第7話 煉術-2


 ユーシスの変貌に、俺は思わず足を止めた。


 試合はここまで、客観的に見ても俺のペースだったように思う。ユーシスほどの剣士は地球でも手合わせしたことがなかったから、本気で打ち合ううちに段々自分の中でギアが上がっていく感覚があった。


 頭で描いた理想通りに体がついてくる。体重を全く感じないほど体が軽い。俺は一体、どうしてしまったというのだろう。今なら誰にも負けやしない。そんな全能感に酔っ払って、俺はとても気分良く剣を振るっていた。


 だから、突如ユーシスの体に異変が起きたのは、俺にとって、良い夢を見ているところを叩き起こされたような感じで、ひどく不快だった。


「……なんだ? その光」


 ユーシスの全身を、茜色の光が覆っているのだ。眩く、生き物のように明滅するその光は、まるでユーシスを護る鎧のように見えた。


「ハァ……ハァ……お前には知る必要のないことさ。どのみちお前らアンナチュラルは《煉術》を使えないんだからな」


「れんじゅつ……?」


 よく分からないが、あの光は、少しヤバそうだ。本能がそう言っていた。


 ユーシスの首元で光る赤い石は、もう割れる寸前までヒビが入っている。あと一撃、強い攻撃を入れることができれば、そこで勝敗は決する。


 一つ息を吸い込み、俺は自分が驚くほどのスピードでユーシスの懐に踏み込んだ。頭を狙う初動を見せると、ユーシスは素早く右手の剣で頭部を庇う。


 だが、それはフェイントだ。剣の軌道を土壇場で変え、ガラ空きの頸部けいぶへ渾身の一撃を叩き込んだ。


 決着を確信した観衆がせっかちにも喝采かっさいを上げかける。


 しかし俺の剣は、ユーシスの首を捉えてはいなかった。


「なに……!?」


 その寸前に彼の差し挟んだ左腕が、本来なら腕の方がへし折れて然るべきところを、苦もなく木剣を受け止めているのだ。


 まるで鉄柱を叩いたような手応えだった。よくよく見れば、木剣を受けた左手首の部分に、先ほどまでユーシスの全身を覆っていた光が集中している。


 拮抗する剣と腕の向こう側で、ユーシスの冷笑が垣間見えた。全身全霊を込めてユーシスの腕を押し込もうとしたのが俺の失敗であった。俺は素手で剣を受け止められた動揺のあまり、気づいていなかったのだ。


 俺が今、どれだけ無防備にすきさらしているのかを。


 ユーシスの口角が裂けそうなほどに釣り上がった直後、腹部を凄まじい熱と衝撃が襲った。唸りを上げて容赦なく突き込まれた木剣の切っ先が、腹にズブリと食い込む。


「がは……ッ!?」


 景色が高速で流れ、俺の体は勢いよく後方に飛ばされた。受け身もそこそこに背中から着地し、砂地を滑る。腹に穴が空いたかと思うほどの激痛に身をよじりながら、どうにかうつ伏せになり、立ち上がろうと試みる。


 首に下げたネックレスに、ピシリと亀裂が走った。


 辛いものが胃から逆流してきて、盛大にむせこむ。剣を杖のようにして体重を預け、どうにか立ち上がったものの、足腰に力が伝わらず、よろめく。


 痛みで脳が麻痺して、うまく頭が回らない。全く理屈が分からないが、ユーシスの体を覆うあの光が一点に集まると、この木の剣では貫けないレベルの装甲になるらしい。


 熱狂する客席は、開戦時より人が増えたように見えた。これだけの人間が見ている前で、負ける--脳裏にちらついたその予感を必死に振り払う。


「お前が他のアンナチュラルどもより、少しはマシに剣を振れることは分かった。だが……俺はレッドバーン家の男子として、絶対に……」


 カッと目を見開いたユーシスの左隣に、熱風とともに火柱が上がった。あまりの熱気に客席から悲鳴が迸る。


 火柱は意志を持つように揺らめき、やがて一つの形を成した。逞しい四肢。鋭利な牙の隙間から漏れる、獰猛な唸り声。


 ユーシスの傍らに忠誠を誓うようにして顕現したのは、体長一メートルにも迫る、燃え盛る紅蓮の猟犬だった。体に火がついている、なんて生易しいものではない。比喩でなく"炎でできた"犬が、唸り、白い目を光らせ、今にも俺に向かって飛びかかろうとしている。


「お前のような"ヨソモノ"に、負けるわけにいかないんだよッ!!!」


 同時、炎の猟犬が咆哮ほうこうした。抗いようのない原初的な恐怖に、為すすべなく体が萎縮する。その隙に猟犬は一直線に俺の元へ驀進ばくしんし、五メートル近い距離をあっという間に喰い尽くした。


「うっ!?」


 半ば防衛的に振るった木剣を跳び越え、勢いそのままに猟犬は俺に襲い掛かった。途端に目も開けていられないほどの熱風が肌を焼く。


 反射的に差し出した俺の左腕に、猟犬の牙が突き立った。


 絶叫。皮膚が溶けそうなほどの高熱が、明確な実体をもってずぶりずぶりと腕に入り込んでいく。猟犬はなおも俺を押し倒し、組み伏せ、噛み付いた左腕を引き千切ろうと無茶苦茶に振り回す。俺は目に涙を浮かべて必死に抵抗した。


