二番目の死
朝食はトーストとヨーグルト。結実は食パンにバターを塗ってから焼くタイプなので、いつも先に起きているわたしが塗っておく。二枚の食パンをトースターにセットしてから、結実の部屋まで行った。
目覚まし時計を使っているはずなのに、今日はなかなか起きてこない。昨日のことがあったから不安で仕方なかった。控えめにドアをノックする。
「結実……朝だよ」
たん、と微かに引き出しの閉まる音がして、それからドアが開いた。まぶたの半分塞がった結実が出てくる。
「牛乳は冷たいやつでいい?」
「……うん」
結実はのそのそとした歩みでトイレに向かった。寝不足なのだろうか。
わたしはキッチンに戻ってヨーグルトをふたつの小皿に盛った。牛乳を注いだグラスと一緒にテーブルに並べたところで、ちん、とトースターが鳴った。
朝食はいつも慌ただしい。ひとことも会話することなく、ひたすらに咀嚼する。
しかし、今日はちょっと様子が違った。
「お姉ちゃん、お金ちょうだい」
「何に使うの?」
「薬……眠くなる薬が欲しいんだけど」
父が海外赴任してからこのかた、財布の紐を握っているのはわたしだった。
「いいよ。千円くらいで……あ、やっぱり、わたしが買ってくる。それでいい?」
「いいけど……」
結実は不満そうにトーストをかじっていた。
学校帰りに寄ったドラッグストアで、睡眠薬を買う。店員にも話を聞いたところ、医者の処方がいるような強い薬は置いていないので、効用はどれもマイルドなものらしい。大量に服用しても死に至るようなことはまずない、という。
薬で死のうったって、そうはいくもんか。
もし薬の購入を結実に任せていたら、病院に行って強い薬を手に入れていたかもしれない。危なかった。二度目の自殺は絶対に食い止めなくては。
帰り道、わたしは手袋をはめた右手を見る。幸いにして、どうして手袋をしているのか訊いてくるクラスメイトは皆無だった。そもそも気づかれていないのだろう。
腕、もう治らないんだな。
そんな感傷に浸っていると、ずっと前に祖母が話していたことを思い出した。
――〈死吸い〉で身体に吸い取った「死」は、他人に移すこともできるんだ。ま、そんなことをしたら罰が当たって死んじまうんだけどさ。
身体を直すのに命を差し出さなくてはならないなんて、割に合わない気がする。それに、「死」を移すということは、他人を殺すというのと同じ意味だ。絶対にやりたくない。
川沿いの道を歩いていると、前方で数人の少女たちの笑い声がした。
河川敷には五人の少女がいた。みな中学のセーラー服を着ていて、四人がひとりを取り囲んでいる形だった。輪の中心にいるひとりは小突き回され、蹴っ飛ばされて、ほとんど地面にうずくまっている。誰かがはやしたてた。
「飛び込めよ、紫水」
「そしたらあたしら、ちゃんと助けるからさあ」
「こいつカナヅチだから、その前に死ぬんじゃね?」
下品に哄笑する一団に向かって、ガードレールの上から声を張り上げた。
「やめなさい! 警察呼ぶよ!」
やべ、人来た、と四人は河川敷を逃げ去っていく。わたしはコンクリートの階段を下りて、残されたひとりに近寄った。
「大丈夫だった? 怪我してない?」
結実はよろめきながら立ち上がった。わたしの手を振り払ってそっぽを向く。
「何でもない」
そう吐き捨てて、すたすたと歩いていく。その背中にかける言葉が見当たらなくて、わたしは結実の数メートル後ろを、まるで影のように付き添って歩いた。
アパートの部屋に戻ると、結実はわたしから睡眠薬をひったくってさっさと部屋に引きこもってしまった。
スーパーで安かった牛肉をぐにぐにと包丁で切り裂きつつ、河原の光景を思い返した。
ああいった仕打ちはわたしも受けたことがある。女は群れる生き物で、闘う生き物でもある。グループの中の弱いものに対してはどこまでも非情になれる。一方、グループを離れた者に対しては、徹底して無視を貫く傾向がある。
結実が普通の女の子の幸せを求めるかぎり、本当の幸せは訪れない。
祖母が逝ってからずっと悩んでいる。紫水家の女の背負った宿命について、結実に打ち明けるべきかどうか。今のところは、黙っておいたほうがいいと判断している。祖母との約束を反故にはできないし、ただでさえ傷ついた結実にさらなる絶望を与えるのは心が痛む。
だから、わたしは祈ることしかできない。
お願い、結実、人とわかりあうのはもう諦めて。これ以上、あなたが傷つくのを見ていられない――
がたん。
椅子を蹴倒す無情な音が響いて、現実に引き戻された。
包丁を乱暴に置いて走り出す。結実の部屋のドアに飛びついて、開けた。
昨日より高いところに結実の顔があった。昨日と違うのは、足をばたつかせていることだ。
まだ生きてる――
結実の身体を抱きすくめたけれど、予想より重くて持ち上がらない。小さな足には紐がくくりつけられていて、水を満たしたペットボトルがたくさんぶら下がっていた。
そんな――そんなことまでして死にたいなんて。
やっとのことで引き下ろした身体は、すでに命を失っていた。救命措置も効果がない。
ほとんどためらうことなく、冷たい唇に触れた。
二回目の〈死吸い〉。
腕から胸にかけて、無数の虫がざわざわとうごめく感触があった。気持ち悪いのをこらえて吸い続けると、「死」はついに首元までせり上がってきた。
結実の心臓が動き出すのを確認して、素早く部屋を立ち去った。洗面所の鏡に向かい合ってセーターの襟元を広げる。濃い紫色が覗いた。わたしはタートルネック以外の服を着られなくなった。
学校、もう行けないな。
首元をセーターでしっかり隠してキッチンに戻り、夕食の準備を続けた。
牛肉とピーマンの炒め物に、味噌汁とご飯。ふたり分の食事をテーブルに並べていると、結実がやってきた。何も言わず食卓に着くと、いただきますも言わずに食べ始める。
「いただきます」
わたしは手を合わせて、箸を手にとった。
ちらりと結実のほうを窺う。いつもと変わった様子は見られない。二回目の自殺が失敗した直後にしては、異様なほど落ち着いていた。
わたしは何か話しかけようとして、無難な話題を持ち出した。
「明後日だね、お父さんが帰ってくるの」
「……うん」
「あのさ、生きているのって楽しいこともあるよ……わたしは、こうして家にいるのが一番幸せなんだ。だから、もうちょっとだけでも」
「わたしは幸せじゃない」
あまりにも冷たい拒絶にわたしは言葉を失った。
結実は口元に微かな笑みを作って、
「お姉ちゃん、どうして人を殺しちゃいけないの?」
「……苦しむから。死んだ人も、そのまわりの人も」
「じゃあ、苦しんだら、人を殺してもいいの?」
「それは……」
「苦しんだら、自分を殺してもいいの?」
「違う!」
気がつけば怒鳴っていた。わたしは哀しいのと同時に、怒っていたのだ。
「結実が死んだら、わたしが苦しいんだよ!」
わたしの顔を見つめていた結実は、神妙な表情になってテーブルに視線を落とすと、茶碗を手にとった。何事もなかったかのように白米を口に運ぶ。
わたしはすっかり気勢を削がれて、食事を再開した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます