第29話 魔の領域
彩女は片足を踏み出し、全身をバネにして勢いよく両手を突き出した。
霊力を込めて伸ばした手が、現し世と異界をつなぐ境目に触れる。
彩女は境界に触れた手を左右に押し広げようと力を込めた。だが、その境目はびくともせず、こじ開けるには至らない。
「祓え給い、清め給え!」
彩女は、突き出した両手に精神を集中させた。
この唱え
だから、彩女は自らの霊力を高めるためだけに、最も馴染んだ
何度も、唱え続けた。
「…………、っ!」
異界との綻びが広がる。彩女はごくりと生唾を飲んだ。
空間のねじれの余波が広がり、ひときわ感受性の強い彩女はその揺らぎに翻弄された。
平衡感覚が失われ、まるで
全身を揺さぶられるような感覚に耐えながら、彩女はそこに生じた空間の切れ目をこじ開けていく。
「も、もう少し……美波ちゃん……」
切れ目が広がる。可視化された霊力が稲光のようになって放たれる。
視界がぐらんぐらんと揺れる。
胃の底からはい上がってくるものをこらえ、怯みそうになる気持ちを叱咤しながら、彩女は叫んだ。
「あ、あああぁー!!」
切れ目が人がひとり入れるくらいのまで広がる。体の小さな彩女が通るには、十分な大きさだ。
彩女は迷わず、切れ目の中に身を投げだした。
体中を殴りつけるような衝撃を何度も受けながら、彩女は空間の境目を抜けた。
周囲の景色が変貌する。土は暗い濃紫色、空は分厚い雲が覆い、あたりには蜘蛛の巣が無数に張り巡らされていた。
まごうことなき魔の領域だった。
「ここはいったい……うぅっ」
彩女は起き上がろうとしたが、体に力が入らず四つん這いになってえずいた。
動こうとすると体中がきしむ。酔ったように視界がぐらつき、目眩も止まらない。
つながりかけている場所とはいえ、やはり空間をこじ開けるのは無理があった。
思えば、生きているだけでも幸運だったのかもしれない。もともと人が通り抜けることのできる道ではなかったのだから。
だがやはりその代償は大きく、しばらく体を休めなければ、とても動けそうになかった。
「情け、ないですね……助けに、来た……私が、これでは……」
仰向けになって喘ぎながら、彩女は自らの計画性のなさを呪った。
引くべきタイミングはいくらでもあったのに、ついムキになってしまった。
否、焦っていたのだ。美波が危険な目にあう前に救い出さなくてはならないと。
ここに長居するのは危険だろうか。十中八九、危険だろう。
だが、少しでも気を抜くと意識を失いそうで、満足に動ける状態ではない。
その上、なにか邪悪な力が近づいている気配もした。
彩女がいまだ朦朧とする頭で必死に打開策を考えていると、頭上から聞き慣れた声が聞こえた。
「……アヤヤ?」
彩女ははっと顔を上げた。
自分のことをそう呼ぶ人物は、そう多くない。
「美、波……ちゃん?」
「アヤヤ、どうしたの? 何があったの? どうしてここに?」
「わ、たし、は……」
彩女が答えるよりも早く、頭上にいる亜麻色の髪の少女がわっと泣き出して抱きついてきた。
「こ、怖かった……ひとりで怖かったよぉ……」
「…………っ」
彩女は、動くのを拒む体に鞭を打ちながら体を起こし、そっと美波の背中に腕を回した。
彼女を見つけることができた。無茶をしてまでここに来た意味は、確かにあったのだ。自らの泣き出しそう心に、彩女は言い聞かせた。
温かな安堵が体に染み渡る。同時に、腹の底から使命感が湧き上がってきた。
彼女を、必ずもとの世界に連れて帰らないと。
「美波ちゃん……とに、かく……もとの世界に、帰りましょう」
「え、戻れるの?」
「――戻れます。その、方法があります」
彩女は少しだけ言葉を濁した。
たしかに戻れる方法はある。だが、それは確実ではない。
空間の綻びの箇所に目星をつけた上で、先ほどと同じようにもう一度それをこじ開けて抜けなくてはならない。
その上、今の彩女は心身ともに疲弊しすぎていた。
これでは扱える霊力も少なく、その力は小さい。
今の状態で、空間を無理やり開くような荒業ができるだろうか。それに彩女の体が耐えられるのか。
不安材料を上げるとキリがなく、絶望的と言っていい。だが、やらなくてはならない。
