第34話 土蜘蛛
美波に体を預けていた彩女が、その声にはっと顔を上げた。
「……声が、聞こえます」
確かに聞こえた。洞穴の外から、司の声が。
まさか、空間の境を越えて、この異界へと来たというのか。
いったいどうやって――
「あ、あたしも聞こえたよ。司くんの声だ!」
美波が彩女の言葉に肯定する。
それと同時に、地ならしのような音が聞こえた。
「この音は――」
「あの蜘蛛が来る……行かなきゃ、司くんが危ないよ!」
「――は、はい!」
先に動いたのは美波だった。彩女は慌ててその背中を追う。
体はだいぶ休められたようで、本調子じゃないにしても問題なく動けそうだった。
あとは司と合流して、もう一度空間をこじ開ける――なんとしても、大蜘蛛が来る前に成功させなければ。
ふたりが洞窟から出ると、二十メートルほど先に司の姿が見えた。
司もふたりの姿に気づいたようで、驚きの表情で声を上げる。
「美波! ――それに、彩女も! 無事だったんだな」
「はい。司さん、今そちらへ――」
その言葉は、地ならしの音がかき消していく。
地平の向こうに、大蜘蛛が姿を見せていた。
「まずい。土蜘蛛が来る――彩女、美波、速く!」
土蜘蛛、古より伝わる大妖怪。それが大蜘蛛の正体なのか、あくまで呼称なのかわからない。いずれにしても、あの禍々しい姿を見るに納得の呼び名だ。
彩女と美波は司のもとへと走った。
手が届くまでもう少しというところで、土蜘蛛が予想外の行動をとった。
脚を止め、糸を吐いたのだ。吐き出された糸の束は、まっすぐに美波の方へと飛来する。
「美波ちゃん、危ない!」
美波の体を彩女が突き飛ばす。
彩女は自らも身をひるがえして糸を避けようとしたが、それは間に合わず、粘ついた糸に体を絡め取られてしまった。
司は手を伸ばし、彩女の腕を掴んだ。
「彩女! このっ」
力任せに彩女の腕を引き、彼女の体を糸から解き放とうとする。
「ああっ……くっ……」
粘着する糸を土蜘蛛が手繰り寄せようとする。全身の皮膚が剥がれそうに痛んだ。さらに反対側から司が腕を引いているため、腕がちぎれそうなほどにきしむ。
「ごめん、彩女。今は我慢してくれ!」
バリバリと、浴衣の一部と柔肌を少し道連れにしながら、糸が彩女の体からちぎり取られた。
彩女の口から短い悲鳴が漏れるが、すぐにそれを噛み殺して、司が掴んでいる腕とは反対の手を、美波のほうへと伸ばす。
「美波、ちゃん!」
だが、美波はなぜか呆然とその場に立ち尽くしていた。
「あ……あたし、行かなきゃ……あの蜘蛛が、呼んでるから……」
美波の目は、焦点があっていない。明らかに様子がおかしい。
「美波ちゃん!」「美波!」
司と彩女は同時に少女の名を叫んだ。
だが、美波は虚ろな目を司へと向けるだけで、動こうとはしなかった。
「あたし……何者なんだろう?」
虚ろな瞳の少女が、誰にともなく問いかける。
それに対し、司は声を振り絞って答えた。
「お前は美波だろ。クラス内でも指折りの変な女子、美波だよ!」
「あたし……生きていてもいいの?」
「なに言ってるかわからないが、いいに決まってる! 早く来るんだ!」
司は彩女の体を引き寄せて自分にしがみつかせると、美波の方へと手を伸ばし「俺のほうへ来い!」と叫んだ。
その瞬間、美波の瞳に光が灯った。
あと数秒で土蜘蛛に追いつかれるというところで、美波は司の手を掴んだ。
「道を開きます! 二人とも手を離さないで!!」
彩女は司の体にしがみついたまま、空いた手に霊力を集中させる。
創一のいる場所を探し当てた彩女は、その繋ぎ目を利用して強引に空間の切れ目をこじ開けた。
「来るな、この化け物!」
司は土蜘蛛に向けて小石を土ごと蹴り上げる。それによって、土蜘蛛がわずかに怯んだ。
動きを止めるまでは行かなかったが、それで十分だった。
