しながら、腰の得物の柄にそっと片手を触れさせて、慎重に森の奥へ奥へと入っていく。


 十分ほどずんずん歩いた。360度景色の変わらない森は、容易に方向感覚を失わせる。はっと気づいた時には来た道がわからなくなっているのだ。しかしそこは、心配いらない。


「ハル、《夫婦石めおといし》出してくれ」


 立ち止まった俺の頼みで、ハルが腰のポーチから小さな青い石を取り出した。丸みを帯びている中に、一面だけ欠けたような断面がある歪な形の石だ。


 これは夫婦石という宝石で、本来はこの青い石に、同じくらいのサイズの赤い石が決まって一つくっついた状態で出土する。これは"パッキンアイス"のように簡単に二つに分けることができるのだが、不思議なことに、分けた赤と青の石はどれだけ遠く離しても互いに引き合うのだ。


 この性質を利用し、夫婦石はウォーカーたちのコンパス代わりに用いられる。というのもこの世界には北極も南極もないので、磁針で方位を知ることが不可能なのだ。


 俺たちが持つこの青い石とペアの赤い石は、今、ルミエール修剣学校の執務室に固定されている。あとはこの青い石を平たい場所に置いて動きを見れば、帰る方角がいつでも分かるという寸法だ。


 ハルは自分の手のひらを水平にして青い石を置いた。青い石は、ずり、ずり、とハルの手の上を俺から見て二時の方向に滑り、そのままハルの手から転げ落ちてなおも妻の元へ向かおうとする。俺たちの帰る場所は、あっちの方角のようだ。


「危ない危ない」と言って青い石をかすめ取り、ハルがポーチにしまう。俺とマリアがいつでも戦闘に転じられるよう、こういう魔道具マジックアイテムや地図その他道具の管理はハルが引き受けてくれている。


「……静かだね。本当に、モンスターなんているのかな」


 声を潜め、周囲を見回しながら、ハルは不安げに呟いた。


 確かに、今のところ生き物の気配や痕跡は見つかっていない。張り詰め続けた緊張の糸が、さすがに緩んできている。


「いや、元々ルミエールの周辺は、《ハツカ》の木が群生しているお陰でモンスターが寄り付かないって習ったろ。ほら、モンスターの嫌う匂いを放つ木。ちょうどこの辺の木全部そうじゃないか? だからいるのは群れに見放された"はぐれザコ"ぐらい。思えば、そう簡単に見つからなくて当然だったかもな」


「どうする? 採集に切り替える? 夜になったら不合格よ、私たち」


「……いや、もう少し奥まで行こう。どのみちウォーカーになったら、遅かれ早かれモンスターとの戦いは避けられないんだ。教官たちがクリア条件に設定するぐらいだから、そう探さなくても見つかるはず」


 それは建前で、本当のところ、俺の決断は単なる討伐へのこだわりによるものだった。


 シンリンゴブリン。草木の背景に擬態する緑色の肌を持つ、人型のモンスター。知能が高く、手先が器用で、怪力が自慢。第五級指定危険モンスター。分かっている情報はこれぐらいだ。


 指定危険モンスターとは、国際狩猟機構によって定められた、人類にとって害をなすと判断されたモンスターに付けられるラベル。その危険度に応じて六級から特一級までランク付けされており、討伐すれば国際狩猟機構からギルド経由で報酬が支払われる。


 五級からは人命に危険が及ぶと判断されたランクであるが、裏を返せば、シンリンゴブリンは対峙して命の危険があるモンスターの中では最弱クラスということだ。


 軽視するわけではないが、ウォーカーを志す上で、この程度のモンスターとの遭遇を避けていては話にならない。命の危険なら人間同士の戦いでさえついて回ることだ。群れから弾かれた"はぐれ"の五級に、俺たちが遅れをとるとは流石に考えにくかった。