「がぁぁぁぁぁッ……こ……のッ!」


 壮絶な痛みに歯を食いしばって耐え、右手の剣で猟犬の首をねた。炎は二つに分断され、キャウン、と一声残して霧散した。


 気の遠くなるような静寂の中で、俺の荒い息遣いだけが響いていた。


 噛まれた左腕の感覚がおかしい。霞む視界を凝らし、恐る恐る左腕に目をやった俺は、何か糸がプツンと切れるような音を聞いた。


 焼け焦げた衣服から露出した素肌が、熱で見るも無惨にただれてしまっている。薄皮が剥げ落ち、ピンク色の肉が剥き出しになって、既に赤黒く変色している箇所もある。牙の食い込んだ痕の周囲は取り分け火傷が酷かった。


 痛い。熱い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。


 ピシリ、ピシリと、ネックレスの宝石に凄まじい本数の亀裂が走る。


 早く砕けてしまえ、と思った。


 意味が分からない。こんなの、剣士同士の戦いではない。俺はいったい、何と戦っているのだ。さっきの犬はなんだ。あの炎はなんだ。意味が分からない。


 ここはどこだ。俺はなぜ、こんなところで、剣を握って戦っているのだ。


「シオン! シオン!! 早く降参しろ! 死んじゃうよ……!!」


 静寂に包まれたアリーナに、友の泣き叫ぶ声が響いた。ハル。そうだ、ここは学園だ。これはただの校内ランク戦。勝ち目がないなら、これ以上ケガをする前にさっさと降参するべきだ。


 俺はこの異世界で、生まれて初めてできた気の合う友人と、のんびり剣を学んで生きていくのだ。


 軋む体を動かしてうつ伏せになった俺は、無事な右手をユーシスに向けて伸ばした。「降参」。そう言えば、この試合は終わる。ユーシスもその気配を感じ取ってか、追撃してくる様子はなかった。


「……降、さ」


 負けを認める時は、相手の目を見て、敬意を払って行う。棗家の流儀に則り、俺はユーシスに目を向けて、堂々とそれを口にしようとした。


 そして、ユーシスの背後、客席最前列の手すりに身を乗り出して、じっと俺を見つめている存在に、初めて気がついた。


「……え」


 カンナ。


 カンナだった。見間違えるはずがない。指通りの良さそうなチョコレート色の髪の毛。白い肌。ぷるんとした桜色の唇。そしてあの、母親のような、優しい眼差し。


 俺の命の恩人。俺の目標。俺の憧れ。俺の、好きな人。


 カンナはじっと、俺を見ていた。心配している風でもない。怒っている風でもない。その目からは感情が読み取れない。ただ、見守ってくれている。俺の戦いを、最初から、最後まで、何があろうとも、決着がつくその瞬間まで。


 俺の脳裏に、カンナとの、少なくも濃密な思い出が矢の如く駆け巡った。ステーキハウスでの会話。ニュービータウンまでの帰り道。俺をお姫様抱っこして、崖を滑り降りたときのこと。


 俺を食おうとしたモンスターを斬り倒し、助けてくれた。カンナはずっと笑顔だった。特に、俺が「ウォーカーになりたい」と言ったときの笑顔は、きっと俺だけに見せたものだった。


 そうだ。思い出した。俺がこの世界で前を向けた理由。俺はカンナを--



 カンナさえも、守りたいと思ったのだ。



 カンナが殺し損ねたゴルダルムの首を刎ねた時から、俺の夢は決まっていた。あんな化け物がうじゃうじゃいる壁外で、カンナは毎日人々のために戦っている。


 憧れた。カンナのようになりたいと思った。カンナの隣で戦えるように。そして、カンナさえも、守れるように。


 俺は今、どこにいる。学園だ。剣を学ぶ学園だ。俺はウォーカー候補生。ここを卒業して、一刻も早くカンナに追いつかなければならない。


 それが今、俺は何をしている。同じ候補生相手にボコボコにされて、あまつさえ降参しようとしている。のんびり卒業できれば、それでいいだなんて寝ぼけたことを言っている。


 炎の猟犬は恐ろしかった。だが、壁の外はこんなものじゃないはずだ。もっと怖い、もっと痛い。そんなのとカンナは毎日戦っている。


「……ぁぁぁぁぁあ……!」


 観衆がどよめいた。俺が立ち上がったからだ。左腕を抑え、息も絶え絶えに歯を食いしばり、目だけは苛烈な光を宿して。


 ここで逃げたら、一生カンナには追いつけない。よしんばウォーカーになれたとして、カンナのお荷物になるのが関の山。そんなの御免だ。


「ユーシス……味方を増やすなんて、いかにもお前らしい魔法だな……」


 ピクリ、とユーシスの眉が持ち上がる。


「いつも子分を連れ歩いてる、お前らしいって言ったんだよ……お前は、一人で戦う度胸もないのか?」


 俺の安い挑発に、赤毛を逆立て、ユーシスが激昂する。


「侮辱するなァッ!!!」


 ユーシスの周囲に紅蓮の業火が咲き乱れた。先ほどの猟犬が、一、二、三頭。揃って低く唸り、俺を威嚇する。


 群衆が声もなく驚嘆した。「《煉術》で生き物を造形するだけでも至難の業なのに……」「あんな子どもが、信じられん」口々に囁かれる観衆の言葉は、そのまま、ユーシスの細い双肩にのしかかっているようにも見えた。


 燃える巨大な猟犬の群れに、否応なく先刻の熱と痛みが蘇る。恐怖で体が固まる。俺は全てを吹き飛ばすべく、腹の底から絶叫した。


 それが合図だった。俺と、三頭の猟犬が、同時に地を蹴った。

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