第26話 夕焼け


 美波の祖父母の切り盛りしている民宿”神子元みこもと亭”は、屋根に瓦のある立派な和風の建物だった。

 築年数がかなり経ってそうだが、よく手入れが行き届いていて居心地のいい宿だ。


 神子元亭に戻った司は一度自分の部屋に荷物を下ろした。

 その後、部屋にそなえつけられていた浴衣に袖を通すと、彩女と美波の様子を見に女子の部屋へ向かった。

 着替え中にばったりなんてことになったら困るので、美波たちの部屋の引き戸の前で立ち止まり、軽くノックをする。


「おーい、入っていいか?」

「はーい。どうぞ」


 司が声をかけると、中から美波の爽やかな声が答えた。

 引き戸を開けると、浴衣姿の美波の笑顔が出迎えてくれた。その奥には、敷かれた布団の上で彩女がたおやかに正座していた。


「いらっしゃい、司さん。先程はすみませんでした……」

「いや。それより、体のほうは大丈夫なのか?」

「はい。一時的なもののようです。お騒がせしました」


 彩女はそう言って座礼をするが、その際にちらりと上目遣いに司のほうを見た。

 わかってはいることだが、言葉にしたことだけが全てではないということだろう。

 美波には悪いが、ここは彩女と内密に話す必要があった。


「彩女、ちょっと二人きりで話したいんだが、付き合ってもらえるか?」


 司がそう口にすると、美波が「え?」と口をぽかんと開けて驚いた表情を浮かべた。


「わかりました。参りましょう」

「――え”?」

「サンキュ。ごめん美波、少し外に出てくる」

「え、ちょ、ちょっと!」


 見ると、美波は泣きそうな顔で司たちのことを見ていた。

 そこまでのことだろうかと司が首をかしげていると、彩女がはっと口元に手を当てた。


「――司さん」

「なんだ?」

「そ、その……このあと、美波ちゃんと外の散歩にでも行ってみてはどうでしょうか?」

「え、どうして――」


 そこで言葉を止めて、司は口を閉じた。

 彩女が意味もなくそんなことを言うとは考えづらい。きっと、これも必要なことなのだろう。

 司は力強く首肯した。


「わかった。任せておけ」

「は、え、アヤヤ、司くん――?」

「はい。お願いします」

「ああ。そういうことだから美波、あとで時間いいか?」


 司が美波に目を向けてたずねる。

 美波は赤くなって言葉をつまらせたまま、コクコクと何度も首を縦にふった。


「ありがとうございます――それでは、行きましょう。司さん……」


 先に部屋を出て振り向いた彩女は、少し寂しそうな顔をしていた。




 民宿の外に出た司と彩女は、近場にあった石段に二人並んで腰掛けた。

 海からそう遠くない高台に、神子元亭はある。陽はすでに傾き、並んだ草木の向こうを覗くと、夕焼けに赤く染まった海が見えた。

 夕食までは、まだ時間がある。何があったかの情報共有くらいはできるだろう。


「それで、彩女――」

「先ほどの件ですね」


 割り込んで言った彩女のセリフに、司は「ああ」と肯定した。


「何があった?」

「それが――」


 彩女は申し訳なさそうに眉根を寄せた。


「わからなかった……のです」

「わからなかった? 彩女にも、わからないのか……」

「はい。……というより、というのが、その時の状況でした」


 得心が行った。つまり、いつもの幽霊や怪奇現象とは違う、彩女も経験したことがないことが起きていたのだ。

 わからないもの、というのはそれだけで危険だと言える。


「……具体的には、どんな感じだったんだ?」


 司の問いに、彩女は真剣な面持ちで瞳を閉じた。

 あのときの状況をシミュレートしているのだろう。

 彼女は、一つ一つぽつぽつと、言葉を選ぶように語り始める。


「最初に感じたのは……軽い目眩でした。

 鳥居をくぐったとき、体の中心に向かって気が圧迫されていくような感じを受けました。

 その次は、平衡感覚を失うような強い目眩でした。

 同時に、二つの景色がときに混ざり合い、ときに交互に見えてくるような不可解な感覚に見舞われて、視覚的にも酔ってしまったようです」

「二つの、景色……」


 司は、二つの景色が交互に混ざって見えてくるような視界を想像してみた。

 例えば映像の見えるゴーグルをかぶり、それぞれの目に違う映像を映す。すると、その二つの映像を頭が無理に判別しようとして、乗り物酔いのような状態になってしまった。そういうことだろうか。

