第7話 煉術-1


 ハルク・アルフォードは、呼吸も忘れて戦闘を見守っていた。


 胸の前で組んだ両手に汗がにじむ。眼下で砂塵を巻き上げて激突する二人の剣士の片割れを、祈るような視線で追い続ける。目まぐるしく攻勢が入れ替わる一進一退の攻防が、あまりに心臓に悪かった。


「よう、ハルク。こんなところで見てたのか」


「あ……ロイド教官」


 ハルクに声をかけてきたのは、顔面に壮絶な傷跡を走らせた、盲目の男であった。ロイド・バーミリオン。ハルクたちウィードクラスの担任教官だ。ロイドは馴れ馴れしくハルクの隣に体をねじ込み、手すりにもたれかかった。


「思ったより戦えてるな。シオンのやつ、やるじゃねーか」


 相変わらず、目が見えているかのように言う。ハルクは痛々しい爪痕によって確かに塞がったロイドの両目を、思わず観察した。


「俺の顔になんかついてるか?」


 ギクリ、と慌てて目をそらした。


「し、シオンは勝てますかね……? あのユーシスと、互角に渡り合ってる……やっぱりシオンはすごいなぁ……」


「互角ねぇ」


 木剣同士が衝突するたび、鈍い轟音が客席まで届く。急所を狙った必殺の剣戟を両者的確に弾き返し、かれこれ一分近くも打ち合っているというのに未だお互い一撃も食らっていない。


「ナチュラルと地球人の絶対的な差は、"環境"だ。アカネ生まれの子どもは必然的にほとんどが武術を習うし、ゲームやテレビもないから遊びさえ運動ばかりになる。ナチュラルは、言わば全員が地球で言う狩猟民族、戦闘民族だ。体のデキがそもそも違いすぎる。……取り分け、ユーシスの家は代々続く武家の名門。レッドバーン家の一人息子として、物心ついた時から一流の英才教育を受けてきただろう。剣術が研ぎ澄まされてる」


「そんな……」


 青ざめたハルクの目の前で、形勢が傾いた。ユーシスの剣圧に押されて僅かに仰け反ったシオンの、コンマ数秒の隙をユーシスが見逃さなかった。ガードの緩んだ左半身めがけて剣を閃かせる。


 あんな硬そうな剣で叩かれたら骨が折れてしまう。思わず顔を背けかけたハルクの目の前で、信じられないことが起きた。


 仰け反り状態を強引に脱したシオンが、急激に間合いを詰めたのだ。横薙ぎに振るわれたユーシスの剣が勢いをつけるより早く、ユーシスの手首を左手で受け止める。同時に繰り出した膝蹴りが、ユーシスのみぞおちに食い込んでいた。


 たたらを踏んだユーシスの首筋を、半瞬も待たず、容赦なく片手半剣の長いリーチが襲う。刈り取られる寸前にどうにか剣をさし挟み、間一髪防いだユーシスはたまらず大きく後退した。


 歓声が、爆発する。ロイドは心底、愉快そうであった。


「シオンの剣術は、ユーシスの更に上をいっている。平和な地球にいながら、レッドバーン家にも匹敵する剣術訓練を幼少期から積んでいたってことらしい。まぁそんなやつも地球にいなくはないだろうが、さて、これまでアカネに来たことがあったかな」


 息を荒げ、忌々しげに顔を歪めながら口元を袖で拭うユーシスと、静かに呼吸を整えるシオン。どちらが押しているのかは、明白だった。


「"地球育ちの戦闘民族"は」


 ユーシスの首に下げられた赤い宝石に、僅かなヒビが入った。両者は再び激突し、激しい打ち合いを始めた。実力はほとんど拮抗しているが、やはり、僅かにシオンの方が余力を残している。


「ハルク。戦闘においてナチュラルの強みは"環境"だと言ったが、じゃあ、俺たち地球人の強みはなんだと思う?」


「え?」


 唐突にロイドの授業が始まった。ハルクは答えに窮した。そんなものがあるだろうか。少なくともハルクは、自分がユーシスたちナチュラルと比べて秀でている部分など思いつかなかった。


