第2話 ギルド《白薔薇》-2

 マーズが何を言っているのか、最初は全く理解できなかった。


「あたしはアカネで生まれたの。父と母も、その両親も。遠い昔にこの世界にやってきた地球人の子孫。あたしみたいなのは現地人ナチュラルって呼ばれてる。あたしにとっては、この世界で生まれたことの方が当たり前だし、空は赤いのが当たり前。青い空なんて、考えただけで不気味〜」


 俺はこの時、不思議なほど自分がめていくのを感じていた。


 俺より長い時間をこの世界で確かに生きて、彼女は今、俺の前に立っている。それを認めることは、この世界を認めることのように思えた。


 街を行き交う人々の中にも、ナチュラルと呼ばれるアカネ出身者が多くはずだ。そして俺のような地球人も、彼らと手を取り合い、こうして立派な文明を築いて生き延びてきた。


 その歴史をたずねることは、今を受け入れることのように思えた。


 俺は立ち上がり、カウンター横の天窓に歩み寄った。地下に半分ほど埋まった形の酒場だが、天井近くの窓からは空の赤い光が差し込んでいる。


「赤い空……よく見るとけっこう綺麗ですね」


 青空のことを蒼穹そうきゅうと言うが、ならばこの景色は紅穹こうきゅうとでも名付けるべきだろうか。血色の空は、俺の常識からかけ離れていて落ち着かないが、目を奪われるほどの美しさが、確かにある。


 俺の隣に歩いてきたマーズは、形のいい目を丸くしていた。


「この空のこと、初日からそんな風に言ってくれる人、ほとんどいないのよ」


「気の迷いかもしれません。マーズさんがこの世界で生きてきたこと想像したら、なんだかそう思えただけで。あなたの髪の色みたいで綺麗だなって」


 隣に立つ彼女の方を見て、正直にそう思った。街の人にも大勢赤い髪を見かけたが、もしかしたらナチュラルはその髪色で生まれてくるのかもしれない。


 マーズの髪は、窓から差し込む茜色の光を受けて鮮やかに、淡く発光していた。比喩ではない。アカネの空の光を受けると、ナチュラルの髪はこれほど美しい反応を起こすのか。


 その美しさに見惚れていると、マーズは不思議な顔になって一瞬固まった後、くすくす笑った。


「ちょっとドキッとしちゃったじゃない。あまりオトナをからかうもんじゃないわよ、坊や」


「え?」


「あは、なんだ天然なの?」


 愉快げに目を細めて俺を観察するマーズに、惑わされそうでパッと目をそらした。


 俺たちはカウンターに戻った。その頃には俺は、彼女が紹介してくれた見知らぬ飲み物のうちのどれかを試しに飲んでみようかという気になっていた。クルスという柑橘類を絞ったジュースを注文した。


 ツブツブした果肉の浮いた淡いレモン色の液体からは、頭が覚醒するような爽やかな香りがした。一口飲むと、酸味の強いグレープフルーツジュースといった感じで、強烈に目がシャキッとした。


 マーズは、その後もバーカウンターの向こう側に頬杖をついて、色々なことを教えてくれた。


 人類が最初にアカネに飛ばされたのは、少なくとも三千年以上前であること。あえなく全滅を続けていた人類が、やがて毎年少しずつの生き残りを出し、後世に知識と知恵を伝え、その繰り返しで少しずつ少しずつ、生存者を増やしてきたこと。


「いいもの見せてあげる」と言うなり、マーズは立ち上がった。


 奥の引き出しにどこからか取り出したカギを差し込んで、何やら汚い紙の束をうやうやしく取り出し、俺の前に持ってくる。それは――あまりにボロボロで、不恰好であることに目をつむれば、どうにか「本」と言える形状を保っていた。


 分厚い象皮のような素材の赤い表紙の四隅から、黒ずんだり破れたりしているページの端が顔を出す。紙のサイズさえ不揃いで、一目で手作りだと分かる。


 表紙には濃厚な墨で『Monster Guide』と妙に鬼気迫るような達筆で書き殴られているが、そのタイトルと思しき墨文字も擦り切れ、解読も難儀な有様である。


 俺は目の前で異質な存在感を放つ遺物から、途方も無き人々の涙と、血の臭いを嗅いだ。


 震える手を伸ばし、その分厚い表紙をめくってみる。一ページ目は正確な四角形ですらない、黄ばみ黒ずんだボロボロの紙だった。そのザラザラとした材質に、昔小学校で作らされた和紙を思い出した。


