第55話 デウス・エクス・マキナ
大空門――副王ヨグ=ソトース――魔王アザトースの眠る、時空のゆりかご。
玉虫色の空間の中で、あらゆる記憶が呼び起こされる。
生,生死死生,死生生生,死死死死,死死死生。
開道光の作りかけの式。
その先の、先の答えまで。
気づいてしまえば、なんて単純なものなのだろう。
生死生生,死生死生。
生と死、その二進数の羅列だけでこの世のあらゆるものを表現でき、制御でき、支配できる。
気づいてしまえば、ただそれだけの仕組みだ。
それが肉体を持つ生物、生のうねりを持つ者である限りは、誰であろうと使用することができる。誰でも気づき得る理論だ。
ただ、すぐ背後にその理論がありながら、あらゆる生物はそれに気づかず生を
気づけば、誰もが宇宙という理を超えることができるというのに、だ。
ああ……
ああ、そうか……
嗚呼……
「ああ……」
気づいたら、声を上げていた。
感嘆の声だ。あまりにも絶大で、あまりにもシンプルな宇宙の摂理。
なるほど、司の精神は死んだ。この瞬間、
俺という存在は、俺ではなく世界の理そのものになった。
知ってしまえば、もう戻ることはできない。
ただ
それが「イースの秘術」とイース人が名付けたもの。
デウス・エクス・マキナと”おっさん”が名付けたもの。
誰でも知り得る、だが誰一人気づき得ない宇宙の理。
「これが……」
司は大空門から外に出る。生、死、死、生。単純な
気がつくと、隣に開道がいた。目の前には大空門があった。背後に目を向けると、イゴーロナクを必死に抑える彩女とディーがいた。
現実感は、なかった。そんなものは、もう二度と……それこそ司には幾億年かけても取り戻せないものだろう。
司にあるのは、ただ理としての判断だけだった。
黒河司は、いずれ消える。宇宙の理の一部となるだろう。
なら、黒河司としていま俺がやるべきことは何だ?
だれかが興奮した面持ちで何かを言っている。
開道光だ。
「君は……ついに手に入れたんだね。宇宙の叡智……その全てを」
「ああ。……まあ、これはそんな大それたものではないけどな」
「すばらしい! 君はなんて優秀なんだ。さあ、その力を見せてくれ!
私に宇宙の叡智というものを、イース人すらたどり着けなかった秘術を見せてくれ!」
開道光は、呪文を唱え、校舎の南側に向けて手をかざした。
光が放たれる。学校の敷地の外にある、文様の描かれた石碑が光をはなつのが
現れたのは、四足の巨大な化け物だ。舌が長く、鰐のような顎に蠢く影のような胴体。
この怪物の正体を、司は理解できた。
「ティンダロスの猟犬……だと……冗談じゃない!」
ディーが絶望的な表情で叫ぶ。
それもそうだろう。イゴーロナクだけでも恐るべき相手だと言うのに、その上ティンダロスの猟犬というイース人の天敵まで現れたのだから。
だがいまの俺にとっては取るに足らない存在だった。
死,生死生生,生死……。
かの猟犬の式を読み取り、それに命じる。
――死。
ティンダロスの猟犬が、消滅する。
彩女が、ディーが、開道さえも驚きに目を見開いた。
「……わかったか? これがイースの秘術『デウス・エクス・マキナ』だ」
開道の顔が、愉悦に歪む。
生まれてはじめての理解の及ばない存在。目の当たりにする、想像もできない力の一端。
それを見られたことが、心底嬉しいとばかりに満面の笑みを浮かべた。
「すばらしい! すばらしいよ黒河司くん!
もっと見せてくれ。もっとだ! その力を!
