四番目の死

 朝が来ても、わたしは部屋に閉じこもっていた。

 隣で結実が起きる気配がする。微かにバターの匂いと、パンの焼ける匂い。ムラサキサマになってからは五感が鋭敏になった気がする。

 やがて玄関ドアが開いて、その向こうに結実の気配が消えた。

 わたしはそっと部屋を出る。四つん這いだった。直立するよりこちらのほうが自然に歩けた。

 一匹の獣となって、リビングに入る。

 すぐ近くで焦げたものの匂いを感じ、直立に戻った。テーブルの上にはトーストが一枚、皿の上に乗っていた。バターとバターナイフは横に添えられている。

 トーストに丁寧にバターを塗ってからひと口かじった。

 おいしい。

 味覚が変異していて、いつも通りの味とはかけ離れていたけれど、わたしは幸せだった。

 ささやかな朝食を終えたあと、結実の部屋に忍び込んだ。

 失禁で汚れていた床はきれいに掃除されている。わたしはジャンプして天井に張りつき、窓辺までヤモリのように這っていった。カーテンレールの固定具に硬い爪を立てると、みるみる細くくびれて針金のようになった。すべての固定具を針金に変えてから、床に飛び降りる。

 これでよし。

 結実が首を吊ろうとした瞬間、カーテンレールは荷重に耐えきれずに落下するはずだ。

 睡眠薬の残りも回収しようとして部屋を見渡すけれど、見えるところには置いていないらしい。どこかに隠しているか、学校に持って行っているかのどちらかだろう。

 机の引き出しを探っていたら、見覚えのあるノートが出てきた。小学校のときにわたしが使っていた日記帳だ。

 どうして結実が持ってるの?

 疑問を抱えたままページをめくる。横罫の紙に、毎日のたわいもない出来事が綴ってある。結実と買い物に行ったこと、学校を休んだこと、一日中泣いていたこと。

 一ページだけ、日記ではないところがあった。

『シスイについて』

 そんなタイトルの下には、〈死吸い〉にまつわる重要な事柄がびっしりと書き連ねてあった。祖母の話を忘れないように書き残したのだろう。幼い字が並んでいる。

 シスイをしたら、からだがむらさきになります。わたしはなんかいもできるけど、ゆうみはいっかいしかできません。だれかにしをうつすこともできるけど、それをするとしんじゃいます――

 結実は〈死吸い〉の存在を知っていたのか考えようとして、頭を強く振った。

 あまり考えないでおこう。

 ノートを引き出しに戻し、そっと部屋を出る。カーテンの引かれた自室に戻った。明るい部屋で日光を浴びていたせいか、全身の皮膚がひりひりと痛んだ。

 ベッドの上で獣のように丸くなって、まぶたを閉じた。


 どろりと濁った夢の中、大きな音を聞いたような気がした。

 目を覚ましたあとも、その音の残響が耳に残っていた。

 もしかして。

 ある予感を覚えて、結実の部屋へ向かう。

 カーテンレールが落ちて、カーテンが床に乱れていた。その生地がどす黒い赤で染まっている。

 カーテンの上で、結実は頭から血を流して倒れていた。

「ユ、ユウミィィィィ……」

 その胸に手を当てる。心臓が止まっていた。

 そんな。自殺を止めようとして細工したのに、そのせいで死んだなんて――

 わたしは迷わず、四回目の〈死吸い〉を始めた。

 とうとう「死」の支配は全身に及び、わたしの身体はますます獣に近づいた。背中が隆起してパジャマが破け、手足の爪はより長く鋭い凶器になった。視界には紫のフィルターがかかって、常に三六〇度を見渡せるようになった。皮膚から絶えず分泌される粘り気のある液体がフローリングを溶かしていく。

 結実の蘇生を確認すると、わたしは飛び跳ねるように自室へ戻った。

 もう、何も考えたくなかった。


 翌朝、部屋のドアがノックされた。

「お姉ちゃん、朝ごはんだよ」

 何かが置かれる気配。ほどよく焼けたトーストの匂い。

「わたし、今日はみんなと約束があるから……買い物に行くんだ」

 ありがとう、いってらっしゃい。

 その言葉をぐっと飲みこんで、わたしは廊下が無人になるのを待った。

 トレイの上にはトーストとヨーグルト、牛乳があった。長すぎる爪と変形した指に苦労しつつ、それらを口に運ぶ。トーストにはあらかじめバターが塗ってあった。

 ちょうど完食したところで、リビングから足音が戻ってきた。

 静かな、何かを達観したような結実の声。

「お姉ちゃん、ごめんね」

 わたしは混乱した。どうして謝るのだろう。

「ずっとお姉ちゃんが苦しんでるの、知ってた。だけど、止められなかったんだ。わたし、決めたことがあるから」

 どうしても許せないやつらがいる、と結実は言った。

「あいつらはお姉ちゃんとお母さんを貶めた。絶対に許せないことを言った」

 ふと、意識が遠くなっていくのに気づく。

 そうか、あの牛乳には睡眠薬が――

「本当にごめんなさい。わたし、これからすごく勝手なことをするから」

 やめて。

「今までありがとう、お姉ちゃん」

 大好きだったよ――闇に溶けていく意識の中で、そんな言葉が響いた。


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