 そのページの中ほど。滲む黒インクで、手書きのサインがあった。『Marcus Domitius』。


 その下に十行ほどの文章が書き連ねられているが、走り書きであるだけでなく、英語のような文章で書かれているため読むのは不可能だった。


 思わず硬直していたその時、マーズの白く細い指がその文の先頭を差した。それはゆっくりと右に這わされていく。そしてそれと同時並行で、彼女の桜色の唇が動く。


「『マルクス=ドミティウス。地球歴・西暦308年よりアカネの地を踏む。ローマの都を、置いてきた妻と娘の顔を思い出さない日はない。しかしこの地獄の先住民達は、私を頼ってくれている。私の持ち得た知識と技術を必要としてくれている。彼らを見捨てることはできない。そして私も、見限られたくはない。私はここに、あの化け物達の生体を知る限り、記す』」


 翻訳してくれたようだった。その血の滲むような筆跡を目で追っていると、マルクスという男の生々しい肉声が、マーズのソプラノの声に途中から取って代わったかのような錯覚を覚え、俺は彼の思念が宿ったかのような目の前の書物から目を離せなかった。


「彼はこれとは別に随筆じみたものも書いていてね。それによると、彼はローマ帝国に住んでいた植物学者だったらしいわ。地球の歴史には詳しくないんだけど、かなり大きな国だったみたいね」


 ローマ帝国。そのぶっ飛んだ単語に俺はまたも目眩を覚えた。いったいいつの話だ、それは。


 教会が権力を握り、知的好奇心が全否定されていたあの時代に植物学者とは、よほど酔狂な輩である。


「彼は、この世界で初めて"紙"を発明した人間よ。それにより、人類は飛躍的な進歩を遂げた。これはマルクスが仲間と協力して完成させた、かつては世界に一冊しかなかった本。『モンスター図鑑』」


 言葉を失った俺は、マルクスの遺産をそっと撫でた。


 ページを掴み、いくらかめくってみる。図鑑の丁度半ば辺りのページを開いたところで、俺は息を詰まらせた。


 見開きの右側に、舌を巻くほどの繊細な筆使いで色鮮やかに描かれた怪物の似顔絵がある。苔色の体毛で覆われた巨体。黒い強膜に真紅の瞳が"三つ"、今にも喰いかかってきそうな形相で俺を睨みつける。


 総毛立つ。それはまさしく、今日俺を襲った三つ目の化け物だった。


「『先住民曰く、名は"ゴルダルム"。生息地域は狭く、調査の限りでは個体数も少ない。湿度の高い森林地帯に出没する。好物はズバリ、人肉である。凄まじく機敏に動く。うなじの部分に太い血管が収束していることが分かっている』」



 またも、マーズが翻訳してくれた。俺の気を何より引いたのは最後の一文だ。うなじに太い血管が収束、つまりそこを切りつければ大量の出血が見込める、と。


 それは即ち、うなじが弱点である、ということに他ならない。


「さっきまであたしが語った歴史は、マルクスが広めた製紙技術によって残されるようになった"文献"に記されていたものよ」


 俺は改めて目の前のモンスターガイドを見つめた。今ならこれの価値が分かる。この本が救った命の数も。


「それから先は、言わば人類の高度成長期。"情報"が人々の命を救ったの。生存者は年々増え続け、目覚ましく発展していった。地球の文明レベルが上がるごとに、色んな知識を持った新客が入ってくるようになって、そこからはもう怒涛の勢いね」


 農業、建築、医療、化学――地球から新たな客人が持ち寄る最新の知識と技能は、マルクスの発明によって継承を可能にした。


 わぁっ、と。今まで耳に入らなかった背後の喧騒が、思い出したように膨れ上がった。ハッと振り返ると、小汚い酒場で大勢の人間が酒を呑み、肉を食い、肩を組んで笑顔を爆発させている。


「……すごいな、人間って」


「うんうん。この時代に召喚されたこと、幸運に思うといいわ。今では街の外に出ない限り、モンスターに食われることなんて滅多にないぐらいには平和なんだから」

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