司は美波と彩女を連れて、空間の裂け目をくぐり、創一の待つ現世へと戻ったのだった。
「……まさか、本当に連れ戻してくるとはな……その豪運には感嘆せざるをえない」
「ああ、俺も生きているのが不思議だよ」
浅木の減らず口に、司は息を整えながら答えた。
その横には、司の手を繋いだままの美波と、しがみついたままの彩女がいる。
彩女は傷と出血、それに蜘蛛糸の残骸が身体中にこびりついていて、見るからにボロボロだった。
「彩女ちゃん、大丈夫?」
「はい……香山くん、司さん、助かりました……本当に、ありがとうございます」
彩女は司と創一に向けて頭を下げる。
その様子をまじまじと見ていた浅木が、彩女に声をかけた。
「お前……
「え……いえ……私は白山彩女。琴音は母の名前です」
「そうか……あの阿呆どもの子か。その割には、ずいぶんとまともに育ったものだ」
「……私の両親を、ご存知なのですか?」
彩女の母親の名前は琴音というらしい。司にとってはそれも初耳だった。
たしか、十五年前の事件のときに、無貌の狩人を封印するために犠牲になり、亡くなったと聞いている。
その事件と関わりがある浅木となら、面識があってもおかしくはないだろう。
「腐れ縁だな。死者が蘇ったのかと少し驚いただけだ。よく見ればお前は琴音とは似ても似つかない。人間らしい
「そう……ですか」
遠回しに母親を侮辱しているような物言いだが、彩女は怒るでもなく少し悲しげに瞳を閉じた。
「ちょっと、あんまりアヤヤのお母さんを悪く言うのはやめてよ」
美波が頬をふくらませる。その様子を、浅木は無表情で見ていた。
「……お前が、美波か?」
「ふぇ、私の名前も知ってるの?」
「……そこのガキから聞いただけだ」
浅木は司のことを指さした。
「だから、詳しくはそいつから聞くがいい」
真実を伝えるかどうかは任せる、ということか。
司としてはもちろん、伝える気はない。
知らないほうがいい事実というものもあるのだ。美波が本当は蜘蛛の子だなんて、そんな事実は――知らないほうがいい。
司が逡巡していると、彩女が訝しげに司のことを見つめていた。
彩女には、伝えるべきかもしれない。美波の出生のことで、もし不測の事態が起きた場合、彼女の力が必要になるかもしれないからだ。
「彩女、あとで時間くれないか? 島のことでいろいろわかったから、相談したいことがある」
「はい。わかりました。……それから、美波ちゃん。少し失礼します」
「ほえ?」
彩女は言うが早いか、突然、美波の浴衣の帯をほどいて体の前部を露出させた。
いきなり、あらわになった美波の下着姿に、司は慌てて握った彼女の手を離した。
「ちょ、彩女なにやってんだ」
「は、はわわわわ――。あ、アヤヤ!?」
彩女は、はだけた浴衣から見える美波の下腹部を指さした。
そこには、握りこぶしくらいの大きさの痣があった。痣は、幾何学模様のような円形の紋様になっていた。
「これは……」
声を発したのは浅木だ。彼は今までで最も驚いた表情をしていた。
だがそれを無視して、彩女は美波に問い詰める。
「美波ちゃん、この入れ墨のような痣はいつから?」
「え、えっと……気づいたのは、大蜘蛛から逃げて少ししてからで……」
美波は的を得ない返事をするが、彩女は先ほどより真剣な表情で話を聞きながら、その痣を眺めている。深刻な表情、といってもいいかもしれない。
「これは、あの大蜘蛛と似た力を感じます……」
「土蜘蛛と!? どうして――」
「アトラク=ナクアの紋様だ」
浅木が吐き捨てるように言った。
「美波――その娘は、千里と同じ呪いを受けている」
その言葉は、司に少なからず衝撃を与えた。
だが、何も知らない美波は半裸のまま、きょとんとした表情を浮かべるだけだった。
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