第41話 伝承の終わり
「美波……ごめん……美波……」
司は美波の亡骸の髪をそっと撫でた。
彼女はもう返事をすることはできず、「ふへへ」という変な笑い声も聞くことはできない。
頭はモヤがかかったように呆然としてはっきりとしないのに、自分が美波を殺したという事実だけは、まるで津波のように明瞭に押し寄せてくる。
美波が死んだ。自分が殺した。
その言葉だけが、頭の中で何度も
なぜ自分が
背後で、人の動く気配がした。
司が弱々しく振り返ると、そこには頭から血を流しながら起き上がる浅木圭介がいた。
「わがままを散らした挙げ句にそれか。限度を知れ小僧」
浅木が猟銃を司に突きつける。
彼が自分のことを殺そうとしていることはわかった。
それもいいかもしれないと、司は思った。
これで美波のところに行けるなら――罪を償えるなら、それも悪くはない。
司がそう考えて瞳を伏せた瞬間、なにか硬いものが肉を貫く音が聞こえた。
「ごふっ――ち、さと?」
浅木の背後に、蜘蛛女の千里がいた。蜘蛛の鋭い脚が、浅木の背中を貫いていた。
千里が、浅木を愛おしそうに抱擁する。すると浅木は、今まで見せなかった、童顔に似合った穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ……やっと……」
千里の腕に抱かれて、浅木は息絶えた。
千里はその体をそっと下ろすと、歯が肉を破るおぞましい音を立てながら、浅木の体を捕食し始めた。
頭、腕、腰、足と、浅木の体が千里に食われていく。
その様子を、司は呆然と見つめていた。
やがて、浅木は骨まで千里に食われた。
浅木を食い終わった千里は、蜘蛛脚を動かして司のほうへと歩み寄る。
そして、千里はその口を開いた。司はああ、自分も食われるのかと、どこか他人事のように思っていた。だが、予想外なことにその口から発せられたのは人の言葉だった。
「……つかさ、無事?」
司は驚きで目を見開く。
「千里さん……言葉、喋れるのか?」
司の質問に、千里はうなずいた。
「……あの人を食べることで、私の自我は少しの間だけ人のものに戻った。
呪いを受けたものは、人を食べれば人に、食べなければ蜘蛛に近づく」
だから蜘蛛の呪いを受けたものは人を食べたくなる。千里はそう言った。
「……なら、美波は俺を食べればよかったんだ。そうすれば、少しでも美波は長く――」
「あの子は、そんなことは望んでいなかった。わかるでしょう?」
千里はたしなめるように言ったあと、司に対して丁寧に頭を下げた。
彼女とこんなふうに話しているという状況は、司にとってなんとも不思議なことだった。
「ありがとう。あの子は、きっと幸せだった」
「やめてくれ。美波を殺したのは俺だ」
千里は黒目がちの瞳を揺らしながら、ため息をついた。
「あの子の最後の言葉が、聞こえたわ」
「最後の……?」
「『泣かないで』」
千里から伝えられた、美波の最後の言葉。
それを聞いた司は、自然と涙がこぼれてきた。
「そんなの、俺には聞こえなかった」
「でも、私には聞こえた。それに、とても幸せそうな顔をしている」
「……わからない」
千里は、司に微笑みかけた。
司には美波の死に顔から表情など読み取れなかったが、同じ種族だからこそわかる表情や声があるのだろうか。それともこれは、司を励ますための方便なのか。
どちらでもいい、と司は思った。
美波は死んだ。これから楽しいことがたくさんあるはずだったのに。
生きていて、欲しかった。
「……私は、土蜘蛛を倒すわ」
千里は、司に向けて宣言した。
いや、司の抱く美波に向けてかもしれない。
「そうしたら、私は自ら命を絶つ。それで、全てを終わらせる」
司は力なく千里へと目を向けた。
「……できるのか」
「それは、どちらの意味?」
「土蜘蛛を、倒せるのか?」
司の問いに、千里は少し考えてからうなずいた。
「できる、と思う。私は十五年前よりも強くなっている。今なら、土蜘蛛にも負けないと思う」
「どうして……あんたも美波と同じ、被害者のはずなのに」
人の代表のようなつもりで言った言葉だった。けれど、千里の答えは司の想像していたものとは違った。
「あなたを……守りたいから。美波が愛したあなたを、守るために戦いたい」
「俺なんかのために、命を捨てちゃダメだ」
「それだけじゃない。私は、人間なの。…………まだ人間だと、思いたい」
震えながら話すその姿は、美波とどこか似ていた。
本音としては、土蜘蛛のことなどどうでもよかった。しかし、彼女の決意には敬意を払うべきだと思った。
「千里さん。その……ありがとう」
司は、千里に頭を下げた。
千里は少し困ったように微笑みながらうなずいた。
その表情も、やっぱり美波に似ていた。
千里の姿が、鳥居の道のほうへと消えていく。
土蜘蛛と戦いに行ったのだろう。彼女を止めることもできなければ、これ以上、司にできることはない。
その戦いの結末を司は知ることはなく、後日、司は豊岡村に帰ることになった。
こうして、この島で彼らに降り掛かった災厄は幕を閉じ、蜘蛛の伝承にまつわる事件は終焉を迎えたのだった。
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