第二章 オークションにかける! ぼっちな姫の癒やしかた(8)


    ◯


 利益をあたえて損へと導く。この場合、ふたつの道がある。


 まずひとつめ。〝航路制限のてつぱい〟という特権を商人たちにあたえて、そのぶんを談合価格から差し引かせる。


 そしてふたつめ。その特権をあらゆる商人にけてしまい、きに参加するプレイヤーを増やしてしまう。


 危険性が大きいのはふたつめのほうだ。戦時下でそれをやれば、通商ぼうがいをされたり、間者をおくまれたりするだろう。取引相手が外国人商人なら、常に船と品物の検査をする手間が降りかかってくることになる。


 さて、ここに『チキンゲーム』という問題がある。


 ふたりの若者がおたがいに向けて車でとつげきする。ふたりともがそのまま直進すれば、しようとつしておたがいに大をする。ちゆうければ「」と呼ばれる。最後まで直進したほうがえいたたえられる。両方がければなにも得られない。つまり、相手が先にければ大きな利得を得られるが、おたがいに最後まで直進すれば大損になるゲームだ。


 こうしようごとによく見られる問題だ。相手のじようさえ引き出せば自分の利得が大きいものの、最後まで対立すればけつれつしてしまう。



【利得表③を参照】



 利得表を見ればわかるとおり、この問題に合理的な正解──つまり相手の戦略に関係無く利得が最大になる戦略は、無い。相手ので利得が大きく変化するからだ。となると、プレイヤーはきで自分の利得を最大にしなければならない。


 しかしここで、片方だけがもっと大損をかかえるとどうなるだろうか。たとえばプレイヤーAがじようすると、こいびとが殺される場合。



【利得表④を参照】





 プレイヤーAが損をするせんたくが増えた。これではAは〝対立〟以外のせんたくを選べない。もしプレイヤーBが、Aが〝対立〟しか選ばないとわかる。だからBの合理的な正解が〝じよう〟になり、Aに勝ちをゆずることになる。


 今回、王室は取引相手を限定しないうえ、敵国からの通商ぼうがいの危険性その他をすべて承知して「言い値で買ってやる」と商人に布告した。


 ここでゲームのルールが変わった。


 王室はこの戦時下で昔からこの国で麦商人をやってきたという〝安全な商人〟に注文するはず、という前提をかなぐり捨てたのだ。


 とはいえ入札参加資格をあたえられても、外国人商人や専門外の商人たちはつうに麦商人と価格競争をしてもまず勝てない。──談合さえしていなければ。


 麦商人が談合価格をしようとすれば、5倍の値段を提示したままだ。2倍の値段で入札してもし落札できたら、他の商人でもじゅうぶんにうまい話になる。すると、談合のために集まった商人たちは不安になる。このままでは負けてしまう。


 麦商人たちは2倍より下に値段を設定しなければならない。しかし、2倍より下にしても、もし外国人商人が5割増し程度で入札したら? それより下にするべきだ。


 同じくつのくり返しで入札価格はどんどん下がり、結局、第二価格制競売の理論が示すとおり〝正直な評価額〟で入札することが最も望ましくなる。


 正当な価格を王室は知らない。だが。ならば、値下げこうしようをやってもらう。


 すると結局、王室はもともと専門的に麦をあつかう商人たちに、正当な価格で物資の供給を得ることができることになる。


 そんなシンプルな解決方法だ。


 利得表に示したその説明は、ソアラにはすんなりとれられた。合理的に解決する方法があることに、喜んでさえいた。「順を追って説明すれば、父上にも簡単にごなつとくいただけますね」と、国王に見せるための資料を手作りしていたくらいである。


 しかし、だ。


 商人たちを集めた入札説明会を終えて、ぼくの耳には良くないうわさが聞こえてきていた。


 それを聞いてあわてて家に帰ってみると、ソアラの護衛と使用人たちが、家の前にくしていた。ひめからだれも入らないようにと言われた、らしい。


 そんな門番付きになったにおそるおそる足をれたぼくは、いつもの勉強部屋に向かう。さて、ひめの残したこんせきを追いながら、この家に入ってからどんな行動が行われたのか、だいたい予測してみよう。


