第二章 文学少女の悩みゴト 5


 僕たちが目指したのは、電車で数駅先の商店街。いつもたくさんの人を見掛ける、賑やかな場所だ。たまに僕も遊びに行く。瀬尾せお先輩の眼鏡はそこのお店で購入したというので、電車で向かっているというわけだ。自転車は駅に置いてきた。


 瀬尾先輩は眼鏡がないとほとんど見えない。目的の駅に着いたので立ち上がると、彼女は危うげについてくる。ふらふらした足取りで、ゆっくりゆっくり歩く。


 非常に危ない。どうしたものか、と思っていると、灯里あかりちゃんは先輩の腕をぽんぽんと叩いた。


「美咲先輩。手、つなご?」


「あ、はい。ありがとうございます、山吹さん」


 言われた通り、瀬尾先輩は灯里ちゃんの手をぎゅっと握った。すると、灯里ちゃんは「えへへ」と嬉しそうに瀬尾先輩を見上げる。ううん、かわいい。具体的に言うと世界一かわいい。


 手を繋ぐふたりと並んで、僕も歩く。灯里ちゃんはご機嫌だった。度々、繋がった手を見ながらにこにこ笑う。本当に嬉しそうだ。そんな灯里ちゃんを見ていると、目が合ってしまった。彼女は微笑みながら、僕に手を差し出す。


「寂しそうね、きぃくん。こっちは空いているわ。きぃくんも手、つなぐ?」


「……え。いや、あの、え?」


「ふふ。冗談よ」


 彼女は悪戯っぽく笑って、手を引っ込めてしまう。ぐ、と悔しさで胸が詰まった。上手くいけば手を繋げたのだろうか……。

 灯里ちゃんと手を繋ぐ。なんという幸福だ。そんな体験をしたことのない僕は、瀬尾先輩を羨ましく思ってしまう。


 三人並んで眼鏡屋さんに入った。有名チェーン店の眼鏡屋さんだ。店内も明るく綺麗で、商品もずらりと並んでいる。それなりに広い。お客さんもちらほらといて、眼鏡を代わる代わる試着している。


「あぁ、こうやって並んでいるのを見ると、わたしも新しい眼鏡が欲しくなってきちゃうわね」


 灯里ちゃんが眼鏡を眺めながら、独り言のように呟く。


「あれ? 灯里ちゃんって視力いいよね? 眼鏡掛けてるところ見たことないけど」


「うん、両目ともいいわよ。眼鏡っていっても、ほら。伊達眼鏡だから。たまにオシャレで掛けるの。かわいいわよ」


 ……そうだったんだ。知らなかった。灯里ちゃんの眼鏡姿か……、想像すらできないけど、とてもかわいい気がする。きっと私服でしか掛けないんだろうけど、一度見てみたい。


「あ、今の『かわいいわよ』っていうのは眼鏡じゃなくて、眼鏡を掛けたわたしがかわいいってことね」


 そんなことをわざわざ付け加えるあたり、灯里ちゃんって感じがする。ちょっと瀬尾先輩が驚いていた。「な、なるほど」と頷いているくらいだ。何がなるほどなんだろう。


「さ。それじゃ未咲みさき先輩。どんな眼鏡にするの? いくつか試着してみます?」


「あぁ、いいです。前と同じデザインで構いません」


 いともあっさり決めてしまい、灯里ちゃんが驚いた顔をする。というより、焦った顔だろうか。「え、ええと、先輩。ま、前と同じやつ……、ですか? せっかくですから、新しいのにしません?」と進言している。実は僕も驚いていた。前と同じものっていうのは……。


 先輩に対して失礼なんだけれど、正直、彼女の眼鏡は似合っていない。というより、眼鏡がよくない。


 黒縁のやたらと大きい眼鏡。機能性以外すべて度外視、と言わんばかりの無骨なデザインだ。似合う人はいないと思う。


「ええと、先輩。前のデザインにこだわりがあるとか……?」


 灯里ちゃんが恐る恐る尋ねると、瀬尾先輩はぐっと顔を近付けた。相変わらず近い。彼女はそのままの距離で、とうとうと口を開く。


「いえ、逆です。こだわりがなくて……。何でもいいんです。だから、前のと同じでいい、と思ったんですけど」


 灯里ちゃんはほっと安堵の息を吐く。「あのデザインがいい」と言われたら、灯里ちゃんも何も言えない。しかし、こだわりがあるわけではなく、むしろ逆。無頓着なのだ。それならば、と灯里ちゃんは顔を輝かせる。


