第3話 ステーキと美女-1

 マーズと別れて外に出ると、"夜"が訪れていた。


 アカネに太陽や月は存在しない。そもそも、この世界に星や宇宙という概念があるのかも分からない。ただ、地球に比べて少し弱いが重力はあるし、こうして空は日に一度暗転する。


 マーズから聞いた情報通りだ。星明かりの一つもない、世界の照明をオフにしたような真っ暗闇が、のっぺりと空を覆っていた。街の灯りがなければ、世界は水のように隙間のない、完全な闇に包まれることだろう。


 不思議だ。夜になっても気温の変化がまったくない。あの紅い空は熱を地上にもたらしているわけではないようだ。この世界が惑星でないのなら、なぜ酸素があり、強風が巻き起こり、生物の住める気温が保たれ、そして、夜が訪れるのだろう。


「シオン君!」


 幼さを残す女の声に呼ばれ、俺は心臓の高鳴りを押し殺して振り返った。


 城から出てすぐのところで待っていた俺を見つけ、笑顔で走ってきた少女の艷やかなとび色の髪が揺れる。


「ごめん、遅くなって!」


 カンナ。俺の命の恩人だ。


 ウォーカーたちの凱旋から間もなくして帰ってきた彼女は、「ディナーを奢る」という約束を覚えてくれていて、俺と再会するなり「お腹空いてる?」と上目で見上げてきた。俺は強く頷き、マーズににやにやされながら、外に出てカンナの支度を待っていたのである。


「待った?」


「いや、全然……着替えたんだな」


 カンナは騎士風の白装束を脱ぎ捨て、チュニックとスカートにコートを羽織った、私服と思しき姿に変身していた。帯剣もしていない。こう見ると、本当にあどけない、普通の女の子だ。ものすごく可愛いことを除けば。


「シオン君こそ、その服」


「あぁ……マーズさんがくれたんだよ」


 正確には、カンナとの待ち合わせに浮ついていたところ、自分が下着同然の寝間着姿であることに気づいた俺がマーズに泣きついたのだった。


 マーズは城の二階に上がって、新客にギルドが支給するものだという衣服を、一組俺に見繕みつくろってくれた。麻糸のシャツとズボンに紐靴ひもぐつ、コートまで。色も選べたので全て黒を注文した。


「なんか、真っ黒だね」


「服なんてどうやって選べばいいか分からなくて。向こうじゃ制服と道着と寝巻きしか着たことないから、黒以外は違和感あって……ヘンかな」


「いや、似合ってるよ。服はすぐボロボロになるからたくさん買わなきゃね。今度安くていい店紹介するよ」


「いいのか? 助かる」


 ぎこちなく破顔した俺に、カンナはにこりと微笑んだ。


 カンナに案内されて、俺は賑わう街の一角に構える煉瓦造りのステーキハウスに入った。店内には肉の脂が跳ねる濃厚な匂いが充満していて、一歩足を踏み入れた瞬間強烈に胃を刺激された。


 テーブルにつき、全て英語で書かれたメニューをカンナに翻訳してもらいながらどうにか読み、「英語の練習ね」と無茶ぶりされて俺が注文する羽目になった。


「え……えくすきゅーずみー」


 俺の無残なひらがな英語に、カンナは腹を抱えて笑った。ステーキが来るのを待つ間、色々な話をした。


「いい街だよな、ここ。なんかすごいパワフルでさ。外にあんな化け物がいるってのに」


 楽しげに談笑し、分厚い肉を頬張る客や、窓の外を賑やかに歩く街の人々を眺めて、俺はしみじみそう思っていた。


「そう言ってくれると嬉しいな。ちなみに、正確にはここって街じゃなくて"国"なんだよ」


「えぇ?」


 いやに大仰なワードが飛び出した。ここは崖の上から見渡した感じ、南半分を山肌、北半分を森に囲まれた円形の集落で、外周に面した門から中心の白い城まで歩いて三十分程度だった。新宿区だけでももう少し広いはずだが、それで国とは。


「この世界ではなかなか大きな集落を構えるのが難しいの。人があまりに集まっちゃうと強いモンスターを引き寄せてしまうし、人が住むのに都合のいい立地や環境ってそうないから。この国、ルミエール王国って言うんだけど、ここも周囲に群青してる《ハツカ》っていう木のお陰で発展できたんだよ。葉や幹が、モンスターの嫌う匂いを出すの。人口三万……この世界じゃ、これでも大規模な方だよ」


「そうなのか……言われてみれば、そうだよな」


 ここには立派な外壁があるが、あれをマンパワーだけでこしらえるには相当な年月が必要だろう。建築中に何度もモンスターに襲われるようでは、いつまでたっても集落の発展は見込めない。