 がいとういで乱暴に丸めてたなの上に投げつつ進む。


 資料の紙束をたたきつけるように机に放って、ばらばらになってゆかに落ちても気にせず歩く。


 ソファにぼすんとまりながら、くやしさに身を折り曲げて体育すわりになり。


 そして家主が帰ってくるまでクッションをきしめながら泣く。


 そんな感じでできあがったさんじようを目の当たりにしたぼくの心境を答えよ。


「うわぁ」


 だ。他になにか言えるか。


「……………………………………………………………傷つくので引かないでください」


「そういうことはクッションから顔をはなせるようになってから言ってくれ」


 まあ、理由はだいたいわかっている。父親とかなり激しくやり合ったらしく、たくさんの人が王女と国王の口論についてうわさしていた。ぼくにまで届くほどだから、相当なものだろう。


 その後どこかに姿をくらましたと聞いたから、まさかと思いつつ家に帰ってきてみれば、このありさまである。


 ゆかに落ちている資料を拾って机の上に置く。れいな字でていねいにまとめられた利得表と第二価格制競売の不等式が書いてある。ソアラがわたせずに持ち帰ってきた自作の資料だ。ばらばらなのがみように痛々しい。


「悪かったよ。引かない。ぼくはソアラの味方だ」


 そう宣言してから、ぼくを持ち上げてソファのすぐそばに置いた。


 すわむソアラの横でこしを下ろして、迷いつつもいてみる。


けんしたって聞いたよ」


 ソアラは半分だけ顔をのぞかせて、なみだうるんだひとみのままぼくを見る。視線をいったんさまよわせるが、ゆっくりこちらへもどってきて、ぽつりとらした。


「ち、父上を説得するのは……だめでした……」


「……そうか」


「……まったく。ぜんぜん。ほんとうにまるでだめでした。……父上は、ほんの少しも、わたしの話を聞いてはくれませんでした……」


 弱々しいこわだった。しかし、話す気にはなってくれたらしく、少女はじわじわとクッションと足を下ろして姿勢を正しながら、れた布地を見つめつつしていく。


「なにも……なにも、説明を聞くことすら、してもらえません。わたしのお願いも。考えも。このいくさについてすら、もはやなにも知りたくないようです。……ご自分の体が悪くなっていくのに無関心なふりをしていながら、その実──死期のことしか……頭にないのです。


 まるで……のこされるわたしのことは……どうだっていいようです……!」


 ソアラは気うつな目をぎゅっと閉じて、こぼれそうになるなみだしとどめている。


「父上は、昔は貴族やたみせて重税と圧政に立ち向かい、この国を圧政から救い出したけつぶつでした。それがいまや、自分がいかにせいれんに死ぬかとばかり口にされていて……神のもとで安楽に過ごすことを夢見て、わたしにもそうするようにと言ってはばかりません。いまわたしがやっていることに、見向きもしてくれません……!」


