第二章 文学少女の悩みゴト 4


 授業が終わり、適当に昼食を済ませたあと、僕たちが集まったのは近所の河川敷だった。


 広くて大きな川がゆっくりと流れ、周りは草と砂ばかり。土手を上がった先は道路になっていて、時折自動車が通る。それを追いかけるのは部活中の運動部。掛け声を上げて、集団で走っていく。犬の散歩をするご老人も見掛けた。


 土曜日の昼下がりという時間帯のせいか、川のようにのんびりとした時間が流れている。


 僕たちがいるのは土手を降りた場所。遠くには橋が架かっていて、その下で小学生がキャッチボールをしている。幸いながら、付近に人の姿は見掛けなかった。


「こ、この度はわたしのために集まって頂いてありがとうございます……」


 瀬尾せお先輩が何とも堅いことを言いながら、丁寧に頭を下げる。長い黒髪がはらりはらりと降りるのが見えた。彼女は顔を上げると、僕に「青葉あおばくんには自転車までお願いしてしまって。ありがとう」と囁くような声で言った。


 河川敷にいるのは、僕と灯里あかりちゃんと瀬尾先輩。そしてママチャリ。この奇妙な組み合わせはしかし、瀬尾先輩が望んだものだった。


「自転車の二人乗りがしてみたいんです」


 小説に二人乗りのシーンを入れたい、と彼女は言う。少年少女の自転車二人乗りは、確かに青春っぽい。見栄えもいいだろう。しかし、自転車の二人乗りは禁止されている。だから、河川敷にやってきたのだ。人がいない河川敷で遊ぶくらいなら、きっと大丈夫。公道を走るわけでもない。


「それじゃ早速、未咲みさき先輩。二人乗りってやつをやってみましょうか」


 灯里ちゃんが胸の前で手を合わせ、にこにこしながら瀬尾先輩に言う。彼女はこくりと頷いた。サドルに跨る僕に、「お願いします」と頭を下げる。


 僕の自転車は後ろに立てないので、自然と荷台に座ることになる。彼女が腰掛ければすぐにでも走れる。しかし、瀬尾先輩は荷台を見つめると、頭をふらふらさせながら観察し、ぺたぺたと触り始めた。


「……あの、先輩。どうかしました?」


 瀬尾先輩は慌てて顔を上げて、ズレた眼鏡を直す。そして、「あ、あのあの。ど、どうすればいいんでしょうか……」と予想外なことを尋ねてきた。どうすれば、と言われても。普通に座って、としか……。いや、案外どう座るかわからないか?


「あのですね、未咲先輩。この自転車は後ろに立てないから、荷台に座ってくれればいいんだけど、座り方はまぁ二種類かな。横向きに座るか、荷台を跨いで前向きに座るか。で、手はきぃくんの腰に手を回す感じで」


 灯里ちゃんが丁寧にレクチャーしてくれる。瀬尾先輩は真面目な顔でふんふん、と頷いていたが、「腰に手を回す」という言葉に「えっ、そうなんですか」と僕を見た。頬が仄かに赤く染まる。


「ごめんなさい、掴むのは荷台でもいいです。腰に手を回した方が安定するけど、両手で荷台をしっかり握れば問題ないですから」


 灯里ちゃんが笑いながら両手を持ち上げて、グーパーと開いてみせる。瀬尾先輩はほっとした様子で、「わかりました」と頷いた。男としてはもちろん、腰に手を回してもらう方が嬉しいけど、そこまで望むのは贅沢だ。すでにかなりの役得なのだから。


 ひとつ上の先輩と自転車の二人乗りだなんて、なかなかできることではない。


「そ、それでは失礼します」


 瀬尾先輩は意を決して、荷台に腰を下ろす。横向きに座るようだ。荷台を両手でぎゅうっと握っている。前向きに座る方が断然安定するが、スカートの女子には言いづらい。

 まぁしっかり掴まるなら、横向きでも問題ないだろう。


「それじゃ、先輩。行きますね」


「い、いつでもどうぞ」


 僕は足にぐっと力を入れる。ペダルはいつもより重い。女子とはいえ、荷台に人が乗っているのだから当然だ。力強くこぎ始めると、瀬尾先輩が「ひゃっ」と慌てた声を上げた。それも仕方がない。


