第51話 闇
長い白髪。整ったまつげ。大人びた体つき。少女のようなきめ細かな肌。
虚空を見つめる、生まれたばかりのような幼い真紅の瞳。
「ア、あー……ごポッ――!」
一糸まとわぬその女性は、何か言葉を発しようとしたが、すぐにむせて咳き込んでしまった。
その肌はあまりにも白く、薄く発光しているようにすら見える。
「な、何者だ……お前……」
司がなんとか声を絞り出す。
すると、まるでその声に答えるように、粘液にまみれた女性は口角を吊り上げた。
虚空をさまよっていた瞳に、生気がともり司へと焦点を絞る。
「あー……あ、あー?」
まるで発声練習をするように、女はうめき声をあげる。そのたびに口元の粘液が泡を作った。
女は片膝をつき、まるで虫が羽化をするようにゆっくりと緩慢な動作で、粘液をベールのように垂れ流しながら、立ち上がった。
女は肩幅に足を開いたしっかりとした姿勢で立ち、彩女、司、ディーの三人を見つめる。
そしてもう一度、女は口角を吊り上げて笑みを浮かべた。今度は知性を感じさせる表情だった。
女が口を開く。
「どうやら、この子は……ショゴスロードは、うまくやってくれたみたい」
まるで幼子が急激な成長を遂げたかのよう。先ほどとは打って変わって流暢に喋りだす女に、司と彩女はたじろいで後ずさった。
ディーだけが、それと真正面から対峙する。
「ショゴスロード? まさか、キミを生み出した
「そう……この子の力によって、私はいま甦った」
無貌の狩人だったもの――無数の瞳を持つ不定形の生物を、慈しみを感じる手つきで撫でる女。
ひとしきり撫でると、女はふたたび司たちのほうへと顔を向けた。
「私は何者か……だったね。私は
開道光。その名を、司は知っていた。
彩女の家で見た『南極観測考察』の作者だ。だが、もしそれが本当なら、かなりの年配ということになるだろう。
だが目の前の女は、よくて二十代前半、十代の少女にすら見える。
それにこの人間離れした白髪と真紅の瞳はいったい。
「不思議? そうでしょう。だって開道光だったものなんて、もう魂しか残っていないから。
この体は、私の細胞から長い年月をかけてショゴスが復元しただけ。脳すらも、作り物の複製品……」
どんどん流暢になっていく開道の言葉に、ディーが驚きの声をあげる。
「人間の複製――それほどのことを、ショゴスに教え込んだというのか?」
ディーの問いかけに、開道は小さくうなずいた。
「そう。だからこそ私はいま……人を超えることができた」
開道は先ほどまでとは違うハッキリとした口調で言って、両手を広げて見せた。
彼女の口元が、いびつに歪む。
「君たちの邪魔によって予定より少し早くなってしまった。
だけど仕方がない。最後の仕上げは、彼に任せることにしよう」
開道は食堂の入り口のほうへと目を向け、手招きする。
司が視線を向けると、そこには予想外の人物がいた。
「お、お前は……!」
司が驚きの声をあげた。
食堂の入り口に立っていたのは、司のよく知る人物――荒木大輔だった。
大輔はよろよろとした足取りで開道のもとへと移動する。
「……久しぶりだな、司。それに白山さん」
ぞっとするほど生気のない声音で大輔は司たちに向かって言った。
「大輔、どうしてここに――」
「それは……このためさ」
大輔がカバンの中からたどたどしい動作で、一冊の本を取り出す。
その表題は日本語で――グラーキの黙示録・第十三巻。
「グラーキの黙示録……なんでそれをお前が持っているんだ」
「この本は、玲二の忘れ形見だよ。俺はこいつを使って、世界を闇に帰す」
「闇に――何を言ってるんだ、大輔?」
司の言葉に、開道が答える。
「ヨグ=ソトースを顕現させ、世界を混沌に染める。――黙示録だ。
本当はこの体を得た私がウボ=サスラに接触し、起動する予定だったのだが……。
彼は、予想以上に優秀だった」
賛辞を含めた内容とは裏腹に、開道の口調はどこか退屈そうだった。
簡単に物事が運んでいくことが我慢ならないとでもいうように。
「さあ、黙示録の始まりだ」
開道が宣言すると、大輔が魔導書のページを開いた。
「来い、イゴーロナク!!」
大輔が審判を下すように言い放った。
その直後、巨大な地響き、濃霧、雷鳴と災いを予感させる事象が同時に発生した。
「ま、まさか……大空門を起動したのか?」
ディーが珍しく声を震わせた。
そんな彼女に対して、開道は不敵な笑みという形で答える。
校舎の地下にまで届くほどの雷鳴が辺りを震わす。強烈な熱風が、食堂の奥から吹きすさぶ。黒色の霧が立ち込め、視界を塞いでいく。
霧の奥から、手のひらが現れた。その手のひらの中央には、歯をむき出しにした濡れた唇。
隣にいる彩女の息を飲む声が聞こえた。
「荒木くん……そんな……」
霧が薄まり、その怪物の全貌が見えた。
膨れた肉の塊のように肥満した体、首はなく、頭もない。両の手のひらには唇がついている。
大輔がいたはずの場所に、代わりとしてその怪物がいた。
「な、なんだこいつは……。大輔は……大輔は、どこに!?」
司が周囲を見回しても彼の姿は見つからなかった。
彩女が口元を片手で押さえて震えながら、もう片方の手で怪物を指をさす。
「荒木くんは……」
「ま、まさか――」
あれが大輔なのか。醜く膨れ上がった、あの怪物が。
考えるよりも先に、司の体は動いた。
「ダメだ! 大輔、戻ってこい!!」
司は叫びながら、怪物のもとへと走る。
止めなければ。もう、美波のときのような悲しい想いをしたくはなかった。
「大輔!!」
司の走りは、肘をつかむ手によって止められた。
振り向くと、ディーが両手で司をつかみ、小さな体で懸命に踏ん張っていた。
「やめろ、司……あれは……イゴーロナクは危険だ!」
「離してくれ! 俺は……大輔、を……ぐっ」
そのとき、司を強い頭痛が襲った。
心臓の鼓動に合わせて、頭がガンガンと響く。
ディーに見せられた記憶よりももっと強烈に、情報が頭の中に流れ込んでくる。
イースの秘術とは――。
なんてことはない。世界のすべてを生と死の二進数で表現するというもの。からくりに気づけば誰にでも扱えるようなものだ。
だが、あらゆるものに備わったその機構を、生物は認知することが困難だ。
だから一度、上の次元に行く必要がある。
そこから見える広大な景色を覗いたのなら、君は全能ともいえるイースの秘術を手にすることができるだろう。
そのためにいまから君の脳に伝える情報は、鍵だ。そして鍵穴は、ヨグ=ソトースの門の向こう側にある。
なぜ君にこの秘術を授けるかって?
イースの秘術は、肉体を持つものにしか扱えない。その名に反して、イース人には決して知ることのできない概念なのだよ。
それとね……できることなら、君にこのような運命を背負わせたくはなかった。
なぜならこの秘術を使ったとき、君の精神は、魂すらも残さず秘術の
これは、いずれ来る災いに対抗するために必要なことなのだ。
どうか、理解してほしい。
「いまのは……おっさんの記憶か?」
「何をぼさっとしているんだ! 逃げるぞ!」
記憶の奔流から目覚め、呆けている司の腕を、ディーが引っ張る。
目の前の怪物、イゴーロナクの周囲にはボロ布をまとった
その光景に、司は思わず後退った。その様子を、開道は無表情で眺めていた。
「さあ、せいぜいあがいてくれイース人。私を楽しませてくれよ」
「……ボクの正体を見抜いたようだね。本当に何者なんだキミは」
苦笑いするディーを「とにかく逃げましょう!」と言って彩女が手を引く。
結果的に二人から引っ張られる形になった司は、まだ覚めきらぬ頭のまま、よろよろと食堂の入り口に向かって駆けていった。
「ふーん、逃げるんだ。……いいけど。
君たちは特別だ。せいぜい長く生き延びてくれ」
開道はそう言って、空間の歪みの中に消えていった。
司、彩女、ディーの三人は、膨れ上がった怪物に背を向け、校舎の外へと走った。
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