「ソアラ……ええっとだな……」


 はげましの言葉を探してみるが、まったく見つからない。


 数式に変えられる問題ならアイディアもさぐれる。しかし、こういうときにはぼくの頭はまったく役立たずで、同情するくらいしかできなかった。


「……なんというか、あー……きみは悪くない」


「……ありがとうございます」


 ソアラは悲しげな目のままぼくを見る。


「そう言ってくださるのは、ナオキさんくらいです」


「そんなことないだろ」


「ありますよ。……王宮のうわさがどんな風だったのか、当ててみせましょうか?」


「……ぎやくは体に悪い。自分のかげぐちなんて言葉にするな」


「やっぱり、なんですね」


 ソアラは平然と言う。ぼくは逆に王宮で耳にした言葉を思い出してしまって、の手すりにほおづえをついていまいましさを口の中でつぶす。


 ノーコメントだ。


 病に苦しむ父親の言うことを無視するとはなんてれいこくむすめだろうか。──野次馬たちのうわさは、そんな無責任で無自覚な悪意に満ちた話ばかりだった。耳がくさる。


 つうの家庭事情と戦争に関わる王室事情を同列にしてどうするのやら。


「ときどき、思います。わたしが……父上の望むような、らしいしゆくじよであれば良かったのに。そんなことを」


 文句やがいくらでも出てきて良さそうなものなのに、ソアラはそんなことを言い出した。


 かべに書かれた計算式を視線でなぞって、王女はつぶやく。


「国政に興味を持たずに、せつしようけつこん相手に政権をわたして……父上を毎日い絵をいて詩を歌っていられればいい。そんなむすめであったら、父上はもっとおだやかなお心で終末をむかえられたのではないか……。そう考えます……」


 そんな風に言われて、ぼくも頭におもえがいてみる。なんかこう、もっとのほほんした感じのソアラを。


「……で、考えてみて、どうだった。具体的に想像できたのか?」


 その顔をのぞきこんでついきゆうしてみると、王女は目をそらした。


「それは……無理でしたけれど……」


「だろうな。ぼくもいま、そういうきみをおもえがこうとして失敗した」


「ひどいですっ! わたしだって、がんばればそういうしゆくじよにだってなれますっ」


 少しむっとした顔でかえってくる。言い返せるくらいの元気はあるようで、少し安心した。


「……これは昔のことだ。ある日、祖父がなげいていた。『数学を愛する人が少ない』って。そのときに、ぼくは『数学を愛する人をいくらでも増やせる数式を作る』と祖父にごうして、なんとか作り出したとある数式を祖父に見せたことがあった」


「すごいことを考えますね。それで、どうなったのですか?」


 ぼくかたをすくめる。


「失敗した。ぼくがその数式でやったことは……あー……その、簡単に言えば〝方程式で絵をえがくこと〟だったんだが、祖父の感想は説得力ばつぐんだったよ。たったひとことだけだ。『本物を見たほうがいい』って言われた。そりゃそうだ。数学は絵をえがくための道具じゃない」


「それは、残念でしたね」


「まったくだ。だけど、それでぼくは分かった。数学を絵筆に代用することは、しないほうがいいってね。──だからきみも、無理に他のものになろうとするな。ソアラがしゆくじよの代用品になっても、意味は無いだろ」


「……本物のしゆくじよには勝てないから、ですか?」


 まだ少しすねているくちびるが不満そうにそんなことを言った。


しゆくじよではできないことがきみにできるから、だ」


 ぼくはポケットから折りたたんだメモを取り出してソアラに差し出す。


 げんそうな顔をしながら受け取ったひめが、中に書かれた数字を見てまゆを上げる。


「これは、もしかして入札の……?」


「そうだ。入札保証金を前もってはらっていった商人たちの数だ。19人いた。まだ入札参加は受け付け開始したばかりの段階でな。どこの国の商人なのかも書いておいた。もしもその商人たちが、自国の相場と運送費の価格で入札に参加した場合は……まあ、わかるだろ?」


 ソアラが立ち上がってゆかに落とした資料を拾い、勢力図の前に立ってメモと資料と計算式の間でいそがしく視線を飛ばす。


 そこにあるのは、過去の価格から見た相場でしかない。しかし、商人が入札する金額はそこから大きく外れることはないはずだ。なぜなら第二価格制入札セカンドプライスオークシヨンという方式が、それを引き寄せるからだ。