さあ、次は私を消し去ってみせろ! このゴミみたいな世界を終わらせてみせろ!」
両手を開き、開道が叫んだ。
続いて俺は、イゴーロナクへと目を向ける。
「……大輔……もう、苦しむのは終わりだ。
……さようなら」
――死。
イゴーロナクの存在を、消滅させる。
瞬間、肥満した巨大の動きが止まり、生と死の羅列となって宇宙の理の一部へと消滅していく。
魔王のもとへと帰還する。
そして、俺は瞳を開道へと向けた。
開道のまとっている「魔力」を消し去る。
すると、力を失った開道はどっと地に伏せた。
立ち上がる力のなくなった開道は、喜びに満ちた瞳を俺へと向けた。
「ああ、すばらしい。その秘術はすばらしい! 私の体が、魂が朽ちる前に、もう一度……もう一度見せてくれたまえ!」
そんな開道を冷たく見下ろしながら、俺は言う。
「……俺はあんたが嫌いだ。あんたがやったこと、俺の友達を貶めたことを許すことができない」
開道光は言葉を止め、呆然と俺を見る。そして、そのままの表情で言う。
「ああ、そうだ、そうだ。当然だ。
君の言うことは論理として正しい。筋が通っている。
君は私のことを恨む必然がある」
開道はまた表情を動かす。今度は穏やかな表情、静かな声で言う。
「私を殺すといい。その神秘の力をまた見ることができないのは残念だが、これが摂理だ。仕方あるまい」
開道は身を委ねるように大の字になった。
俺は、そんな開道を見てふっと笑った。
「いや、見せてやるよ」
俺の言葉に、驚く開道。
「……いいのか、黒河司くん?」
「……ああ。いいか。最後だからよく見ていろ」
俺はデウス・エクス・マキナを起動した。
開道光の構成式を、単純な人間を、非人道的な業で少しだけ複雑にしたその式を、丁寧に読み取る。
生,生死生生,死生生死,生死死死,死生死生。
丁寧に読み取った式を、もう一度丁寧に零へと還す。
――死。
「ああ、なんてすばらしいんだ……これは、宇宙を超え、時間の仕組みさえも変え得る力がある。まさに無限、そして起源だ……。
ああ、最期にこれを見れてよかったよ。これを知ることができてよかった。
……人の力に、可能性に、希望を持てた。そして、私はちっぽけな存在だと知ることができた」
開道光はおかしそうに、同時に心底嬉しそうに笑う。
「ああ! 私はちっぽけだ! そうだとも! 私はちっぽけだ!
……これほど嬉しいことはあるだろうか。この私をもってしても宇宙の
ああ、ああ……。なんて素敵なのだろう……。もっと、もっと知ることができるんだ。学ぶことができるんだ。成長することができるんだ。
……生きることが、できるんだ……」
俺の目の前で、開道光は何度もなんどもその言葉を繰り返し、噛み締めた。
「黒河司くん……。ありがとう。私は最期に人の可能性と、自分の小ささを知ることができた。
……私は大いに満足している」
「……そうか。……さよならだ。開道、"先輩"」
その言葉に、開道は懐かしむような表情で瞳を閉じた。
「"先輩"、か。私は君のおばあさんくらいの歳なんだがね。
だけど、なんとも懐かしい響きだ。
君の青春が、伝わってくる。……かつて私も、そうだったように」
消えゆく直前、開道光は俺に心の声で語った。
”好奇心の赴くまま、研究に明け暮れた学生時代……。その頃の私は、たしかに青春だった。ああ、いつから私は自分が全能になったと錯覚したのだろう。
それは紛れもなく私の器の――人であるがゆえの小ささなのだろうが、なんとも勿体無いことをしたものだと少し後悔するよ”
天才にして、狂人――開道光の、最期。
開道は、死を望んだ。自分のような存在を生かしておくと、世界のためにならないと。
開道の卓越した叡智は、その事実を客観的にとらえている。
そんな彼女だからこそ、俺は彼女の最期のささやかな望みを叶えることにしたのだった。
「おやすみなさい……大輔……開道先輩……」
俺は黙祷するように、目を閉じた。
そして目を開くと、校舎の外へと向かう。
「司さん……?」
「司、何をするんだ?」
彩女とディーが疑問を投げかけてくる。
それに対して、俺は笑顔で答えた。
「ヨグ=ソトースを片付けてくるよ。終わらせないと……この怪異を」
たとえ、何億年かかっても……この時代を救うために。
俺はヨグ=ソトースのいる宇宙へと向かうために、旧校舎をあとにした。
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