 地面に足がつくときと離れたときでは、圧倒的に乗り心地が違う。慣れるまでは二人乗りって結構怖い。


「へ、や、こ、これ! こ、怖いです!」


 予想に違わず、瀬尾先輩は悲鳴を上げた。とはいえ、自転車は加速するまでは安定しないものだ。スピードが乗れば怖さも軽減するだろう。そう思い、僕はさらにペダルをこぐ力を強めた。自転車が加速する。


 そこで思ってもみないことが起きた。


 加速に驚いたのか、それとも単に揺れたせいか。彼女はバランスを崩し、僕の身体に寄り掛かってきた。いや。そんな生易しいものじゃない。上半身がべったりと僕の背中にくっついていた。そのうえ、僕の腰に手を回し、ぎゅっと力を込めたのだ。


 そうなるとどうなるか。


 二人乗りで後ろから抱き着かれれば、その人の感触が背中へ直に伝わる。やわらかく、温かく、腰に回された手までが細く小さい。なんて華奢なんだろう。女の子の身体はこうも男と違うのか、と再認識する。動揺でそのまま転びそうになった。

 瀬尾先輩はなおも、僕の身体に抱き着いたままだ。


 首筋に彼女の髪が触れ、背中に彼女の身体が密着している。惑うな、というのが無理な話だ。


 瀬尾先輩は、信じられないほどやわらかい。何といえば、アレだ。僕の背中と瀬尾先輩の間に挟まるアレ。いや、確かに灯里ちゃんがそうだと言っていたのは覚えている。クラスの女子が着替えのときに見た、と言っていたらしい。


 しかし、瀬尾先輩は猫背だから目立たないし、正直あまり気にしていなかった。だけど今は違う。薄い布越しにはっきりした感触が背中にある。形がわかるほどに大きいアレ。


 彼女の身体が動くたびに形が変わり、僕の腰を力強く掴んでいるものだから、思い切り押し付けられる。僕は沸騰しそうだ。完全にキャパシティが限界を超えている。


「く、これ、ちょっと、まずい、んだけど」


 呻くように言う。せめて、瀬尾先輩が力を緩めれば話は別だが、彼女はしっかり僕の腰にしがみついている。本当にまずい。


 幸せの絶頂ではあるけど、浴び続けていると気がおかしくなりそう。すごい。瀬尾先輩すごい。腰に抱き着くだけで廃人を作り出しそう。いや、もう本当にすごい。威力が凄まじい。頭から湯気が出そうだ。


 体温が一気に上がり、手からは汗がとめどなく溢れる。視界はぼやけるのに、背中の感覚ばかり鋭くなる始末。いやもう参った。本当に参った。こんなことってあるんだな。


 へろへろへろ、とふらつきながら、河川敷を回り、灯里ちゃんの元に戻っていく。自転車を停めると、瀬尾先輩は恐る恐る荷台から降りた。


「い、意外と二人乗りって怖いんですね……。し、知りませんでした……」


 瀬尾先輩は胸元に手を置き、呼吸を整えている。僕に抱き着いたことにはノータッチだ。それどころじゃなかったらしい。だから僕も忘れたように振る舞えばいいのだろうが、そんなことできやしない。信じられない感触が未だに残っている。