 オークションの参加者は、品物に対する評価額と自分の提示する入札額の差で得られる利得を最大にすることを考える。


 つまり(評価額-入札額)×(勝つ確率)=(期待値)の計算式によって、利得表を書き出すことができるのだ。


 通常のファーストプライスオークションでは、参加者同士の腹のさぐいによって勝つ確率が変化するため、戦略が一定にならない。入札額の予測が困難になる。


 しかし、セカンドプライスオークションでは第一位価格を入札した落札者が、第二位価格ではらうことができる。つまり、自分の評価額をそのまま入札したとしても、のだ。


 そして自分の評価額よりも大きく下げた入札額にすると勝つ確率も下がるため、期待値は小さくなる。


 結論としては他のプレイヤーの行動に関係無く、自分の評価額を正直に入札することが弱支配戦略になるゲームルールなのだ。


 かべかざった大きな勢力図の前で右に左に歩き回るソアラの頭の中ではおそらく、入札参加してきた商人たちの予想価格が計算されているはずだ。とはいえ、すでにふたりで計算を済ませたあとだ。そこに書かれた数字を再かくにんするだけの作業になる。


 それほど時間もかからず、ソアラはいた。


「たとえ他の国の商人から買い付けた場合でも、王室ちよう隊の目的は達成できます!」


「談合はほうかいするな。あっちがそれに気づけば、さらに安い」


「やりましたっ!」


 はずむような足取りでってきたソアラが手を上げたので、ぼくもそれに応えてハイタッチする。


「ふふふ、やっぱりちがっていなかったんですね。理論どおりです」


 さっきまでの暗い顔が一転して、手応えをつかんだ明るい目をもどしている。


 それもそのはず。予測を立ててそのとおりに物事が動いた時の達成感というものは、格別の力があるのだ。頭の中でイメージしたものを、その手で作り上げた時の喜びである。


 いてもたってもいられない。自信と喜びがいてくるのだ。


「それで、まだポエムをんでいたいか?」


「……ぅ。で、でも、父上が……」


「ああそうだな、きみの父親は傷つくだろうさ。むすめに裏切られたとなげいて、過去をこうかいして苦しむ。だけどソアラ、きみにはやるべきことがある。他のだれでもない、自分自身が『わたしはこれをやるべきなんだ』と思ったことがある。──そうじゃないのか?」


 王女はなやみ、そして、しようしながら首を横にった。


「……わかりました。わたしは、数学のほうがいです。……父上と分かり合えないことは、さびしいですが」


「どうしようもないことも、世の中にはある。数学以外の話をすれば、案外と話が合うかもしれないだろ」


「……数学で、導けないものでしょうか。父上がわたしと分かり合える確率、などは」


 思案顔になったソアラの言葉にしようする。


「人とわかり合う数式か。それは難しいぞ。ぼくせつした」


「……ナオキさんは、本当にたくさんの数式を知っているのですね。お祖父様から教わったなんて、うらやましいです。もといた世界では、だれもが数学に精通されていたのですか?」


「いや、たしかに基本的な数学はみんな覚えるけど、なんでもかんでも数字にしようってやつはそんなにいないさ。ひめ殿でんうらやましいなんて言うほどの世界じゃない」


「それでは、ナオキさんは特別だということですか? お祖父様も」


ぼくは数学者を目指してたんだ。おちゃんは数学の教授で、ぼくよりもっと格上。というか、ぼくはおちゃんにあこがれて数学者を目指してたんだ」


というのは……この世界に来てしまったから、あきらめるしかなくなったということですか? ……か、帰りたい、ですか?」


「いや、そうじゃないんだ。そんなおそおそかなくていい。帰る方法なんて見つかりそうにないし、あまり未練も無いよ」


 ここがほうのある世界ならともかく、ぼくの数学が〝じゆつあつかいされてしまうじようきようのとおり、りよくより暴力が日常にある世界だ。


 ここにぼくがいるのは天災みたいな話なんだろう。しんかみなりと同じ天文学的確率の事故。なのに世界のどこかで、だれかが不運をつかまされるという類の。


「……あの、なにかがあったのですか? もとの世界で」


「あれ、そう思う?」


 ぼくの顔を不思議そうに見つめるソアラが、こくんとうなずいた。


「はい、思います。ナオキさんほどのかたが、数学者になるのをやめるなんて」


って言うほどの人間じゃないんだけど……」


「はい『だけど』?」


 その続きは? じっと見つめられる。


 あまり話したくないことだ。しかし──ソアラには、話してもいい気がした。


「……だけど、ちょっとトラブルはあった。祖父が死んだ時に、しんせきめたんだ。ぼくは数学オタクで、そうしきとかいろいろ、どうやっていいのかわからなかった。そんなときに現れたのが、だ」


