第10話 卒業試験-3

 体を動かす気になるのに、ずいぶん時間がかかった。ゴブリンの死体からは目を離せぬまま、俺は掠れた声で口を開いた。


「わ……悪い、マリア。助かったよ」


「まったく、しっかりしてよね。あんたが手こずるレベルじゃなかったでしょ」


 ため息とともにそう言ったマリアは、もう動揺している様子もない。


「まぁ、シオンより問題はあんたね、ハル。予想はしてたけど……ハル?」


 大剣をその場で斬り払って背に納めたマリアが、茶化すようにハルの方を向いて言いかけて、その表情を変えた。


 ハルの様子が尋常ではなかったからだ。地面に両手をついてうずくまり、虚ろな目で何もない場所を見つめている。何より顔色が病的なほどに生白く、血の気が完全に引いてしまっていた。


 二、三度ひどく嗚咽おえつし、胃の中身を吐き出すのだけはどうにか持ちこたえたハルに、マリアは努めて明るい声で言った。


「ど、どうしたのよ? そんなに怖かったの? 大丈夫よ、ほら、とっくに死んでるじゃない」


「ハァ……ハァ……う、うん、ごめん……」


 真っ青な顔をどうにか上げて、ハルはぎこちなく笑った。その額には大量の汗が滲んでいる。


「そっか、あんた、血が無理だったわね。いきなりグロいもの見せて悪かったわ。私の武器じゃ、どうしたってスマートに殺せないのよ」


「そ、そんなんじゃない。……マリアは、よく、平気だね」


 ハルは敬意を込めて言ったのかもしれない。ただ、その言葉尻に、マリアに怯えたような色が隠せなかった。マリアはそういうのに敏感だ。ぴくりと眉を引き上げて、低い声で言った。


「何よそれ。きゃーこわーいとか言ってあんたの背中に隠れるような、可愛い女じゃなくて悪かったわね」


 それはマリアなりに、精一杯空気を悪くしないように選んだ言葉だったはずだが、ハルは生真面目に首を振った。


「そうじゃなくて……生き物を、殺したんだよ……何も、感じないの?」


「はぁ?」


 マリアの表情に、かすかに苛立ちの色が浮かぶ。


「あんた寝ぼけてんの? こいつを見つけて殺す。そのためにずっとこの森歩き回ってきたんでしょ。今更何言ってんのよ」


「そうだけど……頭で覚悟していても、実際僕は……」


「呆れた、底なしの甘ちゃんね。私が殺さなきゃシオンが怪我してたのよ。あんたはシオンよりこのバケモノが大切なわけ?」


「そ……そんなこと言ってないだろ!」


 ハルは声を荒げて立ち上がった。ようやく色の戻った顔を険しくして、マリアと向かい合う。


「このゴブリンは、僕たちを襲ったわけじゃない……たまたま出くわしてしまっただけだ。むしろ、先に攻撃をしかけたのは僕らの方だろ……? このゴブリンが殺される理由なんて、僕らが、殺していい理由なんて……」


 ギリッと歯軋りしたマリアが、大剣を地に叩きつけてハルを黙らせた。壮絶な音と振動が、森を揺らした。


「殺す理由がない? あるに決まってるでしょ? 勝手に私たちを連れ去った時点で、この世界のバケモノ全部、ぶっ殺して誰が私をとがめるの? ……私を食おうとする奴とそうじゃない奴の見分けなんて、なんで私がつけてやんなきゃいけないのよ!」


 マリアがこれほど感情的になるのは、初めて見たかもしれなかった。俺は彼女の強さの正体を知った。彼女が恐れず、怯まずモンスターと戦えるその胆力の根源は、この世界への、憎しみだ。