「ねぇ、先輩。何でもいいっていうのなら、先輩の眼鏡、わたしが選んでもいいかしら」


山吹やまぶきさんがですか……? よっぽど変なデザインじゃなければ、わたしは何でもいいですけど……」


「それじゃ、決まりですね! 選んでくるから、ちょっと待っててください。きぃくん、その間、未咲先輩のことよろしく」


 灯里ちゃんはずっと握っていた手を離し、僕のシャツを掴むよう誘導する。瀬尾先輩がはしっと掴むと、灯里ちゃんは早速眼鏡を選びに行ってしまった。瀬尾先輩が顔を近付けてくる。

 瀬尾先輩のまつ毛長い……、と感じられる距離で彼女は口を開く。


「ごめんなさい、青葉あおばくん。よろしくお願いします」


「あ、あぁいえ、ぜんぜん大丈夫ですよ……?」


 顔がくっつきそうになるほど近いせいで、普通に話すのにも照れが生じる。この距離でまっすぐに見つめられると、ドキドキしっぱなしだ。


 しかし、よろしくと言われても、僕たちは特にすることがない。商品の前でぼうっとするだけだ。それもどうかと思うので、僕も眼鏡を物色してみる。

 僕が移動すると、遅れて瀬尾先輩がとてて、とついてくる。シャツを掴みながら。また僕が移動すると、同じようにとてて、と歩いてくる。


 ……かわいい。

 年上のお姉さんが子供のように服を掴み、せっせとついてくる姿は妙に愛らしい。滅多に味わえないシチュエーションじゃないだろうか。無意味に動き回りたくなるけど、さすがにそれは自重する。


 代わりに、瀬尾先輩に話しかけた。


「瀬尾先輩。前から疑問だったんですが、試着用の眼鏡って度が入ってないですよね。自分の眼鏡は外すから、よく見えないですよね。どうやって似合うかどうかを判断するんですか?」


 瀬尾先輩はもにゅもにゅと言いづらそうにしている。


「眼鏡選びの永遠の課題ですね……。コンタクトがある人はいいんですが、ない人はぼやっとした視界で判断するしかないです」


「……それでわかるんですか?」


「わからないです。基本的に眼鏡選びは一か八かです」


「一か八か」


 やはりそういうものなのか……。瀬尾先輩が眼鏡に頓着しないのも、どうせ選べないから、という理由があるのかもしれない。


「お待たせー。先輩、これ着けてみてください」


 話しているうちに、灯里ちゃんの眼鏡選びが終わったようだ。三つの眼鏡を持って歩み寄ってくる。僕も瀬尾先輩の試着を見ようとしたが、灯里ちゃんに止められた。肩を持たれ、身体をくるりと反対方向に向けられる。


「待って待ってきぃくん。せっかくだから、あとのお楽しみってことにしてくれないかしら」


「えぇ? 今は見ちゃダメってこと?」


「そういうこと。ちょーっとだけ、我慢してて。ね?」


 そんなふうに言われると何も言えない。僕の両肩を持ったまま、首を傾げて笑顔で「ね?」って。言えるわけがない。本当にかわいいの権化だな、この人は。


 仕方なく、僕は瀬尾先輩の後ろ姿だけ眺める。灯里ちゃんが直接掛けさせるみたいだ。一つ目の眼鏡を彼女に掛け、灯里ちゃんが前髪をはらはらと分ける。途端に顔を輝かせた。両手を組んで、きらきらとした目を向ける。