「……学力?」


「うはは、確かにアカネに比べりゃ地球は高等教育だろーけど、大半の常識はここじゃ役に立たねえからな。それに戦闘においてって言ったろ?」


「でも、それくらいしか僕には……」


「お前も一年以上アカネにいるなら、もう少し自覚があってもいいんだけどな。答えを教えてやろう」


 話す間にも、ハルクは片時もシオンから目を離していなかった。素人目にも、一度の攻防ごとにシオンの動きが研ぎ澄まされていくのを感じる。まるで、戦いながら成長しているように。生まれて初めて得た水に歓喜する魚のように。


 打てば打つほど硬くなる、やいばのように。


 当初ほとんど互角だった戦況は、今や完全にシオンに傾いていた。徐々に加速していくシオンの動きだけが、段々とブレて見えるほどだ。まるで片方だけ、僅かに早送りで見ているような感覚になる。


 一つ、二つとユーシスの隙が増え、少しずつ、確実なペースで後手に回っていく。間もなく完全な防戦一方となった。歓声さえも驚嘆に黙殺され、凪いだ重い沈黙が、アリーナ闘技場を圧する。


 ハルクが感じたのは、友に対する恐怖だった。


 シオンの動きは、既に人間のものとは思えなかったからだ。人間離れしている、ではない。人間が極限まで体と技と心を鍛えて捻り出すことのできる限界の能力を、シオンは超えてしまっている。それほどに凄まじい、修羅の如き猛攻だ。


 狼狽を超えた畏怖の色をその顔に滲ませたユーシスが、強引に最下段さいげだんを狙った。シオンの足首目掛けて木剣が鞭のように襲う。


 全ての群衆にとって、決定的なことが起きた。


 跳躍によってユーシスの剣をかわしたシオンの小柄な体は、実に"三メートル以上"も舞い上がったのだ。


「--アカネの地で、地球人が発揮する最大の強み。それは"身体能力"だ」


 シオン自身、予想だにしない大ジャンプだったらしい。機械のように凍っていた表情を素の少年のものに戻して、じたばたと高空でもがいた。しかしすぐに体勢を立て直し、呆然と真上を見上げているユーシス目掛け、自由落下の勢いを乗せて落雷の如く木剣を振り下ろした。


 今日一番の衝突音を上げて、シオンの剣がユーシスの防御をぶち破った。剣こそ折れなかったものの、あまりの衝撃にユーシスは砂煙を巻き上げて砂地を滑走。ネックレスのヒビが、ピシリと音を立てて広がる。


「アカネの重力は地球のおよそ70パーセント。酸素濃度が地球の平地に比べてやや高く、それ以上に、アカネの大気には《煉素れんそ》と名付けられた、地球に存在しない成分が含まれてる。ハルク、座学トップのお前なら分かるだろ」


 重力。酸素。《煉素》……は聞いたことがないが、アカネの植物の成長がいやに早いのは大気中の特別な成分が理由だと、植物学で習った記憶がある。


 1.5倍近い重力で当たり前に生活してきた人間なら、確かにこの世界で超人的な身体能力を発揮できるだろう。酸素濃度もまた、高山で生活する部族が平地のマラソン大会で驚異的な記録を出すのと理屈は近い。


 《煉素》と呼ばれる成分が、植物だけでなく、動物のパフォーマンスをも向上させるものであると仮定すれば、あらゆる要素が、地球育ちの人間に味方する。


 ハルクはそこまで考えて、「でも」と呟いた。


「僕、アカネに来て強くなった実感なんてありません」


「それが普通だ。いや、お前はちょっと遅すぎるかな。慣れるまでに時間がかかるんだよ。あらゆる環境が地球と違う。大抵の地球人は最初、むしろ思うように体を動かせない。不自然に軽い体に戸惑い、ひどいやつは体の動かし方すらわからなくなる。早く慣れるには、とにかく訓練するしかない」


 シオンと同室で暮らすようになってから五日が経つが、彼は毎日手頃な木の枝を手に取り、無限に思える数の素振りを自らに課していた。


 単に振るのではなく、まるでそこに見えない敵が本当に存在しているみたいに、汗だくになるまで激しく動き回り、真剣そのものの目つきで縦横無尽に剣を操る。そんな、何が楽しいのか分からない修行を飽きもせず、アカネに来た翌日からずっと続けているというのだ。


