第35話 蟲とまぐわう
異界での一件のあと、司たちは宿に戻って休むことになった。
とくに彩女は疲れ果てている上に怪我もひどく、帰って手当をしたあとは泥のように眠ってしまった。
次の日、もう一度だけ浅木に会って、美波の痣――アトラク=ナクアの呪いについての話を聞くことにした。美波に話すべきかは決めかねていたため、ひとまずタイミングを見計らって彩女と司のふたりで浅木の家に向かうことになった。
「浅木さんは、こんな森の奥に住んでいらっしゃるのですか?」
「ああ。相当な変わり者だから気をつけろよ」
「……はい。森の奥から、かすかに魔物の気配も感じます」
魔物の気配、というのは蜘蛛女の千里のことだろう。
彩女には彼女のことをあらかじめ伝えてあるが、感受性の高い彼女が千里の姿を目にしたときにどうなるのかは、いささか不安ではあった。
「ついたぞ。ここだ。おい、浅木のおっさん!」
「あの、司さん……そんな無遠慮な」
司はガンガンと家の扉を叩いた。
すると、奥から不機嫌そうな様子の浅木が顔を出した。
「朝から騒々しいな阿呆。何をしに来た?」
「そんなの決まっている。美波の呪いについて聞きに来たんだ」
「お前たちだけでか? ……まあいい。入れ」
「入れ」という割に、浅木はすぐにバタンと扉を閉めてしまった。
仕方なく司と彩女は自分で扉を開けて家の中へと入った。
相変わらずの几帳面さと乱雑さの両方を兼ね備えている浅木の部屋は、そこにいるだけで妙に落ち着かない気分にさせる。
ふと彩女のほうを見る。彼女は、緊張した面持ちで眉根を寄せながら、たまに地下室へのハッチへとチラチラと視線を向けていた。
「地下が気になるのか? 見たいのなら見てこい。お前なら理解できるだろう」
浅木は面倒臭そうに言うと、地下へのハッチを開けた。
彩女はこくりとうなずくと、地下室のはしごへと向かう。
それを、司が後ろから呼び止めた。
「待て、彩女。俺も行く」
司は彩女のあとについて地下室へと向かう。
はしごを降りるふたりを、浅木は大仰なため息をつきながら見送った。
地下室に入るなり、彩女はそれを見ながら愕然としながら立ち尽くした。
それとはもちろん、蜘蛛女である千里のことだ。
「つ、司さん……これ……は……」
「……千里さんだよ。浅木のおっさんの婚約者らしい」
「そ、そんな……」
千里の周囲では、相変わらず子蜘蛛が千里に触肢を突き刺して交配を行っている。
そのたびに千里は苦痛に身悶えをしていた。
彩女は口元を抑えて嘔吐感をこらえている。
司は、そんな彼女の背中をそっとさすった。
「なあ、千里さん……あんたは、ホントに美波の母親なのか……?」
司の問いかけに、千里は反応を示さない。
代わりに彩女がすばやく振り向いた。彼女の顔は、蒼白になっていた。
「美波ちゃんの……母親……?」
「そう……らしい。千里さんから生まれた子蜘蛛も、どこか人間らしい部位があるだろ。美波はその中のひとりらしい」
「そんな……」
浅木いわく、「美波こそ生贄としては完成形だ」ということらしい。
この出来損ないたちの中で、唯一完全に人としての形をもって生まれた――蜘蛛。
「だって……美波ちゃん……そんなのって……」
「……いったん、上に戻ろう」
司と彩女は、はしごを登って地上へと戻った。
その間際、視線を感じて振り向くと、蜘蛛女の千里が司たちを見つめていた。
「満足したか?」
部屋に戻るなり、浅木がいやみったらしく尋ねてきた。
それに対し、司が睨みつけて返すと浅木はやれやれと肩をすくめた。
「で、美波のあの紋様みたいな痣はなんなんだ? アトラク=ナクアに呪われると何が起きる?」
司は苛立ちをこらえながら聞いた。早いとこ本題に入らないと、いつまでも煙に巻かれるだけだ。
そう思って尋ねたのだが、浅木の答えは意外なものだった。
「わからん」
「なに?」
「だから俺にはわからんと言ったのだ。アトラク=ナクアの呪いで何が起こるかなど知らんし、そもそもなぜあの娘に今更呪いが発現したのかも検討がつかん」
「くっ……そうか……」
この男が知らないと言えば知らないのだろう。そう諦めかけたとき、彩女がぽつりと言葉を発した。
「……もともとなのでは?」
彩女は言葉を選びながら、一つ一つ口にする。
「……もともと、千里さんの子である美波ちゃんは……少なからず、その呪いを受け継いでいた。それが……異界にいることで顕現した……」
「……悪くない推論だな」
浅木は眼鏡を指で直した
「だが、確かなものではない。たとえお前の
「なぜ……そうまでして呪いを否定するのですか?