「! あぁ、いいです、未咲先輩! とっても似合います! でも限りなく満点に近い九十九点! 次行きましょう!」


「へ、あ、え? ありがとうございま……、え、はい?」


 灯里ちゃんのテンションの高さ、賞賛の言葉、移り変わりの速さについていけないでいる。灯里ちゃんがはしゃいで「早く、早く」と急かすと、慌てて彼女は眼鏡を外した。


 そして、次の眼鏡を掛ける。途端に灯里ちゃんが「きゃー!」と悲鳴を上げた。両手で顔を挟み、ハートマークを飛ばしている。


「思った通りです、未咲先輩! リムレスめちゃくちゃ似合うー! すべての眼鏡を過去にしました! 次は未来に行ってみましょう!」


「か、過去、未来、え、け、結局これでもないんですか……」


 わたわたと眼鏡を外すと、新しい眼鏡が掛けられる。これが最後の一つだ。灯里ちゃんはそっと顔を離す。無表情で、何も言葉を発さない。ただ、じっと瀬尾先輩の顔を見つめている。


「あ、あの……、どう、でしょうか。似合っていませんか……?」


 灯里ちゃんが何も言わないせいで、不安になったのだろう。今度は瀬尾先輩から尋ねていた。すると、黙り込んでいた灯里ちゃんが「いえ……」と小さく否定する。感慨深そうに言葉を並べた。


「最高です、未咲先輩……、物凄く綺麗です……、やっぱり先輩にはこの眼鏡が一番だったわ……、いいです、すごくいい……。ねぇ先輩、ちゅーしてもいいですか……」


「え……、い、いやです……」


 どうやら、三つ目の眼鏡で決まりのようだ。早速、それを持って店員さんに声を掛ける。色んな調整をしてもらわないといけない。


 それらの手続きも無事に終えて、あとは眼鏡の出来上がりを待つばかりとなった。外で時間を潰してもよかったけど、裸眼の瀬尾先輩には辛い。お店の待合室で待たせてもらうことにした。


 長椅子に三人並んで雑談に興じる中、僕はふっと思い出したことがあり、それをそのまま口にした。


「あの、眼鏡ができたらあとで本屋さんに行きませんか?」


 僕が提案すると、瀬尾先輩は両手をぱんと合わせて「いいですね!」と声を上げた。そして、「何か用があるんですか?」と両手を下ろす。先に本屋に行くことを同意してから理由を訊くあたり、文学少女って感じがする。


「前に瀬尾先輩が『カップルはどこにデートへ行くのか』っていう疑問を挙げていたじゃないですか。友達に訊いたら、『デートスポット特集をしてる雑誌を読めばいい』って言われたんです。それを探してみようと思いまして」


 秋人あきひとの言っていたことだ。若者向けの雑誌や地元レジャーの雑誌を読めば、特集を組んでいることがある。そこから情報を得ればいい。灯里ちゃんも「確かにそういうの、よく見かけるわね」と同意してくれた。








 なぜか僕は眼鏡屋の外でひとり待っていた。


 待合室で時間を潰し、ようやく瀬尾先輩の眼鏡を受け取るとき。灯里ちゃんに先に外へ出てくれ、と言われたのだ。理由はわからない。ただ、灯里ちゃんに微笑まれ、「きっとそっちの方がいいわよ」と言われれば、僕は従うしかない。逆らう理由もなかった。


 ぼうっと待っていると、眼鏡屋さんの自動ドアが開いた。やっと来たのかな、と目を向けたが、違う人だった。瀬尾先輩でも灯里ちゃんでもない。しかし、桃東高校のセーラー服を着ていた。

 店内に僕たち以外に生徒っていたっけ? と改めて彼女を確認したときだ。度肝を抜かれたのは。


 上品な黒い髪を腰まで伸ばし、その一本一本に艶と輝きがある。烏の濡れ羽色とはこのことだ。前髪は目に掛からないよう分けられ、透き通った瞳が見えている。長いまつ毛もだ。物凄く綺麗な人だった。清楚で、品があって、理知的で。どこかのお嬢様のようだ。


 掛けている眼鏡がその印象をより強める。細い銀色のアンダーリム。彼女の雰囲気によく似合っていて、それこそ文学少女のようだった。あまり自己主張のないデザインが、彼女の綺麗な顔をより良く見せている。


 背は高い。ぴんと背筋を伸ばしている。発育がいいのは背だけではなく、大きな胸が自己主張していた。セーラー服を持ち上げ、深い影を作っている。


 ……ぱっと見だけでは全くわからなかった。彼女は瀬尾先輩だ。眼鏡を変え、前髪を分け、顔をしっかり見えるようにした、猫背をやめた瀬尾先輩。ここまで、ここまで変わるものか。


