第40話 血染め
硝煙を立ち昇らせる猟銃を携えた浅木が、何事もなかったかのように眼鏡の位置を直し、平然と言い放つ。
「化け物は殺さなくてはならない」
「ふざけるな!」
司は血まみれになった美波を抱き起こした。
散弾銃で撃たれた美波だが、まだ意識はあるようだ。異形の体になったことで、生命力も強くなっているのかもしれない。
「なぜかばう? そいつは危険だ」
司は怒りを込めて叫ぶ。
「なぜだと? それよりもどうして、他でもないお前が美波を傷つけるんだ!!」
これからどうすればいいか分からなかったが、かすかな希望はあった。
事情を知り、同じような境遇になった千里を、形はどうあれかくまっている浅木になら、頼ることができるかもしれないと。そう思っていた。
だが、その浅木が美波を殺しに現れたのだ。司はその理由を、尋ねずにはいられなかった。
「阿呆が。蜘蛛になった人間は、人を食らう。それは本能だ。
ならば、被害が出る前に駆除するのが道理だ」
「美波はお前の娘だろうが!」
「他人の事情にずかずかと踏み込んでくるようなガキは好かん。
いいか。娘だからこそだ。そいつに千里と同じ想いをさせるつもりか?」
鎖に繋がれ、もがき苦しむ千里の姿が目に浮かんだ。
彼女が悶えていたのは苦痛だけではなく、人を食べたいという強い欲求もあったというのだろうか。
美波はこれから、どうなるというのだろうか。
だが、それでも美波を殺すなど考えられない。どうかしている、と司は思った。
「理解したなら、おとなしくそいつを引き渡せ」
「そんなことできるか!」
「ふん。相変わらず聞き分けのない強情なガキめ」
がちゃり、と銃口を司たちのほうへと向ける浅木。
司は美波の体を支えながら踵を返した。
「走れるか、美波?」
「つ、司くん……ごめんね……」
「謝らなくていい。行くぞ」
「うん……」
司は美波の体を支えながら走り出した。
背後から浅木が追ってくる気配を感じる。
「阿呆。逃げ切れるわけがあるまい」
浅木が走りながら銃口を向け、引き金を引く。
そのとき、司に支えられた美波が、司を庇うように銃口の先へと体を晒した。
「美波!? お前――」
一度目の銃声。鮮血が飛び、美波の体が衝撃で仰け反る。
二度目の銃声。鮮血。ぐらりと少女の体が傾く。
三度目の銃声。鮮血が司の顔にかかり、目の前が赤く染まる。
司へと倒れかかる美波の体。ぱくぱくと何度か口を動かしたあと、美波の全身から力が抜ける。
呼吸が止まる。心臓も――。
「美波、美波――!」
司は必死で美波の名を呼び、体を揺らす。
だが、少女は目を覚ますことなく、脚の一本すら動くことはなかった。
「手間を掛けさせるな」
「――浅木ぃ!!」
司は浅木に殴りかかった。浅木は予想していなかったためか、反応できずに全力の拳を頬に受けた。手放した猟銃が地面に転がる。
怒りにまかせて本気で人を殴ったのは、覚えている限り初めてだった。
もう一度殴ろうとする司の腕を、浅木が異常なほどの力で抑えつける。だが、ふたりの力は拮抗していた。司もまた、怒りによって普段では考えられないほどの力を発揮していた。
狂気のような浅木の力と、怒りでたかが外れた司の力。お互いの体が、ミシミシと軋んだ。
「ガキめ。気が触れたか」
「狂っているのはお前だ!」
「ふん。こうする以外にどのような方法があったというのだ?