「あぁ、いや、はい……、そうですね、な、慣れるまではちょっと怖いんですよ、はい……」


 しどろもどろ、顔が赤いまま答える。瀬尾先輩をまともに見られない。胸なんてもってのほかだ。ただただ、気まずく視線を彷徨わる。


 そうしていると、灯里ちゃんと目が合った。今度はこちらに面食らう。なぜか彼女は、むっとして唇を尖らせていた。むう、という唸り声が聞こえてきそう。


「ど、どうしたの灯里ちゃん」


 僕が尋ねると不機嫌さを増した。口を曲げながら、両手は拳を作っている。そして、彼女はこう言うのだ。


「きぃくんばっかりずるい! わたしも未咲先輩と二人乗りしたい!」


「……。……すれば?」


「する! 未咲先輩、今度はわたしと乗りましょう!」


 灯里ちゃんははりきりながら、瀬尾先輩に走り寄る。「あ、ではお願いします……」と先輩は頭を下げた。意気揚々と自転車を跨ぐ灯里ちゃん。瀬尾先輩はそっと荷台に座った。


 さっきので慣れたのか、それとも相手が女子だからか、瀬尾先輩は灯里ちゃんの腰に手を回す。さっきみたいに異様な密着ではないが、きゅっと身体を寄せている。


「………………!」


 口を大きく開けて、灯里ちゃんはキラキラした顔で目を瞠っていた。何に感動しているかなんて、言わなくてもわかる。わかってしまう。


 灯里ちゃんはこちらに顔を向けて、「きぃくん、これすっごい! すごいすごーい!」とはしゃいだ声を出していた。


 ……何も答えられない。僕も同じように感想を言いたいけど、僕が口にするのはダメだろう。瀬尾先輩だけがきょとんとしている。


「いきますよ、未咲先輩! しっかり掴まってて!」


「あ、はい――ひゃあっ!」


 灯里ちゃんは力いっぱいペダルを踏みこむと、一気に加速する。エネルギーが充電されたかのようだ。

 シャカシャカシャカ、とペダルが回転する。僕とは比べ物にならない速さだ。

 瀬尾先輩は悲鳴を上げて、より灯里ちゃんに抱き着く。それで灯里ちゃんがより元気になってしまう。こちらに戻ってきたときには、瀬尾先輩はへろへろになっていた。


 よろよろと降りた瀬尾先輩は髪がぼさぼさになり、眼鏡の位置もズレている。一方、灯里ちゃんはつやつやした顔でささっと髪を直していた。非常に満足した表情になっている。


「……ええと、どうでしたか、瀬尾先輩。自転車の二人乗りのシーン、書けそうですか?」


 居たたまれなくて、瀬尾先輩にそう投げかけた。今日の目的はそれだ。小説のためだ。


 彼女は一度、眼鏡を外して掛け直しながら、ゆっくり口を開く。


「そ、そうですね……、書けそうです。実際に体験してみないとわからないことが多かったので、実際に二人乗りができてよかったです」


「体験しないとわからないこと……、意外と二人乗りは怖い、とかですか?」


「それもありますけど……、荷台に座るとお尻が痛い、とかですね」


 瀬尾先輩ははにかみながら、お尻を両手で撫でた。灯里ちゃんが「そうですよねぇ」と苦笑している。まぁ荷台は元々人が乗るところじゃないし、スカートという薄い布越しでは痛いだろう。確かにそれは、実際に体験してみないとわからない。


 僕が納得していると、瀬尾先輩はおずおずと言葉を続ける。


「あの……、青葉あおばくん。もしよければ、わたしにも運転をさせてもらってよろしいでしょうか」


「はい? あぁ、ぜんぜんいいですよ。どうぞ」


「あ、それならわたしが未咲先輩の後ろに乗る」


 ぴょんこ、と灯里ちゃんが手を挙げる。まぁ順当に考えればそれが自然だ。僕が瀬尾先輩に抱き着くのはよろしくない。瀬尾先輩も元よりそのつもりだろう。


 瀬尾先輩が椅子に座り、荷台に灯里ちゃんが横向きに座る。


 ……二人乗り似合うな、灯里ちゃん。上品にちょこんと座る姿も、瀬尾先輩の腰に緩やかに回す手も、そっと閉じた足も。何だか妙に絵になっている。世界一かわいい灯里ちゃんを後ろに乗せて走るというのは、かなりポイントが高そうだ。羨ましいなぁ、と思ってしまう。


「そ、それでは山吹さん。出発します」


 緊張しながら、瀬尾先輩はペダルをこぎ始める。しかし、危なっかしい。ふらふらとして車体が安定しない。速度も出ない。


 見かねた灯里ちゃんが「先輩、立ちこぎしてもいいから、もっとペダルに力を入れるの。最初はぐっと力を入れて」と声を掛けている。「は、はいぃ……」という気の抜けた声とともに、ようやく自転車がちゃんと走り始めた。のろのろとした速度ながらも、安定して前に進む。


 しかし。


「ひゃあ! え、ちょ、や、山吹やまぶきさん、な、なんでぇ?」


「違うんです先輩。あの、バランスを崩してですね。違うんですよ、ほんと」


 瀬尾先輩が悲鳴を上げたかと思うと、急に自転車の挙動が怪しくなる。ふらふらし始める。ここからでは何が起こったか見えないが、見えなくてもわかる。灯里ちゃんがやった。ついにやった。


