第2話 ギルド《白薔薇》-1

 門番は日本語を話せなかった。それでも、中学校英語程度しかわからない俺に、ゆっくり、大げさなボディランゲージを交えながら実に親身に接してくれた。


 門番が手近の滑車を回すと、門に隣接した柱から錆びた歯車の回る音がした。その先から伸びた頑強なロープがピンと張り、重たい悲鳴を上げながら、分厚い木製の門をゆっくり真上に引き上げていく。


 二メートルほど上がって停止した門の向こう側は、別世界だった。すぐそこのストリートを横切るところだった通行人の女性が、俺に気づいて手を振りウィンクした。


 ひたすら真っ直ぐ歩きなさい。心配ない。ここは安全だ、少なくとも崖を滑り降りるよりはね。神のご加護があらんことを――


 たぶんそんな風なことを言ってくれた門番に、俺は精一杯「せ、センキュー」と返して、ゆっくり街に足を踏み入れた。


 街は賑やかで、逞しかった。建物はどれも一見綺麗だが、何度も修繕を重ねた跡が見えたし、行き交う人々も、汚れや破れの隠せない衣服をまといながら表情だけが華やかだった。


 言われた通り真っ直ぐ歩く中で、何度も話しかけられた。一人の露天商が歪な焼肉の刺さった串をくれた。安いレバーのような食感と味で、普段なら口に合わないだろうものが、妙に美味く感じられた。


「……ここか」


 十分、二十分と歩き、ついに行き当たった城の前で、俺は思わず立ち止まった。花崗岩を思わせる白い石造りで、見上げるほど大きい。金や真紅の飾り布が風を受けて舞い、手入れの行き届いた緑と噴水の庭が囲う。絢爛豪華なその様は、王族でも住んでいそうな佇まいだ。


 いかにも場違いで足がすくむ。正面の豪奢な門は固く閉ざされ、度を越えて長い槍を構えた二人の門番が両脇に立っていた。


「あ、あの……城を目指せって言われたんですが」


 Oh! と門番がにこやかに片手を広げた。よく分からないが通じたらしい。門番はジェスチャーで、城を迂回するよう伝えてくれた。


 言われた通り右へまわると、城の横腹にもうひとつ玄関があった。正面玄関のような絢爛豪華さはなく、黒い鉄格子で脇を囲んだ下り階段が、城の地下に続いているようだった。白い石造りの階段を何段か降りた先の門は、今度は大胆に解放されていて、俺を中へ招いているように感じた。


 意を決して正面玄関をくぐった瞬間、むわっとした男臭い熱気が飛び込んできて、否応無く足が止まった。


「うぉぉ……」


 そこは想像していたような、レッドカーペットをシャンデリアの光が照らすような上品なエントランスではなく、もっとずっと、猥雑わいざつで大衆的な空間だった。


 だだっ広いスペースいっぱいに安そうな木製のテーブルとベンチがずらっと並び、大勢の人間がそこら中で酒をあおっていた。吊るされた裸電球がほのかに照らす中は薄暗く、タバコの煙やいろんな食事の混じった、独特な匂いが充満していた。


 活気のある笑い声が幾重にも重なるその場所は、俺をなぜか強烈に惹きつけた。父に何度か付き合わされた居酒屋に近い雰囲気だったからかもしれない。形容しにくい安心感のようなものが、俺を包んだ。


 酒場--この空間に名前をつけるなら、まさしくそれがぴったりはまった。


「ハーイ、そこの坊や。あんた"新客"だろ?」


 入り口で突っ立っていた俺に、声をかけてくれたのは目をこするような美女だった。


 ばっちり引かれた薔薇ばら色の口紅と、緩いウェーブのかかった色のロングヘアーが、彼女の肌の白さを強調させていた。白いブラウスと黒いパンツにサロンを巻いた姿から、この酒場の店員だろうかと思った。


 長い睫毛まつげの下、大きな形のいい目は宝石のエメラルドみたいな色で、どう見ても日本人ではないのだが、彼女は俺に流暢な日本語で話しかけてきた。綺麗な声だ。まるで吹き替えの映画を見ているような感覚になる。


 ボタンを二つ外したブラウスの隙間から覗く豊満な胸の、柔らかそうなところについたホクロが色っぽくて、目のやり場に困った。


「……新客? いや、酒を飲みにきたわけじゃ」


「あっはっは! そうじゃなくて、この世界に今日初めてきた人だろうってこと」


「あ、あぁ……そうです」


 しどろもどろに頷くと、彼女は手招きしてからくるりときびすを返した。モデルのように颯爽さっそうと歩く彼女の、ぷりぷり揺れる形のいい尻に見惚れながらついていく。


 案内されたのは酒場の隅のカウンターだった。壁際の棚には大量の酒瓶が並べられており、まるでバーみたいな場所だ。彼女はカウンターの奥に入って行き、向かい合う席を俺に勧めた。


「私のことはマーズって呼んで。何飲む? 日本人の口に合うのはロニー茶かしら、ちょっと苦すぎるけど。それか果汁百パーセントのクルスジュースとか、あぁ、バニラホースのミルクが今なら搾りたて」


「えっと……水はありますか」


「あら、お金なんか気にしなくていいのよ、あたしの奢りだから。ノンアルコールだし」


「あ、ありがとうございます。じゃあ…………水で」


 知っている飲み物が一つもない。マーズは絵になる仕草で笑って、グラスに水を注いでくれた。


 角氷が涼しい音を立てるグラスを受け取り、そっと一口飲む。キンと冷えた水は今まで飲んだどれよりも美味しく感じた。もう一口、もう一口とむさぼるように飲み干す様子を美女はニコニコしながら眺めていた。