ろくな考えもなく行動して、お前もろとも犠牲者を出していたのがオチだろう」
「だからって何もしないまま殺すことはないだろ!」
「もしも呪いが発現してしまったら、そのときは美波を殺す……それが俺と藍原の間で交わした約束だ。これは決められていたことなのだよ」
「決められていたこと……だと。じゃあ美波は最初から殺される予定だったとでもいうのか!」
「だからそうだと言っているだろう。阿呆!」
浅木は司を腕力で押し返し、顎を蹴り上げた。
司の視界がぐらぐらと揺れる。痛みはほとんど感じなかった。胸の奥に渦巻いている怒りと悲しみが苦痛を押し流していた。
「……殺してやる」
「やってみろ。ガキが!」
司は、足元に落ちていた猟銃を拾い上げた。司はその柄ではなく、まだ熱をもった銃口部分をがっしりと掴む。
浅木の頭部めがけて、力任せに猟銃を振るう。ガツンと音を立てて猟銃の柄が浅木の頭を打ち抜いた。
「が、ガハッ」
浅木の頭から赤い血が飛び散り、体が地に伏す。そして、そのまま動かなくなった。
司は息を荒げながら血糊のついた猟銃を手放し、ふらふらと美波のもとへと歩み寄る。
「美波……ごめん、守れなくて……」
冷えていく彼女の体。それを、司はそっと抱きしめた。
濃密な血の臭い。それも、きっと彼女の生きた証だと思って胸の中に収めた。
紅をまとった唇にキスをする。柔らかい感触と、鉄の味がした。
そのとき、ぴくりと美波の腕が動いた。ひゅうひゅうと口元から弱々しく呼吸が聞こえる。
「美波っ!」
息を吹き返したのか。傷口がかすかに音を立てて泡立っている。蜘蛛の強い生命力。太古の時代から生き残った種の力。
まだ間に合うかも知れない。
司は、美波の体をぐっと担ぎ上げる。
「待ってろ。今、人を――」
「……食ベタイ」
ぼそりと、美波はつぶやいた。黒目がちになった瞳が司を捉える。
「……美波?」
「食ベタイ……食ベタイ」
ぐぱぁ、と美波は口腔を開いた。よだれと泡立った血のあとが糸を引く。
湿った手が、司の体を抑えつける。八本の脚が、司の体をよじ登る。
司は必死に身をよじった。
「や、やめろ。やめてくれ!」
「食ベタイ――死ニタクナイ」
「み、美波……?」
司は美波の瞳を見つめる。彼女は一見すると無表情に見えたが、その瞳の奥には深い悲しみと苦痛を隠しているように見えた。
人としての正気を失いつつある美波が、体をのけぞらせ、激昂するように雄叫びを上げる。
「食ベタイ、食ベタイ、食ベタイ食ベタイ……死ニタクナイ、食ベタイ、食ベタイ、司クン、食ベタイ、食ベタイ、死ニタクナイ、食ベタイ、殺シテ、司クン、食ベタイ、殺シテ、食ベタイ、食ベタイ、死ニタクナイ、嫌ダ、殺シテ、食ベタイ、食ベタイ、殺シテ、殺シテ、殺シテ、殺シテ、食ベタイ、嫌ダ、司クン、殺シテ、食ベタイ、食ベタイ、食ベタイ、食ベタイ、嫌ダ、食ベタイ、食ベタイ――司クン」
「あ、うあ……美波……」
涙は、自然と流れてきていた。
嗚咽をあげるように、司は美波の名を呼んだ。
美波は、その僅かな間だけ、瞳に光を戻して、司に想いを伝える。
「
司は叫んだ。
それは絶叫だった。
両の手で、美波の首を掴み、締め上げる。
「はク……ハッ……ツ、カ、サ、クン…」
「美波……美波……ああぁ」
司は嗚咽をあげながら、美波の首を強く締める。
ミシリ、と蜘蛛の少女の首が音を立てた。
――美波は、絶命した。
呼吸が止まったあとも蜘蛛脚はがさがさと動き続けるので、その動きが止まるまで司は少女の首を締め続けた。
やがて完全に動きが止まる。
静寂の中で、司の慟哭が響き渡った。
美波の顔には、何も表情を浮かべてはいない。
ただ涙の跡だけが、頬を今も湿らせていた。
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