第42話 不定の狂気
美波の家族――藍原家の夫婦には、藍原美波は旅行中に事故にあって死亡したと伝えられ、葬儀も行われた。
藍原家の夫婦は事情を知っていたためか、死に目に会えなかったことを大いに悲しんだが、深く追求してくることはなかった。それどころか、司があまりにひどい顔をしていたためか、涙をこらえながら何度も謝られ、励まされた。
美波は、本当にいい両親に育てられたのだと司は知った。
美波の葬儀から一週間が経った今でも司の気持ちは晴れず、毎日美波の墓に行き、祈りを捧げていた。その墓には、美波はいない。美波の遺体は秘密裏に処理され、海に流された。代わりに墓の下には、司のプレゼントしたヘアゴムが藍原家先祖の遺骨と一緒に埋められている。
墓参りが終わると、司は決まって学校に寄った。
夏休みということもあり学校には部活をしている生徒しかおらず、部活が終わるまで教室はほとんど無人だった。
そこで、司はひとり思い出すのだ。美波と過ごした日々を、その思い出を。
美波が生きた証を少しでも多く心に刻みつけることで、彼女への弔いになる。なにより、司の中で少しでも鮮明に美波が生き続けることができる。どこかでそう思っているのかも知れない。
――そうは言っても、実際はそんな志があるから教室に足を運んでいるというわけではない。なんとなく、来てしまうのだ。
なんとなく教室に足を運び、なんとなくそこで時間を過ごす。
悲しみ、喪失感、自責の念――そういったものが、司の心の中を空っぽにしていた。
ただ、どうしていいか分からず、ここに足を運んでは、部活の時間が終わるまでの時間、魂が抜けたようにぼんやりとして過ごす。
そうして今日も教室でひとり過ごしていると、司に近づくひとりの生徒がいた。
「司さん。探しました……こんなところにいたのですね」
彩女だ。彼女は司を探し回っていたのか、少し息が上がっているように見えた。
「彩女。どうしてここへ? 俺のことを探していたのか?」
「はい。あなたと、お話がしたくて」
「何も話すことなんてないだろう」
「それはそうですが……」
彩女はうつむいて口ごもってしまう。その煮え切らない様子に、司は苛立ちを覚えた。
「俺には構わないでくれ。せっかく探しに来てくれたのに悪いが、今は誰かと話す気にはなれない」
「でも……」
「放っておけって言ってるだろ!」
びくりと彩女の肩が震えた。
司はため息をつく。
「そういうわけだから、もう帰ってくれ」
「でも、私はあなたに元気になってもらいたくて……」
「……俺を励まそうとしてくれるのはありがたいよ。でも、そうやって慰められて俺が立ち直っても、美波が死んだっていう事実は変わらない。美波はかえってこない!」
話すにごとに、だんだんとまた司の語気は強くなった。それにつれて、彩女の目が怯えの色を帯びる。
気持ちを鎮めるために、司は一度深呼吸をした。生まれてくる感情を抑えられる気はまったくしなかったが、彼女にこれ以上当たるわけにはいかない。
「……俺が美波を殺したという事実だって変わらないんだ」
「でも、あなたは悪くない……」
「そういう問題じゃないんだよ!」
抑えようとしても、結局次にはまた口調が強くなってしまう。
司の胸が、二つのことでズキリと傷んだ。
「……ごめん。本当に、もう帰ってくれ」
「……わかりました」
彩女はしゅんとしながら「ごめんなさい」と司に頭を下げた。
謝らないでほしい、と思ったが、司はなぜかそれを口には出そうとは思えなかった。
彩女が教室から出て行ったのを見送った司は、視界の端で蜘蛛が歩いているのが目に入った。その蜘蛛を、司は苛立ちを交えて踏みにじった。
司の中に芽生えた小さな狂気の萌芽。それはやがて、大きな悪夢へと姿を変えようとしていた。
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