「じゃあ、新客には国からの補助が出るってマーズさんが言ってたけど、あれはココのことを指してたんだ」


「うん。厳密にはギルドの扶養ふように入るの。手続きはもうしたでしょ?」


「そういや、羊皮紙みたいな紙にサインさせられたな……」


 マーズの説明によれば、ギルドとは、国の警察であり、軍隊であり、役場でもある"何でも屋"的国家機関だ。腕の立つ冒険者をようし、鍛え上げて派遣するだけでなく、国の窓口となって国民のためのあらゆる業務を一手に請け負う。ギルドに所属するウォーカーや従業員は、言わば"公務員"なのである。


 正規の手続きを踏まえれば、新客は一年間、最低限だが十分な資金と必需品、住居までもをギルドから支給してもらうことができる。俺も今夜から早速、街の中心部にある新客居住区で長屋の一室を借りることになっていた。


「ボロくてびっくりするよ」


「構いやしない。ありがたいよ」


「なんか懐かしいなぁ、もう六年前か」


 頬杖をついて斜め上に視線を向けたカンナの横顔に、一瞬、ノスタルジックな色が挿した。


「六年?」


「うん、ちょうど六年前の今日。私が九歳になる年だったな」


 一つ年上だったのか、などとボケたことを考えられたのは、かなり後になってからだ。


 今日俺が経験した全てが、たった九歳の女の子に降りかかった。想像もできない。そんな壮絶な体験をして、こうして今、超然と微笑んでいる彼女を、同じ人間とは思えない。


「その年"助かった"新客としては、たぶん最年少だったかな。私は運が良かった。まさにモンスターに食べられそうなところを、白薔薇のウォーカーに助けてもらって。それからもいろんな人に支えてもらって生きてこれた。マーズさんなんか、私を引き取って自分の家に住まわせてくれたのよ。あんなボロ小屋で、小さな女の子一人で住まわせられないって」


 日本の、小学四年生の女の子だ。こんな世界に放り込まれていったいどうやって生きるというのか。カンナはこの国の大人たちに一生懸命守られて、この歳まで生きてきたのだ。俺は、カンナが俺にこんなに良くしてくれる理由を同時に今、少しだけ聞いた気がした。


 間もなく、ウェイターが鉄板に乗った熱々のステーキを運んできた。おびただしい量の油を跳ねさせて芳香を放つ肉の塊は、カンナの方でも200g、俺のに至っては600gは下らないサイズで、思わずカンナと巨大ステーキを交互に見つめた。


「げっ、俺、こんな量頼んじゃったのか……。ごめんカンナ、英語がうまく伝わらなかったみたいだ、その、決して奢りだからと調子に乗ったわけではなくて……」


 しどろもどろに弁明する俺に、カンナはぷっと吹き出したかと思うと、大きな口を開けて笑いまなじりを指でぬぐった。


「な、なんだよ?」


「ごめんごめん、その量は私が伝えたの。男の子ってたくさん食べるでしょ?」


 そう言えばカンナも流暢な英語でウェイターに何やら注文していたが、俺には全く意味が分からなかったのだ。


 それにしても、なんというボリュームだろうか。店の雰囲気こそ大衆的だが、赤身とサシが絶妙なバランスで共存するミディアムレアのステーキは、その香りだけでもう生唾が止まらないほど美味そうで、何よりものすごく、高そうだ。今にもかぶりつきたいのをこらえて、俺はカンナを上目で見つめた。


「いいのか……? こんなに、高そうなもの」


「ぜんぜん。君は命の恩人だし。そのお肉、すっごく牛肉に近い味だからきっと口に合うと思う」


 そうか。この肉は俺の慣れ親しんだ家畜のものではなく……モンスターの。そう思うとかすかな抵抗感が鎌首をもたげたが、カンナが天使のように微笑むので、迷いはあっさり消えた。


 いただきます、とうやうやしく両手を合わせてから、俺はナイフとフォークでぎこちなくステーキをカットした。表面に刃を当てると、肉は軽い抵抗と共にズブズブと切れていく。肉汁溢れる断面の、微かに赤い部分があまりに魅惑的だ。


 小皿のステーキソースにじゃぶっと浸して、一思いに頬張る。瞬間、良い歯ごたえとともに途方もない旨味が口中に溢れ出して、思わず、深いため息が出た。


「う……うまい……」


 半泣きで呻いた俺に、カンナがまた吹き出した。俺の反応を見守ってから彼女も両手を合わせ、二人で会話もそこそこにひたすらナイフとフォークを動かし続けた。


 やがて綺麗に鉄板が空になる頃には、俺はすっかり満たされて、天井に吊るされた古ぼけたランプの光を見上げて、夢見心地でいた。


「ごちそうさま……俺、こんなに美味いもの初めて食べた」


「ふふ、喜んでくれたならよかった。すごい食べっぷりだったね。足りなかったかな」


「そんな、と言いたいところだけど、倍はいけたな」


 呆れたように笑われた。


「またご馳走してあげるよ」


「いや……」


 俺は一瞬迷ってから、意を決して切り出した。


「今度は、俺に奢らせてくれよ」


 カンナが目をぱちくりさせて、俺の顔を覗き込んだ。


「そんな宛あるの? 無理して気を遣わなくても」


「ウォーカーを、目指すって言ったら、笑うか?」

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