 マリアも「そうね」と首肯し、ハルも強張った顔で頷いたので、俺はきびすを返して再び歩き出し、太い木の幹を横切って--その裏にゴブリンがいた。


 緑色の体を硬直させ、俺を捉えた大きな黒目が、俺と同じくらいの強い動揺に揺れた。叫び出しそうになりながらも、俺の体は動物的な反射で閃き、腰の剣を抜きざま、無我夢中でソイツの首に叩きつけた。


「ぁぁぁぁあっ!!?」


 俺の口から、遅れて悲鳴が迸る。剣はぐじゃり、と嫌な音を上げて緑色の首筋に突き立って、俺たちと同じ真紅の血液を溢れさせた。想像を絶する高音の金切り声を上げてバケモノは倒れ、フゴォ、ブゴォと呻きながら涙を流しのたうち回る。


 俺は腰を抜かしていた。倒した。あっぶねぇ。油断してた。ホッと息つき呑気なことを考えている間に、バケモノは血を吹き出しながら唸り、ふらふらと四つん這いに起き上がったかと思うと、血走った両眼を俺に向けて--この世のものとは思えない絶叫を上げて、飛びかかってきた。


 悲鳴も許されなかった。緑色の痩躯そうくが馬乗りになって俺を完全に組み伏せ、憎悪にまみれた形相で唾液を撒き散らし、鋭い牙を剥いた。激昂げきこうしたゴブリンの迫力に体がすくんだ隙に、ゴブリンはその万力のような腕力で俺の両腕を押さえつけると、醜悪しゅうあくな口をあんぐり開けて勢いよく俺の首にかぶりついた。


「いやぁぁぁぁぁァァァァッ!!」


 記憶にないほど取り乱し、顔面を蒼白にして横合いから飛び込んできたマリアの薙ぎ払った大剣が、ゴブリンの土手っ腹に突き刺さってその小柄な体を吹き飛ばした。間一髪、浅い歯型がついた程度の首筋を抑えて、俺は放心しかけながら立ち上がる。


「わ、悪い、助か……」


「後ろ!!」


 マリアの悲鳴につられて飛び退った俺のさっきまで立っていた位置に、ゴブリンの鋭い爪が叩きつけられた。首や腹から大量の血を流したゴブリンは、俺より小柄な体に鞭打ち、最期の力を奮い立たせ、狂ったように唸りながら俺に向かってくる。


 --こいつだって、必死なんだ。


 原初的な恐怖が、俺の足首を絡め取った。腕だけで振るった剣がゴブリンの脇腹を貫く。ゴブリンは止まらない。俺に向かって枯れ枝のように痩せ細った腕を伸ばし、ゴブリンは死に物狂いで咆哮する。


「……いい加減に、死ねッ!!」


 背後から俺の頭上を飛び越えたマリアの鋼鉄の大剣が、いかづちの如くゴブリンの肩口に落ち、そのまま押し潰すように斬り裂いた。膝を折り、口から見るに耐えない量の血を吐いて--ゴブリンは、倒れない。


 白目を剥いて俺を睨む、その、文字通りの鬼の形相が、俺の網膜に焼き付いて離れなかった。俺に届くすんでのところまで手を伸ばしたゴブリンは、とうとう力尽きて地に伏した。


 眼下に横たわる、絶命したゴブリンを暫時見下ろして、俺はすとんとその場に崩れ落ちた。動悸が信じられないほど早く、荒い。それだけが、今、俺が生きている事実を教えてくれた。


 呑気な夢を見ていたのか。命の取り合いを、するのだ。自分が殺されるとなれば、俺より体の小さい、こんな"はぐれ"のゴブリンだって、これぐらい死に物狂いで向かってくる。


 さっきまで生きていた、あれほど力強くこの世界に生きていたゴブリンの体から、袋をったように血が流れてぬかるみを真っ赤に染めていくのを、俺は呆然と見つめていた。


 俺は……本当に、こいつを殺さなければならない理由があったのだろうか。

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