 何にせよ、そのような視覚的な異常から、目眩などの身体的な不調につながるということは想像に難くない。


「現実の景色と、もう一つ……暗い闇の中に、無数の蜘蛛の巣が貼られた景色。

 それらが混ざり合って、ときにノイズを発していたのです」

「……想像しただけで、くらくらしてくるな」

「それでも、悪霊などの危険なものの気配はしなかったので、止めることはしませんでした。

 ……でも、あの祠――」


 彩女がそこで一呼吸おき、ため息をつくように大きく息を吐いた。

 彼女の様子に、自然と司も姿勢を正す。


「あの祠を覆うように、まるで……ああ、まるで蟲が這うようなもやが見えました。

 その時、急に体の力が抜けていくような感覚に襲われ……

 美波ちゃんが祠に近づいたときに、その蟲たちが美波ちゃんを取り囲んで行って……私は慌てて、美波ちゃんをその祠から遠ざけました」


 そのあとは、動く気力もなくなってしまい、司の手を借りながら来た道を戻った――ということらしい。


「そんなことが……でも、みんな無事でよかった。それから、その蟲は?」

「私にも取り付いてきたのですが、特に危害などを加えられていません。

 それに、祠を離れたらそれ以上ついてくることもありませんでした」

「そうか。よかった……」


 司は安堵の息を吐いた。そんな得体の知れないものが彩女や美波、創一に取り憑いているなんてぞっとする。


「――以上が、ことのあらましです。私はこれから、その祠の件について調べようと思います。

 それで、その、司さん……」

「ああ。俺のほうでも調査してみるよ。まあ、俺なんかでどこまで力になれるかわからないけど」

「ありがとうございます。すごく……心強いです」


 彩女の心底安堵したような笑みに、司は気恥ずかしくなって彼女のほうに向けていた顔を正面に戻した。

 夕焼けと水平線が眼下に広がる。


「と、とにかく、その鳥居の道には近づかないほうがよさそうだな」

「はい。特に、鳥居を横切ってはいけません」

「ああ、それなんだけど、どういう意味があるんだ?」

「それは――」


 彩女はどう言ったものか考えるようにおとがいに細い指を当てた。

 だが、結局上手い言葉を思いつかなかったようで、かぶりを振りながら答えた。


とは、そういうものだからです」

「そっか。彩女がそう言うなら……そうなんだろうな」

「うまく言えなくて、すみません」


 二人はしばし沈黙したあと、どちらともなく微笑みを浮かべた。

 危険な怪異をともに生き延び、秘密を共有した者どうしの、心地よい信頼を感じた。

 ふと彩女が顔を上げて、夕陽を眺める。

 風が彼女の長い黒髪を揺らした。


「こうしていると……なんだか、あの夜を思い出します」

「……俺が、はじめて彩女の家に泊まったときの?」

「は、はい……」


 いろいろ思い出して恥ずかしくなったのか、彩女は照れたように頬を染めて声を震わせる。


「その……よければ、また来てください」

「ああ、また遊びに行きたい。そうだ、今度はみんなでお邪魔してもいいかな?」

「みんなで、ですか……?」


 彩女ははっと驚いた表情を浮かべたあと、心底嬉しそうに穏やかな微笑みを浮かべた。


「はい。よろしければ、ぜひ……」

「もちろん。そのためには何事もなく、無事にみんなで帰ることからだな」


 司は石段から立ち上がり、ぐっと伸びをした。


「そろそろ夕飯の時間だから、戻ろう」

「そうですね。……ありがとうございます、司さん」


 彩女もゆったりとした動作で砂を払いながら、石段から立ち上がる。

 それから、小声でつぶやいた。


「……司さんは、本当に……私などにはもったいない殿方です」

「ん、なんか言った?」

「いいえ。美波ちゃんとのお散歩、楽しんできてくださいね」

「……ん? ああ。そう言われると、なんか照れるな」


 司は苦笑しながら頭をかいた。

 その仕草を、彩女はまぶしそうな、だけどどこか幸せそうな顔で見つめていた。

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