 苦々しいおくこしながら、ゆっくり話してみる。


はおちゃんが死ぬ少し前から、家に住みついた。そのころ、ぼくは大学の卒業研究を作るために、家にあまり帰らなかった。はおちゃんの世話をする、と言っていて、おちゃんもれていた。


 ……ぼくが研究に取り組んでるあいだに、おちゃんは死んだ。死に目に会えなかったのは残念だけど、本人が『私が死ぬ時をじっと待っているより、数学の研究をしなさい』なんて言う人だったから、それはいいさ」


 ぼくにとっておちゃんは、さいまで数学者だった。──数学好きには変人が多いから、しかたがない。


「問題は、おちゃんが死んだあとに起きた。そうしきを終えるなり、ぼくに家を出ていくようにとせまったんだ。まだ大学卒業もしていない時にね。理由は……まあ、遺産目当てというか、家をはらいたいらしかったんだ」


「そんなことが……どうされたのですか?」


「いろいろあった。法的な相続人の話とか、ぼくに居住権があるとか、おちゃんの遺品を処分しようとするさんとの対決とかね。だけどそういうめんどうくさい争いよりショックだったのは……どうもさんにとっては、おちゃんは立派な父親じゃなかったらしい、ってことだ」


「えっ」


 ソアラがおどろきの声をあげる。ぼくの話から聞いた祖父の人物像とちがうのだろう。それは、当時のぼくにとっても同じことだった。


はおちゃんのことを『数学ばかりで子どもに冷たかった』って言うんだよ。だから当然のように家や本を処分しようとするし、おちゃんと仲良く暮らしていたぼくのことも、信用できないらしかった。ぼうにくけりゃまでにくい、っていうやつだね。


 ……信じられなかったよ。ぼくにとっては、いおちゃんだった」


「ナオキさん……」


 痛ましいものを見るかのように目を細めるソアラの視線がむずがゆくて、ぼくげるように移動してソファにすわんだ。


 顔を合わせないようにしながら、続きを言う。


「人と人が心底わかり合うことは、できないんだ。それを思い知ったよ。ぼくはおちゃんが好きだった。おちゃんと数学でやり取りするのも好きだった。


 だけど……おちゃんのほうは、ぼくのことを見てくれていたのか? それとも、見ていてくれたのか?


 そういう疑念がいてきた。そんな争いがいやになって、ぼくはさっさと話をおしまいにした。楽になりたかったんだよ」


 もとの世界にあまり未練を感じないのは、それも理由のひとつかもしれない。自分が長年故郷と思って過ごした家が、疑いを呼ぶ争いの火種になってしまってぼくは手放した。


「……疑問の答えはたぶん、一生分からない。数学でもこれに答えは出せない。信じたいから信じる。それくらいしか折り合いをつける方法はないんだ。非合理的だけどね」


「そんなことがあったのですか……つらかったですよね……」


 話すぼくよりも聞いたソアラのほうが泣きそうな顔をしている。それをなぐさめるために、ぼくくちを持ち上げた。


「終わったことだよ」


「でも……まだ、一年もっていないのですよね?」


「…………こういうところで空気を読んでくれないよな、きみは」


 窓の外を見る。


 もうつらくなくなった──というわけでは、もちろんない。十数年もいつしよにいた祖父をうしなって疑って、それをすぐに割り切ることができるくらいなら、まだ裁判をしてるだろう。


