シスイ

松明

一番目の死

 とん、とん、とんとん、とん――

 わたしの包丁遣いはぎこちない。学校帰りに買ってきた大根は、まな板の上で不揃いな半円に姿を変えて散らばっていた。指にはここ数ヶ月で増えた傷。いったん治りかけても、水仕事をしているうちにぱっくり割れたりするので、なかなか数が減らない。

 もしお母さんがいたら、包丁をもっとうまく扱えたかな。

 キッチンにふたり並んで料理を教わる光景を思い浮かべるけれど、母の顔はぼやけていてうまく想像できない。写真でしか見たことのない母よりは、去年亡くなった祖母の顔のほうがずっと鮮明に思い出せた。

 遠い夏の日、古い祖父母の家の軒先で、夕顔に水をあげている祖母に声をかけた。

 ――わたし、なんでお母さんがいないの?

 ――お母さんは、おまえを命懸けで救ったからさ。

 祖母はホースの水を止めて、わたしの前にしゃがみこむと、冷えたしわしわの手で両肩をつかんだ。

 ――いいかい、よく覚えておくんだよ。紫水家の女は己の命を削ってシスイを使う。大切な人を助けたい、絶対に死んでほしくないと思ったときだけ、おまえの力を使うんだ。そういう人を守ってムラサキサマになるのは恐ろしいことじゃない。そいつは紫水の女としての名誉であり、誇りなんだからね。

 祖母の枯れた右腕は、紫色のまだら模様に覆われていた。

 ――おまえの守りたい人を作るんだよ、希実。

 とん、ととん、とん。

 切り終えた大根をボウルに入れて、冷蔵庫から豆腐のパックを取り出す。

 そのとき、アパートの玄関ドアの開く音がして、軽い足音がそれに続いた。

「おかえり、結実」

 豆腐をサイコロ状に切り分けながら言ったけれど、妹の返事はなかった。足音はそのままリビングを通り過ぎて、結実の部屋に消えた。

 中学生の妹の様子がおかしくなってきたのは、ここ最近のことだ。わたしとはろくに口を聞かないし、学校の話をせがむと露骨に拒否反応を示した。部屋から押し殺した泣き声が洩れているのを聞いたこともある。昨日は、洗面所で通学鞄についた泥を必死に洗い流しているのを見た。結実のお気に入りだったキーホルダーまでべっとりと汚れていた。わたしが覗いているのに気づくと、「出てって!」と結実は金切り声を上げた。

 たぶん、結実は学校でいじめられている。

 わたしは祖母からいろんなことを学んだ――妹は知らないことを。

 ――紫水の女はあちこちで忌み嫌われる。「死」の気配がするからね。だからって卑屈になっちゃいけない。誇りを持って生きるんだよ。

 高校生になった今、わたしは人と距離を置くことを覚えたけれど、中学生のころはひどいものだった。存在しているだけでクラスメイトの神経を苛立たせるのに、それでも誰かに好かれようとして何度も傷ついた。

 結実に教えるべきかもしれない。あんたは紫水の女なの、嫌われるのはあなたが悪いんじゃないの、と。でも、祖母に口止めされていたから言えなかった。

 鍋に水を注いで、火にかけた。沸騰してから顆粒だしを加える――

 がたん。

 廊下のほうから大きな音が響いてきた。何かが床にぶつかる硬質な音。

 椅子か何かを倒したのかな――とぼんやり考えて、ふと嫌な胸騒ぎがした。

 まさか。

 鍋の火を止めて、キッチンから廊下に向かう。結実の部屋の前で立ち止まり、ドアをノックした。

「結実、大丈夫?」

 返事はない。わたしの呼びかけに応じないのはいつものことだったけれど、最悪の想像が頭をよぎって、いてもたってもいられなかった。

 ドアを開けると、倒れた椅子が目に飛び込んできた。

 ずいぶん高いところに結実の顔があった――青紫色になった顔が。カーテンレールに結びつけられた紐がその首に回されている。

「結実っ!」

 妹に駆け寄ってその身体にしがみついた。持ち上げて降ろそうとするけれど、フローリングにできた水たまりに足が滑ってうまくいかない。それでも必死で、ずっしりと重い身体を床に下ろした。

 横たえた結実の胸に手を当てると心臓が止まっていた。わたしがうろ覚えの心臓マッサージを何度も繰り返しても、人工呼吸を何度も試してみても、妹の身体が動き出すことはなかった。それどころか、時間とともに身体は熱を失っていった。

 涙は出なかった。ただ、呆然としていた。

 わたしのたったひとりの妹は死んだ。

「結実……」

 陽が暮れて暗くなりつつある部屋の中、わたしは祖母の声を聞いた。

 ――おまえの守りたい人を作るんだよ、希実。

 母はいなくて、父とは折り合いが悪くて、わかりあえる友達もいない。わたしには妹しかいなかった。どんなに苦しくても、結実のために生きるんだと哀しみを乗り越えてきた。結実をひとりぼっちにしたくなかったから。それなのに、ひとりぼっちになったのはわたしのほうだった。乾いた笑いがこみあげてくる。

 きっと試されているのだ。神か、悪魔に。

「絶対に、死なせないからね」

 わたしは結実の死体と唇を重ねて、〈死吸い〉を始めた。

 黒々とした冷気が結実の喉からあふれ出してきて、それをわたしは「吸い」続ける。「死」が自分の体内を侵していくおぞましさに耐えながら。

 紫水家の女性には代々、「他者の死を吸い取る」能力――〈死吸い〉が備わっている。死体をよみがえらせ、「死」を自分の身体に移すのだ。母は水難事故で死んだわたしを〈死吸い〉で救った翌日、灰のように粉々になって死んだという。母の力は弱かったため、たった一度の〈死吸い〉でも身体が耐えきれなかったらしい。

 わたしの力は祖母からお墨付きを得ている。一度くらいなら、たぶん耐えられる。

 結実の顔にはみるみる血色が戻ってきた。規則的な呼吸が戻り、心臓が脈を打ち始める。

 そして、目を開けた。

「……お姉ちゃん?」

 結実は虚ろな目でこちらを見上げて、天井で揺れるロープに視線を移し、それから勢いよく身体を起こした。

「結実、なんてことをしたの」

「うるさい! 早く出てって!」

 わたしは叫ぶ妹の両肩を強くつかんだ。

「あなたの命はひとつしかないの。お願いだから、死のうなんて考えないで」

「そんなの、わたしの勝手……ひっ」

 結実はいきなり、ぎょっとしたように身を引いた。恐怖に顔をこわばらせている。

「な、なんなの、それ」

 妹の指さした先にはわたしの腕があった。

 祖母とそっくりの、紫のまだら模様に覆われた右腕。

 わたしは逃げるように部屋を去ると、自室で長袖のセーターを着た。右手も変色しているので、薄めの手袋をつける。室内ではかなり不自然だけれど、醜い肌をさらすよりはましだった。

 結実は〈死吸い〉のことを何ひとつ知らない。

 母と同じで、能力が弱いから。

 一度〈死吸い〉をしたらそのまま死んでしまうから、祖母は結実に力を使わせまいとした。紫水の女の誇りとかなんとか言って、結局のところ、孫娘に娘と同じ道を歩ませたくなかったのだろう。わたしも、祖母の考えには賛成だった。

 命を救ったことは黙っておこう。

 夕食のとき、結実はわたしの右腕をちらりと見たけれど、何も言わなかった。

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