「……マリアの言う通りだ」


 俺は自分に言い聞かせるように、そう呟いて立ち上がった。


「罪がなくたって、熊が人里におりてくれば射殺しなきゃならない」


「わざわざ山に登って、そこで生きる熊まで殺すことはないだろ!? 僕らはわざわざ壁の外にいるゴブリンを見つけ出して、殺したんだ!」


「街の中だけでなんでも揃う地球とは違う。生きるために、誰かが壁の外に出続けなきゃならないんだよ。そこにある脅威を取り除くのはウォーカーの役目だ」


「でも……」


 表情の晴れないハルに、俺は今まで密かに感じ続けていたことが、証明されたような気がした。


「……やっぱり、お前は向いてねぇよ」


 その瞬間の、ハルの裏切られた顔は、想像していなかった。俺は慌てて言葉を繋いだ。


「誰にだって向き不向きがある。お前に剣を教えるってなったときから、こうなることは分かってた。お前に殺しは無理だって。だから、こういうのは俺に任せて、お前は壁の中にいろよ」


 俺には適性がある。初めてモンスターの首を刎ねたときから、俺はカンナと同じ世界に住む資格があると確信した。ウォーカーを目指す意志がずっと揺らがなかったのは、この仕事が誰にでもできるものではなく、そして俺は、その適性がある類稀たぐいまれなる人間だという自負があったからだ。


 そんな俺でも、格下のゴブリン一体相手に無様な姿を晒した。まして優しすぎるハルに、とても同じ道を歩ませることはできない。


 ずっと、後ろめたさを感じていた。ハルを鍛えれば鍛えるほど、こいつの心優しい性格を壊してしまう気がして怖かった。


「……やだ」


 うつむいて振り絞ったハルは、見たことのないぐらい強情な顔をしていた。


「いやだ! そうやって甘えて、指をくわえて蚊帳の外で、大人しく待ってて……もし君たちが帰ってこなかったら!? そんなの耐えられない!」


「俺だって同じだ! 戦いに向いてないお前に無理させて、万が一目の前で死なれてみろ。俺は一生、自分を恨むぞ」


「分からず屋! 忘れたのかよ……君に、剣を教えてくれって頼んだ時……約束したじゃないか……」


 平行線をいく口論に苛立つあまり、思わず声を荒げた。


「分からず屋はどっちだよ……足手まといだって言ってんのが分かんねぇのか!」


 冷静になるまでもなく、失言だった。すぐにそう思って、撤回しようとした。だが、ハルの顔を見てすぐに悟った。もう、取り返しのつかないところまで、俺はハルを傷つけてしまった。


「……そうだね。その通りだ」


 消え入るような声が、ギリギリ音になるかどうかの声量で紡がれていく。


「さっきも僕は、何一つできなかった。口ではどうとでも言えても、結局また、土壇場で体が動かなくなるんだろうな。やっぱり……傲慢すぎたかな」


 ハルは一筋、涙を流して、弱々しく笑い、震え声で言った。


「君たちと、背中を守り合って、戦ってみたかったなぁ」


 涙を拭ったハルはもう、平気そうな顔をしていた。辺りに向かって声を張り上げる。


「ロイド教官。ハルク・アルフォード、卒業試験リタイアします」


「ほーい、了解。じゃあ門まで送るわ」


 どこからともなく間の抜けた声が聞こえたかと思うと、頭上から大男が降ってきた。ロイドである。彼の表情は容易に読み取れなかった。半ば予期していたようにも見えるし、どこか、寂しそうにも見える。


 俺は自分の不安定さが滑稽だった。あれほどハルにウォーカーの道を諦めて欲しいと願いながら、「リタイア」という言葉を彼の口から聞いた途端、どうしようもなく寂しい気分になるなんて。


「十分で戻る。一応ブラッド教官もいるから大丈夫だろうが、俺が戻るまでここから動くなよ。試験は一旦中止だ」


 ロイドは俺たちにそう指示した。ハルは黙って、俺に地図や夫婦石など、携帯品の一式を手渡した。俺も黙って、それを受け取った。ロイドに先導されてルミエールに戻っていくハルは、一度だけこちらを振り返って、ごくごく微かに微笑んだ。


「絶対に、ウォーカーになってね」


 そう言い残して樹海の闇に消えたハルを見送って、二人きりになったところで、マリアがため息とともにこぼした。


「……あんたねぇ、言い方ってもんがあるでしょ」


「マリアも人のこと言えないだろ。……けど、これでよかったよな」


「そうね」


 二人きりになると口数の減る俺たちだったが、今はお互い妙に饒舌だ。


「マリアはもうゴブリンを倒したんだから、一緒に帰ってもいいんだぞ?」


「バカ、あんたがクリアするまでついていくわよ。また腰を抜かさないとも限らないしね」


 俺は苦笑して、ふと、軽いめまいを覚えた。さすがに疲れてしまったか。これからもう一体ゴブリンを見つけ出して狩らなければならないというのに。


 気を張り直し、余計な雑念を払おうと頭を振った俺は、生い茂る木々の合間、遥か遠くに、チラリと信じられないものを見た。


 ハッと目を見開き、まじまじと凝視して、いよいよ動揺した。



 妹だ。



 三十メートルほど離れたところに、太い木に少し体を隠して、妹が立っている。俺の記憶と何一つ変わらない姿で俺に向かって微笑み、手招きしているのだ。


「どうしたの、顔色悪いわよ」


「ちょっと待っててくれ、すぐ戻る!」


「えっ、ちょっと!?」


 制止しようとするマリアを振り切って、俺は一目散に飛び出した。マリアは追いかけようとしたが、この場を動くなというロイドの指示を思い出したか、「すぐ戻る」という俺の言葉を信じることにしたようだった。


 俺は全速力で、ぬかるんだ獣道を何度も転びかけながら走った。


 言葉ことはは、一つ年下の妹だ。特殊な家庭で育ち友達の一人もできなかった俺にとって、唯一心を許せる人間だったと言っていい。厳しい修行にも、二人で支え合って耐えてきた。俺が地球に置いてきた、最も大きな心残り。


 泥を跳ね、木の根を飛び越えてぐんぐん走るも、不思議なことに歌音との距離が縮まらない。次第に周りの音が遠ざかり、視界の輪郭がぼやけ、足場が歪み、遠くで微笑む歌音の姿しか見えなくなる。


 呼吸が荒くなるほどに走り続けた頃、ようやく歌音との距離が縮まってきた。間違いない。見間違えるはずがない。俺の妹、言葉だ。どうしてここに。いや、そんなことどうでもいい。ずっと、会いたかった。


 俺に向かって両手を広げる妹を、飛びつかんばかりに抱きしめようとした瞬間、脳裏に浮かんだ人たちの顔が俺の足をはたと止めた。


 マーズ。マリア。ユーシス。ロイド。カンナ。ハル。アカネで出会った人たちの顔だ。


 ハッ、と夢から帰還した。急ブレーキ。言葉だけが微笑む光の世界が掃除機にかけたみたいにして崩れ去る。


 俺は自分の立っている場所、目の前に広がる景色にたった今気付き、仰天した。


「--いぃっ!?」


 崖。


 切り立った崖っぷちの先端に、俺は今にも飛び降りそうな体勢でいたのだ。目の前は見渡す限り妖しく光る赤い空。真下は--炎。


 ゾッとした。悲鳴もそこそこに後ずさった俺の紐靴が弾いた小石が、ひゅうっと何十メートルも続く谷底に吸い込まれていく。


 炎なはずはなかった。それと見紛みまがうほどに、紅蓮に染まった樹海。まさしく樹の海。赤い密林。


「な、なんで俺こんなところ--」


 その時突然、俺の背中を、何か強い力が突き飛ばした。俺の体はあっさり前につんのめって、足場のない、崖の向こう側へ放り出された。谷底から吹き上げる強風が俺の衣服をかき乱す。下腹が冷え込むような恐怖に、固く身を縮める。


 重力に足首を掴まれ、内臓が浮き、自由落下が始まるその瞬間、緩やかに体を反転した俺は背後を見ることができた。


 そこにいた人物を目の当たりにして、目を見開く。


 ブラッド。


 愉悦ゆえつに浸るしたり顔で片足を突き出した格好のブラッドに、俺は懸命に手を伸ばした。俺の手は風でなびいたブラッドのローブの端を掴む寸前、勢いよく崖下の引力に引っ張り込まれた。

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