三番目の死
夕食の片付けが済むと、風呂を沸かしてリビングに戻った。ソファに寝っ転がって文庫本を広げる。課題や予習はほとんど学校の休み時間に終わらせているので、家ではあまり勉強しない。
風呂が沸き上がったことを告げる電子音が鳴って、結実の足音がした。たん、と浴室の引き戸が閉まる。
いろいろあって疲れていたせいか、目は文字の列を上滑りして、なかなか次のページに進めない。身体は重く、おまけに上半身にはときどき鋭い痛みが走った。何者かが身体の内側を引っ掻いているようで、苦痛よりもおぞましさが勝った。
疲労と痛みの中で、ゆっくりと眠気が襲ってきて――
ふと目を覚ますと、もう十時を回っていた。
しまった、眠りすぎた。
慌てて立ち上がると、自室のタンスからパジャマと下着を持って脱衣所に入った。照明がつけっぱなしだ。溜息をこぼす。
電気代がもったいないから、必ず消しておくようにいつも言ってるのに。
服を脱いで、浴室に続く戸を引いた。
浴槽の蓋は開けっぱなしで、湯船の中に肌色のものが沈んでいる。長い髪がぶわりとお湯の表面に広がっていて――
不意打ちだったから、こちらの心臓が止まりそうになった。
「結実……」
湯船に沈んだ身体を引き上げる。濡れているので何度も手が滑った。
今日、睡眠薬を買ってあげたことを思い出した。おそらく結実は、睡眠薬を呑んでから風呂に入ったのだ。湯船の中で意識を失い、溺死するために。
洗い場に横たえた結実の死体に、三回目の〈死吸い〉を施す。
わたしも結構、慣れてきたな。
嫌な感触のする範囲はかなり広がり、「死」が身体を支配していくのを感じた。お腹、背中、そして――頭まで。
怖くないと言ったら嘘になる。わたしは自分が自分でなくなる恐怖に慄いていた。
それでも、結実がごぼっと水を吐き出して呼吸を始めた瞬間、自分のことはどうでもよくなった。ただひたすらに、妹がよみがえったことが嬉しかった。
結実が目を開ける前に、浴室から出て戸を閉めた。
おそるおそる鏡を見る。
そこには、ぬめぬめした紫色の――醜悪な怪物が。
わたしは絶叫した。声帯すら侵されているらしく、その叫びはまるで南国の鳥のように甲高かった。
廊下に飛び出して、自室に入るとドアに背中をつけて座り込む。
もう普通の女の子としての人生どころか、人間として生きていけるかどうかも怪しい。ムラサキサマになってしまったのだから。わたしを知る誰にも顔を見せられなくなった。三度も命を救った妹にも――
死にたい。
久しぶりにそう思った。
でも、そんなのは許されないことだ。わたしが死んだら結実はどうなる。お願いだから生きて、と何度も励ましてきたわたしが自ら命を絶ったりしたら、結実はどう思うだろう。
そこでふと、ある考えが浮かんだ。
もしかして、結実も同じ気持ちだったんじゃないか?
一度目の自殺のあと、結実はわたしが〈死吸い〉を行ったことを悟った。紫水家の能力を知らなくても、紫色に変わった腕を見れば、ただならぬ事態が起こったとわかる。
姉に治らない傷を負わせたことを気に病んで、二回目の自殺を決心したとしたら――
わたしは間違っていた。
結実を助けたことが――せっかく死んだのに現世に引き戻したことが、彼女を深く傷つけたのだとしたら、わたしは何のために苦しんでいるのだろう。
結実と話がしたかった。わたしたちは生きるべきか、死ぬべきか、話し合いたかった。
ドアの一枚扉の向こうで、脱衣所を出る足音がした。
足音がちょうどドアの前に差しかかったとき、わたしは呼びかけた。
「ユ、ユウミィィィ……マ、マッテェェェ……」
喉から奇怪な音が洩れる。足音が止まった。
「シ、シヌノハァァァ……ヤヤ、ヤメテェェ……ハナシタイ、コトガァァァ……」
「何言ってるの、お姉ちゃん」
そっけない言葉が返ってきて、結実の気配が遠ざかっていく。
「マ、マッテェェェェ……」
ドアの前で頭を抱えてうずくまった。人に顔を見せられない上、まともに喋ることもできないのに、どうやって結実を助けられるというのだろう。
「オォォォォ……オォォォォ……」
人のものとは似ても似つかない嗚咽が洩れた。そして、どうやら涙腺がなくなっているらしいことに気づいた。
もう、泣くこともできないのだ。
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