「美味しいでしょ。井戸水なの」


 本当に生き返った。背もたれに体を預けて一息ついた途端、水分が脳にまで行き渡ったみたいに、一斉にいろんな感情が溢れ出してきた。


 見知らぬ酒場のカウンターに座り、下着同然の姿で水を飲んでいる。向かいには得体の知れない美女が頬杖をついて笑っている。俺の知らない飲み物が、彼女の背後の棚に所狭しと並べられている。


「……ここ、どこですか」


「《アカネ》。異世界」


「アカネ……」


「ぴったりでしょ? この空を見て、私たちのご先祖様がつけたんだろうね」


 やはり、俺は知らない世界に来たのだ。呆然とその事実を飲み込んだ。人並みに夢想したはずのそれがいざ現実になって、高揚感などかけらもない。絶望というにも少し大げさな、不安というには少し足りない暗鬱あんうつもやが、ゆっくり広がっていく感覚だけがある。


「アカネはね。神様が飼ってる幾千の怪物モンスターの、飼育小屋だって言われてる。可愛いバケモノたちを自然豊かなこの世界にまとめて詰め込んで住まわせてるの。酔狂でしょ?」


 マーズは指を立て、目を閉じ、おとぎ話を語るような口調でそう言った。


「年に一回大量の餌をぶちまけていく以外には、特に世話もしないずぼらな神様よ。神様にとっては一年って一瞬なのかもしれないけどね」


 その瞬間、俺の脳裏にごく短い映像が投影された。


 生い茂る樹海。徘徊する魑魅魍魎ちみもうりょう。その世界を照らす紅の空に目を凝らし、遥か向こう側をよくよく見れば。


 三日月型の口を貼り付けたのっぺらぼうが、こちらを覗き込んで笑っている。


 そいつが、何かをむんずと掴んで、上からこの世界に向かって振りかけた。それは青い光の雨となってアカネに降り注ぐ。


 その光のうちの一つが、俺だった。何も知らない安らかな寝顔で、森の中腹に大の字に横たわる。


 のっぺらぼうは俯瞰ふかんする。アカネの各地に落とされた人間に、モンスターが面白いように群がっていくのを、金魚の水槽に餌を撒いた子供のように面白がっている。


 緑色の体毛に覆われた三つ目のバケモノが、目を覚ました一人のふくよかな男性に狙いをつけた。巨大な両腕で彼を掴み取り、しげしげと物色し、そして、大きく口を開く。寸前、男は必死で俺に助けを求めた。


 男の首にバケモノが食らいつくのを見て、のっぺらぼうは満足そうに、にんまり笑って言った。


 ――タベテルタベテル。



 起きながら悪夢を見た。開いた瞳孔で一点を見つめ、荒い呼吸を繰り返していたことに今気づく。誤魔化すようにグラスを煽って、氷が溶けてできた僅かな水を必死に飲んだ。


「……餌」


「今年で言えば、あなたたちのことよ」


 マーズはピッチャーを手に取り、水のおかわりを注いでくれた。俺はすかさずそれに口をつけ、一気に半分以上も飲んだ。


「……人数って、どれくらい」


「百万人」


「ひゃっ……!?」


 俺は気づけばカウンターから立ち上がっていた。思えば、カンナも全く同じ数字を口にしていた。


「あり得ないだろ、そんな人数が毎年地球から消えてたらっ、とっくに!」


「うんうん、ニュースになってる。みんな言うよねそれ」


 カラッとしたマーズの態度は俺を落ち着かせた。愚かなことを考えたものだ。たとえ彼女を完膚なきまでに論破したって、俺が現にこうして意味のわからない世界に飛ばされて、食われかけた、その事実は変わらない。


「今話したこと自体、全部神話がソースだから。あなたが一番納得できる与太話にすがればいいわよ。例えばここはパラレルワールドで、地球ではもう一人のあなたが今でも普通に生活してる、とか。例えば地球からここに召喚された瞬間に、あなたが向こうに存在していた事実は丸ごとなかったことになる、とか。ポピュラーに出回ってる神話にもけっこう色んなパターンあるのよ」


 なんだよそれ。そんなわけのわからない理由で……いや、理由すら与えられずにこんなところに飛ばされて、それで「はいそうですか」なんて。


「納得できるわけがない……」


「案外そんなものよ。あなたって自分が地球に生まれた意味に納得してこれまで生きてきたの?」


 マーズにあっけらかんと尋ねられて、俺は舌鋒を封じられた。


「なぜ人は生きるのか、とかさ、よくある命題よね。ちなみに私は「死ぬまでの暇つぶし」って答えが一番嫌い。死ぬために生きてるんなら今死ねよって感じ」


 そんなの、考えたこともなかった。だって地球に生まれたのも、こうして生きているのも、俺にとってあまりに当たり前だったから。


「知らなかっただけで、これもあなたが生きてるのと同じくらい当たり前のことかもしれないわよ。確かなことは、あなたのいた世界とは別に、アカネという世界があって、そこに毎年百万人の地球人が飛ばされてくる。そこに今年あなたが紛れ込んでた。それだけ」


 俺は返す言葉を失った。ひどい人だと思った。事実は変わらないから、理由なんて求めずにさっさと受け入れろ。正論だからこそ、残酷ではないか。彼女は子どもを通り魔に殺された親にも同じことを言うのだろうか。


 事実は変わらないからって、理由なんてないからって、俺はそれでも慰めて欲しかった。


「……あたしね、本当はあなた達の気持ちなんて分からないの。あたしは青空って見たことないから」

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