数字で救う! 弱小国家

序章 願いの数式

序章 願いの数式(1)


「数学を愛してくれる人は、少ない……」


 数学者のおちゃんが、ある日、そんなことをつぶやいた。そのあまりにも無念そうな背中に、ぼくみようなほどいらちを覚えた。


 おちゃんは数学博士だ。大学では教授を務め、海外の科学誌に論文がけいさいされたことだってある。


 そんなおちゃんが現状をなげくだけとは、そのこうこそなげかわしい。


 数学とは科学であり、つまり技術なのだ。


 目的さえ定まっているなら、数学という技術はそこにたどり着く道を、きちんと導いてくれる。〝数学を愛してもらう〟という明確な目標がそこにあるなら、そのための式を作ればいい。簡単なことだ。


 あと、そんなさびしげな姿を見るのはちょっと悲しい。ちょっとだけ。


 だからぼくは、おちゃんに提案した。


「だったらぼくが数学のための式を作ろうか、おちゃん」


 少しおどろいた顔でおちゃんはかえった。


「おお、数学のための数学、か……なかなかおもしろいことを言うな、ナオキは。やってみせてくれるか?」


「もちろんだよ。中学の教科書は退たいくつだったんだ」


 ぼくは自信を持って引き受け、さっそくとりかかる。


 もちろん、楽なことではなかった。


 当然だ。博士号を持つ祖父ですらおうのうするほどの難題である。しかし、ぼくあきらめなかった。


 てつかんがき、何日もかけて取り組み、おちゃんのしよさいにあった本をひもいて、やがて、ある方程式にたどり着く。







 それを作り上げた時、ぼくは自分の才能が空おそろしくなった。この方程式さえあれば、少なく見積もっても地球人口の半分、35億人くらいは数学を愛する者を生みだせる自信がある。


 我ながららしくざんしんで画期的なその数式を、自然とほおかぶみとともにおちゃんに見せた。


「できたよ! この数式が答えだ!」


 ようようとそう告げる。


 しかし──喜びの声を上げてくれるはずというぼくの予想に反して、おちゃんはなんと、静かに首を横にった。


「これでも、数学は愛されないよ」


 ぼくが耳を疑った。


「なっ、そんな鹿な!? この方程式がれられないなんて、ありえないはずだろ? だって、この方程式さえあれば──おっぱいが描けるんだぞ!?」







 この方程式をもとに曲線を描けば、そこに丸いおっぱいが現れる。なのに、なぜそれが愛されないだなんて!?


 あわてふためくぼくかたに、しわだらけの温かい手が置かれた。


 はたと気づけば、おちゃんがよわいを重ねた風格とげんを備えた目で、ぼくえていた。


「きちんと理由があるんだ、ナオキ。反論された時に、お前は理由を問うべきだ。そんな風にをこねるのは、数学者としての態度ではない」


 そうさとされてしまった。たしかに、いまの態度は理性的ではない。ぐっと腹に力を入れて、問題に向き合うべく、たずねる。


「……な、なぜなんだ、おちゃん。どうしてぼくの『おっぱいの方程式』では、数学を愛する人が増えないんだ?」


 うろたえるぼくをじっと見るおちゃん。しんえんかすような理知的なまなしは、ぴくりともるがない。動じることのない信念に支えられたそのひとみのまま、こう言った。


「本物のほうがいい」


「っ──!! なん、て、ことだ……!」


 反論の余地は一分も無い、かんぺきな論理だった。


 ぼくが何日もかけて作り上げた方程式は、たったひとつの反例でもろくもかいした。


 くやしくも理解する。これが、博士号を持つ数学者の実力なんだ。たとえ頭脳めいせきであるとはいえ、中学生のぼくではいまだおよばぬ領域……! たとえぼくが頭脳めいせきであるとはいえ!


「くっ……!」


 みするぼくに、おちゃんがほほみをかべて言う。


「数学を愛してもらうということはな、私のような数学者と、同じ気持ちになってもらうということだ。それは、私と同じ景色を感じ取って、美しいと思ってもらうこと。


 ──たくさんの人に愛されようとするよりも、まず、たったひとりでいい。同じ景色、同じ世界を分かち合いたいと心から願う数式を、導き出さないとならなかったんだ」


「同じ世界を、美しいと思ってもらう……」


「そうだ。……この数式が失敗作になった理由の本質が、わかったか?」


「……おっぱいはひとりでこっそり見るほうがうれしい」


「そういうことだな」


「数式の完成度じゃない。アプローチがまずちがってたのか……。ぼくは、人のためじゃなく、自分のための数式を作っていた……」


 スタート地点からちがえていたのだ、ぼくは。なんたることだ。


 完全に失敗だ! ずかしい!


「ナオキ、お前はまだ若い。失敗することだって、当然ある。しかし、大事なのはあきらめないことだ。一度や二度の失敗は、科学者なら必ず経験する。成功するまであきらめずにちようせんし続けることが、私たちの使命なんだよ」


 なぐさめられてしまった。


「おちゃん……でも……」


 必ず失敗する。その言葉が、ひどく耳に残った。


 昼も夜もこれを作っていた。すいみん時間をけずり、必死で考えくしてようやく手にしたもの。いつしか自分の一部とすら思えていたものが否定され、無価値と断じられてしまう。これほどのじゆうに、ぼくはこれから何度もひたらなければいけないのか。


 その弱気を察したのか、おちゃんはかたをすくめて苦笑いした。


「ナオキ、無理をしなくてもいい。お前には、他にもたくさんの道があるんだ」


「──こ、このくらいなんでもない! いつか絶対に、おちゃんがいつくばってけいれんするくらいすごい数式を見せてやる!! 見せた時に立てなかったらぼくの勝ちでいいよな!?」


にんしようになるのを待つつもりか!? けずぎらいにもほどがあるなこの孫!!」


 時間を味方につける戦略だった。


「ま、まあんでいるよりはいいか。がんるといい、ナオキ。何度失敗してもいいし、成功しなくてもいい。ただ……あきらめない男になってくれ」


「わかった」


 ぼくがうなずいて答えると、おちゃんはそっとぼくかたに手を置いて、こう言ってくれた。


「これは失敗したかもしれない。だが──よくがんったな、ナオキ」


 数式を見せた時に期待していたうれしそうな顔は、そこでようやく見ることができた。ぼくあきらめないことの大切さを知ったのは、きっと、その時だったのだろう。

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