 多分そのうちやるんだろうなぁ、とは思っていたけど、このタイミングか。言い訳も完全に痴漢のそれだ。もう逮捕でいいんじゃないだろうか。


「うわ」


 どうも灯里ちゃんがしつこく離さなかったらしい。自転車は二人を巻き込んでばたん、と転倒してしまった。自転車が転ぶなんて久々に見たよ。駆け寄ると、倒れた自転車のそばにふたりが座り込んでいる。


 しかし、様子がおかしい。おふざけのあとなのに空気が重い。どうしたんだろう、と様子を窺うと、灯里ちゃんの顔色が真っ青になっていた。反面、瀬尾先輩はきょとんとしている。


「す、すみません先輩! ごめんなさい、わたし調子に乗って……、本当にすみません……。あの、弁償させてください……」


 灯里ちゃんが泣きそうになりながら、頭を下げていた。瀬尾先輩の手元を見て察する。眼鏡だ。瀬尾先輩の眼鏡が壊れている。フレームは折れ曲がり、レンズにはヒビが走っていった。転んだときに踏んだのかもしれない。


 気まずい空気が流れる中、瀬尾先輩が眼鏡を両手でぺたぺたと触り始めた。「あぁ、壊れちゃいましたか。大丈夫ですよ、山吹さん」と普段通りの声を上げる。


「いや、あの、でも……」


 灯里ちゃんがしょんぼりしていると、瀬尾先輩が彼女に顔を近付けた。それが物凄く近い。おでこがくっつきそうになるほどだ。


 灯里ちゃんが思わず身を引くと「あ、ごめんなさい。わたし、眼鏡がないとこれくらいの距離じゃないと見えないので……」と静かに言う。どうやら相当視力が悪いらしい。ド近眼だ。度を越えた近眼だ。


 ほとんどくっつかないと見えないではないか。僕たちが戸惑っていると、瀬尾先輩だけが平常通りに口を開く。


「本当に大丈夫です、山吹さん。実はこの眼鏡、古くなっていたので今日にでも買い替えようと思っていたんです。嘘じゃないですよ、本当です」


 ぴったり顔を近付けたまま、瀬尾先輩は薄く微笑む。眼鏡と髪のせいでわかりづらいけれど、瀬尾先輩は美人だ。かなりの美人だ。灯里ちゃん好みの。


 そんな彼女に至近距離で微笑まれ、灯里ちゃんは顔を真っ赤にする。「あ、は、はい……」とたどたどしい返事しかできていない。


 瀬尾先輩は灯里ちゃんから離れると、だれもいない方向に顔を向ける。


「鞄に予備の眼鏡があるので、申し訳ないのですが持ってきて頂いてもいいでしょうか。鞄の内ポケットに――あ」


 言い掛けた言葉を途中で止めると、はっとして彼女は固まってしまう。「あ、あぁ……、そうでした。どうしましょう」と頭を抱え始めた。僕はそばに寄ると、どうしたんですか先輩、と声を掛ける。

 その直後、彼女はぐっと顔を近付けてきた。本当に近い。身を引いても、その分だけ寄せてくる。

 ……これは心臓に悪い。


 肌のきめこまやかさ、髪のしなやかさ、透き通るような瞳。それらが一気に目に入ってくるのだ。照れくさいなんてもんじゃない。彼女はほっぺたがくっつきそうな距離で、聞き心地のいい声を奏でる。


「あ、あのあの、家に帰ってから買い物に行くつもりだったので……、昨日のうちに準備しておいたんです。ですので、お出かけ用の鞄に予備の眼鏡が入ってて……」

 ……事前に出掛ける準備をしておくのか、この人。かわいい人だなぁ。ただ、ほっこりするには顔が近すぎる。唇が動く様がはっきり見て取れてしまう。さっきから心臓がバクバクとうるさい。


「こ、困りました……。わたし、眼鏡がないと何も見えなくて……」


 瀬尾先輩は肩を落とす。彼女がド近眼であることは、身を持って体験している。これでは電車に乗ることさえ困難ではないだろうか。


 困っている瀬尾先輩に、灯里ちゃんは顔を寄せる。


「あの、未咲先輩。先輩は今日、眼鏡を買いに行くつもりなんですよね?」


「あ、はい。買いに行く予定ですよ」


「なら未咲先輩――、今から、いっしょに買いに行きませんか」

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