第三章 撃たれる前に計算しよう! sin,cos,tan!(6)


 移動する。せする。りやくだつする。たまにぎやくしゆうまでする。


 そのすべてを机の上で計算して、る直前まで──いや、起きた直後に新しい視点での考えがおもかんでいるのだから、てるときすら考えてるかもしれない。


 それくらい、ぼくは敵軍と自軍とのきよを計ることに神経をとがらせていた。


 敵がアルマ市に向けて進軍すれば前進して、こちらへ反転してくるなら後退する。


 やがて敵は沿岸部へと移動し始めた。船なら陸の移動よりずっと速いし、なにより、りやくだつ品を横からうばわれる危険が少なくなる。


 それはつまり、こちらは内陸では自由に動き回るだけの支配地域をもどしたということだった。


 敵の船の移動速度は、徒歩の兵隊に合わせないといけないこちらよりずっと速い。しかし、はんせんは動力船とはちがって、いつでも好きなように動かせるというわけではない。特に沿岸部で夜中にはんそうすれば、すぐにしようしてしまうのだという。そんなに自由な移動方法でもない。


 では、報告される敵の位置と予想される移動はんこうげき可能なのはどこまでなのか。


 考え続けては答えを出して、戦い続けていた。


 とはいえ、だんだんと楽になっている。理由は簡単。ようへいたちはかせがせてくれる相手にはなおになるし、馬に乗るのも毎日毎日やっていれば慣れてくる。


 そして、ソアラがめきめきと数学的な理解を深めていくからだ。


「わたしたちはミニマックス戦略でまず点数をつけます。つまり〝想定される最大のがいが最小になる〟ほうが点数が高くなるのですね。成功したときのことを考えるのはそれからです。それから期待値を求めます。最後に相手側にとっての利益と損失も計算して、それをペイオフマトリクスにまとめます。


 どうですか、考えかたとしては簡単ですよね?」


「すみませんが、なに言ってるかわからねェです。いたおれがマズっちまいました」


 おっさんがあとずさりしていく。自分たちが戦う場所を決める方法を教えてほしいと言われてソアラが答えたのだが、ちゆうから目が泳いでいた。


「王女殿でんはきちんと考えて成果を出してるってことだ。わかったら、この前教えた整列と行進の練習を続けてくれ。きみら兵隊のくせに〝前へならえ〟もできないって、おどろいたよ」


 行軍を早くするためのいくつかのふうを兵隊たちに覚えてもらっていた。


 兵隊がみんな団子になってそぞろ歩きするので、ちゃんと列を作って歩けるように団体行動のための号令を取り決めたのだ。と言っても、日本人にはおなじみの〝全体集合〟〝小さく前へならえ〟〝二列行進〟とかである。


「あァ、あれね。おかげで歩きやすくなってますぜ、大将」


せんとう待機と土木当番と訓練待機。ちゃんと全部見回ってくれよ、現場指揮官殿どの


「へいへい。りようかいしゃァしたァー」


 おっさんはすごすごと退散した。


 部屋にふたりきりにもどってから、ぼくかたをすくめる。


「ソアラはゆうしゆうだな。どんどん教えられることが少なくなっていきそうだ」


「そんなことはありません。わたしは最近、どうして平面である地図にえがいたものが、実際世界の土地に当てはめられるのか、という基本的なことをたまに疑問に思いますから」


「……って言うと?」


「地図を見るときに、わたしたちはたてじくよこじくのXY座標で点を求めますよね? しかし、そもそもXとYはただの直線であるはずです。のであれば、ということになりませんか?」


「……わお」


 長い線分Xと短い線分Yがあるとして、その線分上にある無限個の実数は一対一対応であり、線分Xと線分Yの点の数は等しい。


 これは数学においても19世紀にドイツ人数学者ゲオルク・カントールが提唱した『連続体仮説』につながる考えである。これを証明した数学者はフィールズ賞を取ったくらいの、数学的な発見だ。


「やっぱり、変な考えですよね?」


「そんなことない。。ソアラは本当にゆうしゆうだよ。集合論とかじゆんすい数学をやるべきなのかもな。ぼくは応用数学のほうにかたむいてるけど」


「……変なことでは、ないんですか?」


「もちろんだ。きみはすごいよ。集合論に興味があるなら、この戦争が終わったらぼくが知ってるかぎりのことを教えてあげたいね」


「ええっと……そうですね。興味はあります。ただ、わたしはやっぱり、こうやってぶんせきしたり予測したりが好きですけれど」


「情報数学か……パソコンがあればな。いろいろすごいことができたのに」


 いまや関数でんたくが最大にしてゆいいつの計算機である。


 ぼくのベイズ推定エクセルファイルコレクションとか見せて喜んでくれるとくな女子に会えたのかもしれないのに。


「ふふ、いじゃないですか。やることはたくさんあります。ひとつひとつ片付けましょう」


「……ま、地道にやるしかないよな」


「戦争を終わらせるのが楽しみになってきました。わからないことがあってうれしいだなんて、初めてです」


 そう言って笑うソアラに、ぼくは照れくさくて正直には言えなかった。「話していてこんなにも楽しい相手は、きみが初めてだ」とは。とてもとても。




 ──楽しんでいる間に、口にしておけば良かった。








「大将、殿でん……伝令が、ありますぜ」


 見せたことのないしんみような表情で、ようへいのおっさんがその日に告げたことは。


「イェーセン河口のエーゼンブルグようさいが、されました」


 決定的に、それまでの努力を無に帰すしらせだった。


「待てよ……イェーセン河口だって? それはたしか、ずっと東のほうじゃなかったか!?」


 それも、戦略的にかなり重要な地域だったはずだ。なぜなら、


「そうです。ファヴェールのゆいいつの、外洋への貿易ルートです……一年だけでもそこをふさがれれば、ファヴェールの経済はたんしてしまう……!」


「あそこがかんらくしたら、ここでどんなに戦っても負けるぞ!」


 顔色を失って青ざめるソアラは、報告書を読みながら信じられないという表情をしていた。


「なんでだ!? 敵はこのアルマ地方に兵隊主力をおくんでいたはずだ! なんこうらくようさいを、短期間でとせるほどの増員があったのか!?」


 計算外の出来事だった。敵軍の規模からして、これ以上のえんぐんや増員は無いはずだった。


 イェーセンはたしかに戦略的に重要な場所で、けいかいはしていた。だが、アルマ地方にしんこうしてきた敵兵力からすれば、別の地域を同時にこうりやくするほどの兵はいないはずだったのだ。


「……オルデンボーの兵隊は、1000程度であったそうです」


 ソアラはちんつうな顔をして、そう言った。ぼくを見て、


「ウィスカーこうしやくが……かれが……敵にがえって、ようさいの門を開いた……そうです……。ようさいに1500人の兵隊を連れて、えんぐんだと言って内部にはいんで……」


 苦しそうに、そう言った。


「まさか、こんなことになるなんて……」


「……くっ、そっ、があっ!」


 つかんでかべに向かって投げつける。八つ当たりだ。


 へし折れたあしががらがらとゆかに転がる。


 いかりのあまりやってしまった所業をとがめることもなく、ソアラがぼくに言った。


「急いで王宮にもどり、評議会を招集します。……敗戦処理のために」


「敗戦……負けたのか、ぼくたちは」


 口に出して気分のいものとは、けっして言えなかった。


 歯を食いしばりつつ現実を言葉にしたぼくに、ソアラは静かに言う。


「はい。世界は……変えられませんでした……」


 つかつかと歩いていき、地図を両手でつかんで。


「────っ!!!!」


 ひめは全力でそれをいた。


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