 美人だなぁ、とは思っていたけど、そんなぼんやりとした感想を完全に吹き飛ばすインパクト。

 圧倒的な美人がそこに立っていた。


「ふふん。どうよきぃくん。瀬尾先輩、綺麗でしょう?」


 瀬尾先輩の後ろから灯里ちゃんが現れる。手に持った櫛をくるくる回しながら、胸を張った。灯里ちゃんが色々やったらしい。実際、彼女の功績は大きかった。瀬尾先輩の魅力を最大限に引き出している。眼鏡選びのセンスも見事だった。


「あ、あのあのあの、山吹さん。わたし、前髪を分けていると落ち着かないんですけど……、そ、それにわたしは胸を張ると太って見えるので……」


「ああん、わたし胸が大きい人特有の遠回しな言い方大好き!」


 顔を赤くして猫背に戻りつつある瀬尾先輩に、灯里ちゃんが抱き着く。瀬尾先輩は困った顔でおろおろしていた。灯里ちゃんが僕に目を向け、抱き着いたまま口を開く。


「先輩、こんなに綺麗なんですもの。見せびらかさないなんて勿体ないわ。ねぇきぃくん。あなたもそう思うでしょう?」


「い、いやいやいや、そ、そんなことないです、山吹さん変なこと言わないでください」


 瀬尾先輩はより顔を赤くして、手をぱたぱたと顔の前で振っている。謙遜というよりは本当に困っているようだった。そんなわけがないと否定している。彼女が不安そうな目を僕に向けた。


 ぽーっとしていた僕は、何も考えずに思ったままの言葉を吐き出す。


「いや、先輩すごいです……、すごく綺麗ですよ……。いや、もう、ほんとに。すごく綺麗なんです、綺麗です」


「語彙力なんとかならない?」


 灯里ちゃんに呆れられたが、小手先の言葉を失うくらいの衝撃だった。簡単なことしか言えない。その気持ちは瀬尾先輩にも伝わったようで、彼女はぐむ、と口をつぐむ。顔をさらに赤くさせた。猫背が戻り、俯いてしまう。


 かと思うと、眼鏡の位置を直してから背筋を伸ばした。胸を張る。顔は赤いままだったが、目を瞑りながら口を開いた。


「わ、わかりました……、こ、こっちの方がいいんですね……、が、頑張ります……」


 彼女は手をきゅっと握り、たどたどしいながらもそう言った。灯里ちゃんが嬉しそうに頷いている。


 しかし、そのあとは大変だった。


 当初の予定通り本屋に向かったのだけど、恐ろしく目を惹くのだ。このふたりが。何せ、世界一かわいい女の子と、圧倒的に美人な文学少女の極悪コンビである。ひとりでも注目を浴びるだろうに、それがふたり並んでいる。見られないわけがない。


「あの、あのあの、何だかすごく見られていませんか……、やっぱりわたし、変なんじゃ……」


「違いますって。美人が見られるのは税金みたいなもんなんで、我慢してください。未咲先輩がそれだけ綺麗ってことだから」


「い、いやいや、そんな……、そんなわけが……」


 そんなやり取りをしている。灯里ちゃんは見られるのに慣れっこだろうけど、瀬尾先輩が戸惑うのも無理はない。それだけ注目を集めている。それは自然なことだけど、僕としてはちょっと辛い。僕は普通の高校生だからだ。

 華やかなふたりから、距離を取りたくなる。少し離れてついていく。


「あれ? ちょっときぃくん。どうしたの、そんなに離れて」


 勘のいい灯里ちゃんが振り返り、僕においでおいでと手招きする。周りの視線が僕に集まるのを感じる。ううん。僕は困った表情を浮かべながら、彼女たちに追いついた。


「いや、あの。普通の高校生としては、ふたりに並ぶのはちょっと抵抗があるというか……」


「うん? 何言ってるの、きぃくん。わたしたちふたりに釣りあう男なんていやしないんだから、堂々としていればいいのよ」


 灯里ちゃんはあっさり言う。

 そのすっぱりとした考え方は好きだけど、なかなか割り切れないものなのだ。ただ、瀬尾先輩まで心配そうに僕を見るので、大人しく彼女たちと並んだ。

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