 そんな強がりをとししたの少女に看破されたのは、少しずかしかった。


 だから、ソアラが立ち上がってこちらに近づいて来ても無視していた。しかし──後ろから細いうでが回りんできてぼくきしめるのは、予想外だった。


「空気が読めなくてすみません。……つらいことを話してくださって、ありがとうございます。わたしが、くつにならないようにしてくださったんですよね?」


 耳元でそんなことを言われてしまう。


「なんでハグ?」


やされませんか?」


「頭あたりにやわらかいのが当たってるから、いやされるかもな」


 むにゅん、と当たるものをてきしてみると、ソアラが顔を寄せてきて、ささやいた。


「……じゃあ、こっそりやされててください。お話のお礼です」


「それは……えっと、ありがとう」


 まさかの返答。いいのか。そうか。


 きやしやうでがきゅっと体にくっついてはなれない。


 少し速いどうが、かのじよのふわふわした体からひびいてくる。温かなはだにおいが空気を包み、時間が体温をゆっくりとかすごいでかいやわいなんということでしょう。


 これは、おお、そうか。おちゃん……おちゃんの言うことは正しかった……。


 本物は、いいぞ。


「ところで、ナオキさん」


「な、なんだ?」


 思った以上にやされかけていたところへ話しかけられて、声が上ずった。


 うわめっちゃどうようしてるなぼく


 対してソアラは、落ち着きはらったままそっとささやく。


「本当に、お祖父様とのことを定式化できなかったのですか?」


 おいおいなんだよびっくりしたな。


「『無限回くり返しゲーム』をベイズの定理で計算すると証明できるけど主観確率における観測だから、結局はぼくの信用度の高さで結果が左右されるんだ」


「……計算、したんですね」


「数学者だからな」


「ふふふっ」


 笑いに少し身をふるわせてから、ソアラがそっとはなれていった。


 ようやくずかしい話が終わったことをあんしつつ──ぬくもりがはなれていくことを少しだけ、残念に思ってしまった。


 王女様がソファのすぐ横にしゃがみこんで、少しずかしげにぼくを見上げる。


「明日、父上にあやまりに行ってきます。それから、数学や国政とは関係無い話をしてみますね」


 ぼくはうなずいて、ちょうどいい高さにあるソアラの頭に手をえてでてみた。ひめあまえるねこのように自分からくりくり手のほうへ頭を寄せてくる。


「仲直りできるといいな」


「はい」






 翌朝。


 ぼくは家でひとり、勢力図の見直しをしていた。やることはそれだけでもない。王室ちよう隊の人足や物資の手配やら、ちよう兵についての書類など、最近はぼくに回ってくる事務仕事がやたらと増えてきている。


 いそがしくそれらを片付けていると、遠くからかねの音がひびいてきた。


 窓の外から聞こえてくる街中にひびわたるようなかねの音は、いつもの時報とちがって、鳴りまない。


 いったいなんなのか、と疑問に思って窓を開いて顔を外に出す。


 すると、げんかんを激しくたたく音がした。


じゆつ殿どのはおられるか!」


「こっちにいる!」


 だれかのさわぐ声にそうさけび返すと、がっちゃがっちゃと物々しい金属音を立てながら兵士が走り寄ってきた。


「あのかねが聞こえませぬか!? 至急、王宮へおいでください!」


「なにかあったのか?」


 ぼくの疑問に、兵士はなに言ってんだわかってねえのか的に答えた。


「国王陛下がおくなりになられたのです!」


「……わかった。すぐ行くよ」


 そう答えながらぼくのうかんだことはふたつ。


 ひとつめ。これは事実から見た推論。ずっと気になっていたことだ。なぜ兵力差もあり、準備も進めている敵国が、すぐにでもしんこうしてこないのか。


 待っていたのだろう。何もせずにファヴェールの国力がらぐそのしゆんかんを。


 つまり──国王陛下がほうぎよする時を。


「戦争が始まるな」


 もうひとつ。これは感傷的な理由だ。


 昨日、んでいたソアラの顔がおもかんだ。


 仲直りする時間は──無かっただろう。






 ──その日、オルデンボーからの使者が宣戦を布告した。

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