第24話「シン・エヴァンゲリオン」ネタバレ感想 序
さて、公開から一週間たったのでネタバレありで感想をのべてもいいかな。
とはいうもののネタバレしようがしまいが、大して感想は変わらなかったり。
とりあえずネタバレが関係のない感想を述べていこう。
一ついえることは庵野監督は俺ら世代、つまり思春期の頃からずっとエヴァを見続けてきた人に対して責任を取ったと言うことである。
エヴァという作品に対して向き合わずに、例えばシンゴジラを撮ったあとに、エヴァに戻らないことも彼には許されていたのだと思うのだが、そこは戻ってエヴァを作り、さらに、そこで投げっぱなしジャーマンをするのではなく、ほとんど多くのファンが満足する終劇を迎えさせた。
劇中で、散々言われてきた「けじめ」というものを庵野監督自身がきっちり取ったのである。
さて庵野監督には一体何の責任があったのだろうか。
ここまでエヴァゆるで書いてきたとおり、14,15歳の少年にとって、水曜の夕方にやるエヴァというSFは劇薬そのものであった。
ただでさえ影響を受けやすい思春期の少年、とくにハイロック少年は大いにエヴァに感化された、いやかぶれたと言っていいだろう。
それはこれまで話してきたとおりである。
そして、これは何も俺がとりわけ特殊だったわけではなく、俺のような男達をエヴァは多く生み出してしまったのである。
もちろんそれはエヴァに限らず、いろんな作品でもいえるのかもしれないが、最も影響力が強かったのは、富野監督でも、宮崎監督でもなく、庵野秀明であろうことは疑いようがない。(反論は認めない)
ただ、うちの親父はどうも松本零士の影響を受けまくっていたようである。そして明らかに庵野秀明は松本零士信者(まさかヤマト作戦とは!?)なので、何のことはない、うちの親父が感化されたものと俺が感化されたものにたいした差はないと言うことだ。
そういう意味で、一番影響力が強いやつは松本零士だというのなら、反論は認める。
さて、九〇年代半ばはギャル的な文化とエヴァ的な文化に分かれていたといっていい。
エヴァ以降いわゆる世界系と言われる作品が増え、非常に内向きな心の内面に切り込むような作品が、俺らのエヴァラーにとってはもてはやされていたし、一方でそれとは全く相容れない形で、ギャル文化、ヤンキー文化のアムラー達が世の中には蔓延していた。
一人で完結するのではなく、より、仲間とか絆を大事にしていくという文化がいわゆるギャル・ヤンキー的な「うちら」文化がはやりだしたともいえる。
九〇年代後半、仲間とか一体感がもてはやされてるというのは、はやりを見ればわかると思うのだが、いわゆるオタク的でないアニメとしてはやりだしたのがワンピースだし、1998年のフランスワールドカップを機に空前のサッカーブームが日本に訪れている。
いつの間にかサッカーブームは終わっていルと言っていいと思うのであるが、一体感を持ってパブリックビューイングで日本を応援するとかっていうのは九〇年代後半からの流れの代表であるといえる。
そんな感じで、文化的な隔絶が九〇年代半ばから2005年まで広がっていたという認識で、同世代の人間は納得してくれるだろうか。
まあ、納得しなくてもいいんだ。俺ら当時のオタクがそういう空気感を感じてたんだって分かってくれればいいだけ。
しかし、このいわゆるオタクと非オタクの文化の隔絶というものを若い世代には理解しづらいのではないかと思う。
今で言えば、陰キャと陽キャというカテゴリーで語られる文化なのだと思うのだが、現代では、それはアニメを好きだからとかそういうカテゴリーで分類されてるものではない。
ただ単純にコミュ力で比較されてるもののように思う。
そして、アニメ好きという文化が深く女子まで浸透した結果、実質現代ではアニオタという単語は死滅したと言っていい。
オタクという言葉の背景には非モテであるというニュアンスがなければいけない。
しかしもはやアニメ・漫画という文化は非モテから遠いものとなった。むしろそこを知らなければ若い女子とは話しづらい側面まで出てきてしまったのだ。
なので、アニオタはもはや存在しないのである。
と関係ない話をしているようなのだが、この部分は語っておかなければいけないのだ、どうしても。
こういう、エヴァ放映当時の文化的な背景があったからこそ昔からのエヴァファンは感動したとか、「卒業」できたとか、本当の意味で「エヴァの呪縛」から解放されたとか言っているのである。
エヴァの呪縛というのは、俺みたいなアラフォーおっさんが、今まで書いてきたことのような訳のわからない自分語りをしてしまうような発想そのものを指す。
極めてナルシズムで、そして内省的で、簡単に言えば考えすぎな思考そのものである。
これはいわゆるエヴァ世代が全員抱えるエヴァの呪縛そのものである。
これはどう説明したって若い世代に伝わらないと思う。
そのエヴァの呪縛をから解放するための映画を庵野監督は作ったのである。
俺たちにはそれが、芯から伝わったし、逆にわからない人には全然伝わらないものなのだろうと思う。それは仕方ない、全作品を見たからといってこの感情は共有できない。
25年というこの年月が、劇場での感動を生んだのであって、若い人が、全然わからないというのは仕方ないのだ。
そもそも、わからないと言えば、はっきり言って昔からのファンだって何もわかってないのだ。ただただ、俺らは感じただけだから。
まだまだ書きたいことはあるので続きます。
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