あなたは、本当はこれがなんなのか知っているのではないですか?」
「知らん」
浅木はきっぱりと言い切った。
その語気には、わずかに怒りが込められていた。
「お前は勘ぐりすぎだ。まったく……疑うことを知らん琴音とは似ても似つかんな」
「そういうあなたは……美波ちゃんのお父上なのでしょう?」
彩女の言葉に、浅木が目を見開いた。
司も驚愕して言葉を失う。
まさか、浅木が美波の父親――ということは――。
「……なぜそう思う?」
「勘です。……根拠はありません。ただ、美波ちゃんが本当に蜘蛛と千里さんの交配で生まれた子なら、彼女のように完全な人の姿をしていることは考えにくいと思ったことと……」
――なんとなくわかった。
彩女が言葉を詰まらせたので、司がその先を続けた。
「……美波を藍原さんの家に預けたのも、あの子に情が湧いたからか?」
それを聞いた瞬間、浅木が目をギラつかせながら司の首を掴んで締め上げた。
浅木の腕の力は、見かけからは想像できないほどの――狂気を感じるほどの強さで、全く振りほどくことができず、首がギシギシと軋んだ。
「がっ、くっ……何を……」
「黙れ小僧。貴様に何が分かる」
「ぐ、あぁぁぁっ!」
「や、やめなさい! 司さんを離して!」
彩女が浅木の腕を捻り上げて抑え込む。
それによって、ようやく司は解放されてうずくまって咳き込んだ。
「く、かはっ……浅木……お前っ……」
「ふん。
浅木は腕の健が切れることも厭わずに力づくで彩女を持ち上げる。そのまま、本棚の角へと彼女を頭から叩きつけた。
「はぐっ……あ……」
「――彩女!!」
「……邪魔だ、ど阿呆。お前を見ていると、あのふたりを思い出して虫酸が走る」
司は慌てて彩女へと駆け寄る。出血はしていないようだが、脳震盪を起こしているのか朦朧とした様子で、ふらふらと起き上がろうとしては倒れ込むのを繰り返していた。
「……ならば教えてやる。たしかに、美波は俺の子だ。そして、千里の子でもある」
浅木は冷え切った瞳でふたりの様子を見つめる。
浅木圭介と、千里の娘――つまり、それが意味することはひとつ。
「まさか、お前……」
「――そうだ」
浅木は歪んだ笑みを浮かべた。
「俺はあの蜘蛛の化け物を抱いた。そして、生まれた生贄の子を、何を血迷ったか藍原の家に預けたのだ。それが藍原美波という娘の出生の全貌だよ。
疑問が晴れて満足か、小僧?」
浅木は――まるで体育倉庫にいた影のように――嘲りを含んだ笑い声を上げた。
その様子を、司と彩女は驚愕の想いで見つめた。
狂っている。そう言い捨てることは簡単だ。
だが、そこまでするほどに浅木は千里という女性のことを愛していたのだとしたら。
この狂気は、冷酷さは、深い悲しみの中から生じたものではないのか。
もし自分が同じ立場になったらどうするか。
今の司には、答えは出なかった。
「美波ちゃんを……愛していたのですか?」
彩女がか細く震えた声で尋ねた。
それを聞いた浅木が、またも瞳に憎悪を宿す。しかし今回はふんと鼻を鳴らすだけで冷静さを保っていたようだ。
「ただの気まぐれだ。……まあいい。どうとでも受け取り給え」
「――そうさせていただきます」
彩女は浅木に対して微笑みを浮かべる。
その真っ直ぐな瞳を見て、やはり彩女は肝が座っていると司は感心した。
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