彩女は自らを叱咤して、痛みできしむ体を起こす。
「大丈夫? アヤヤ、つらそうだよ……」
「はい……心配かけてすみません。平気です」
「まって。肩貸すね……よいしょ」
美波は彩女の脇に手を入れて、体を支えた。
彩女は嬉しさと申し訳なさが半々に混ざった顔で、照れながら曖昧な笑みを浮かべた。
「美波ちゃん……すみません。えっと……ありがとう……」
「なに言ってるの。アヤヤは、あたしを助けに来てくれたんでしょ?」
美波はうっすらと涙を浮かべた瞳を彩女のほうへ向け、「こっちこそ、ありがとうだよ!」と言ってあははと笑った。
その明るく気丈な声を聞いた彩女は、美波が無事で本当によかったと改めて思った。
その時――遠くからぎちぎちという何か粘り気のあるものが擦り合わされるような不快な音が耳に届いた。
彩女ははっと口を閉ざして聞き耳を立てる。
「待って……何か妙な音が聞こえます」
「え、も、もしかして、アイツが……」
「アイツとは?」
美波は青ざめた顔をした。
「…………蜘蛛だよ」
「蜘蛛?」
「ここにはね、人よりも大きな蜘蛛がいるの。このままじゃ、あたしたち食べられて――」
ぎちぎちという奇妙な音がだんだんと大きくなり、土を掘るような音も混ざる。
彩女は、音のする方向に強い邪気を感じた。何かが近づいて来ている。
「こ、これはいったい……」
「アヤヤ、逃げよう!」
美波は彩女を支えたまま走り出した。
背後に、奇怪な音の正体が姿を現す。
たしかに蜘蛛だ。遠近感を狂わせるほどの大きさ。高さだけで人の背丈ほどはありそうなそれが、土煙を立てながら、まるで自動車のような速さでこちらに向かって来ていた。
「先に行ってください! 私は足手まといです!」
彩女は必死に叫んだ。ここで自分が足枷になって、あの魔物に追いつかれるわけにはいかない。
だが彩女の想いとは裏腹に、美波はかぶりを振って立ち止まり、屈み込んだ。
「乗って!」
「み、美波ちゃん?」
「――いいからっ!」
美波に後ろ手でももを持ち上げられて、彩女は小さく悲鳴を上げた。
体勢を崩した彩女は思わず美波の肩にしがみつき、おぶさる形になる。
「しっかりつかまってて!」
「でも――」
「置いていけるわけないでしょ?」
美波は彩女を背負ったまま、濃紫色の地面を蹴って走り出した。
ぐんと体が後ろに引っ張られるような感覚に襲われ、彩女は肩をつかむ手の力を強める。
人ひとりを担いでいるとは思えないほどの速度で、美波は魔の領域を駆けていく。彼女の身体能力の高さは体育の授業などで見てはいたが、その力強さに彩女は改めて驚嘆した。
「あそこの穴に入るよ!」
前方の岸壁にある洞穴を示して美波は言った。
「――わ、わかりました!」
穴は美波や彩女なら屈めばなんとか入れるくらいの大きさで、大蜘蛛の体よりは小さい。ここに逃げ込めば、大蜘蛛に捕まることなくやり過ごせるかもしれない。
美波は彩女をおろして洞穴の中に入れると、自らもそこへ潜り込んだ。
その直後、洞穴の入り口に大蜘蛛が衝突した。土煙とともに轟音が鳴り響く。
間近で見る大蜘蛛の腹はおぞましく、短い毛が生え、八本の脚の付け根をひっきりなしに動かしている。彩女は不快感に口元を抑えた。
だが大蜘蛛は洞穴に入ることは叶わず、諦めたようにぎちぎちという音を鳴らしながらその場を去っていった。
「い、今のはいったい……」
「わからない……さっきもアイツに襲われて、この穴に逃げ込んだんだ」
彩女はぶるりと震える体を抑えた。
悪霊などとはわけが違う。あれは妖怪。あるいは、魔導書に書かれていたような魔物だ。
疲労と無力感が、不安や恐怖となって心を蝕んでいくのを彩女は感じた。
「あたしたち、帰れるよね? アヤヤ……」
「はい。必ず……ですが……」
彩女は、不安げな表情を見せる美波を励ましたあと、緊張していた体を緩めて壁に背中を預ける。
「あの蜘蛛が遠くに行くまでの間、少しだけ……休ませてください」
万全とまではいかなくても、体調を整えなくてはとてもじゃないが対処できる状況ではない。
彩女は、ほんの少し弱音を吐いてみることにした。
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