「アカネの地で体を動かし、アカネ産の飯を腹いっぱい食って寝る。この繰り返しで体が少しずつアカネの環境に慣れてくる。それでも大抵は分不相応な力を持て余すのに、シオンのやつはまるで無自覚でいやがった。それくらい自然に、この世界に順応してる」


「確かにシオンは……ものすごくよく食べるんですよね。胃袋どうなってるんだろうって思うぐらい。……そういえば初日に、誰かに美味しいステーキを奢ってもらったって言ってたなぁ」


「ほう、そりゃ食う方の神経も太いが、奢ったやつはなかなか分かってる。ソッコーで体を作るのに、強いモンスターの肉ほどいいモンはねェからな」


 ハルクは自分を振り返ってみた。アカネに来て一年以上も経つが、ハルクは一度も、この世界の肉も魚も口にしていない。


 宗教上の理由ということで誤魔化しているが、実際そんなことはない。単に、気味が悪いだけだ。


 こんな不気味な世界で育った、あんなバケモノたちの肉を食べるなんて。想像しただけで吐きそうになるのだ。


 食事のことだけではない。先月、ようやく重い腰を上げてこの学園に入学する以前は、ほとんど引きこもりみたいな生活をしていた。


 元の世界に戻りたい。でも戻れない。いっそ死んでしまいたい。でも、死ぬのは怖い。堂々巡りの、なんの生産性もない葛藤ばかり、何百日と続けた。


 意味もなく呼吸を繰り返して、ただ屍のように毎日をやり過ごした。これでも、この世界の水すら喉を通らなかった最初期に比べたら、随分マシになったのだ。


 それに引き換え。シオンは、モンスターに食われかけるという経験までしながら、命を拾ったその日のうちに前を向き、翌日からは目標に向かって訓練を開始した。なんという胆力だろう。ハルクは友が誇らしかった。そして、自分が惨めで仕方なかった。


 何か、名前のつけられない、燃えるような熱い感情が、ぽうっと宿ってハルクの胸を焼いた。


 試合の中でさえ、シオンの動きはぐんぐん冴え渡っていく。せっかくピッチリ整えていた炎髪をボサボサに振り乱して、ユーシスは決死の表情でシオンの猛攻を凌ぐが、一つ、二つとシオンの剣が防御を追い越し、ユーシスの体に痛打を浴びせる。


 険しい表情に大量の脂汗を滲ませ、ユーシスは逃げるように飛び退った。フレイムクラスの首席のみが着ることを許される深紅の外套が土まみれだ。エリート次席の敗色濃厚に、観客のどよめきが増していく。


 ハルクは思い出した。ユーシスとの試合を快諾したことについて怒ったハルクに、シオンはこう言っていたのだ。


 自分は対峙たいじした相手がどれくらい強いか、なんとなく分かる。ユーシスは確かに強いが、勝てない相手だとは思わなかった。だから試合を受けたのだ、と。


 なにをわけのわからないことを、と当初は思ったハルクだったが、彼の言う通りだった。フレイムクラス主席のユーシスを、シオンは剣で圧倒している。


「勝てる……勝てますよね、ロイド教官! シオンはユーシスに!」


「いや、勝てない」


 ロイドは断言した。ハルクは、耳を疑った。


「今のシオンでは、ユーシスに勝てない。なぜならナチュラルと地球人には、育った環境以上の、多少の身体能力程度じゃ覆せない、絶対的な差が存在するからだ」


「絶対的な差……? なんですか、それは……」


 試合は終わりを迎えようとしていた。トドメを刺すべく、ユーシスに向かってシオンが距離を詰めていく。


「--ハァ……ハァ……図に乗るなよ……アンナチュラル風情がァッ!!」


 追い詰められた獣のような形相で、ユーシスが絶叫した--次の瞬間。


 爆風を巻き上げ、ユーシスの全身が、"茜色に発光"した。


 時が止まったように。その光景に、誰もが息を呑んだ。



「……《煉術れんじゅつ》だ」

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