第20話 神話的怪異
不敵に笑う玲二に対して、彩女は足を一歩踏み出した。
「あなただったのですね……無貌の狩人の封印を解いたのは」
彩女の言葉に、玲二は「へぇ」と感嘆の声を漏らした。
「よくわかったな、白山。コソコソと犬みたいにしつこく嗅ぎ回っていただけのことはある」
「玲二。ふざけてないで、本当のことを話せ!」
玲二の言動がやけに
「本当のこと? 白山の言う通り、無貌の狩人の封印を解いたのは俺だ。その他に何があるんだ?」
「どうしてそんなことを……」
「選ばれたからさ」
「――選ばれた?」
玲二の言がだんだんと熱を帯びていく。瞳孔が開いたその瞳からは、確かな狂気の色が読み取れた。
「無貌の狩人にだよ。ヤツの封印を解くことを条件に、俺は力を授かったんだ。
たとえば、こんな――」
玲二は司たちに向けて手のひらをかかげ、なにか呪文のようなものを唱え始める。
すると、周囲に黒い染みのような影が無数に生まれ、司たちを取り囲んだ。
影たちは少しずつ形を帯びていく。人の形だ。
その禍々しい気配は、大きさこそ小さいが、体育倉庫で見た人影と酷似していた。
彩女が慌てて玲二に向かって走りながら叫ぶ。
「いけない! 彼を止めないとっ!」
「無駄だよ」
玲二が手のひらを彩女へと向ける。その瞬間、まるで車にでもはねられたかのように、彩女の体が後方へと弾き飛ばされた。
「がっ……かはっ。なに、が……うぅ」
彩女はうずくまって悶絶する。それを見た司は一瞬彼女のほうへ駆け寄ろうとしたが、すぐに考えを改めて謎の攻撃をした玲二のもとへと走った。
今は玲二をそのままにしておくことのほうが危険だ。
「玲二、何をしたんだ!?」
詰め寄る司に対し、玲二は冷ややかに答える。
「ちょっとした魔術ってやつさ。俺は魔道士になったんだ。
平凡な人間のお前たちとは違う」
「魔道士……お前は、そんなものになってどうするんだ!?」
「どうするってこともないさ。ただなってみたかっただけだ。お前らみたいに平凡な人間のままでいるなんて、まっぴらだよ」
勝手な言い分だと思った。同時に、司はなんとなく理解した。玲二はその平凡な人間のままでいることを嫌い、こんな馬鹿げたことをしたのではないだろうか。
玲二の手記にも、パソコンで見た記録にも、特別な存在になることを望む旨が書かれていた。
だとしたら、なんて身勝手な理由だろうか。
玲二が手のひらを前へ、司のほうへと向ける。
その時、背後に回り込んだ大輔が玲二に掴みかかった。
「玲二、やめろって。お前どうしちゃったんだよ」
玲二は振り向いて、掴みかかる大輔に暗い瞳を見せた。
「悪いな大輔……俺はこういうやつなんだ。
「蔑んだりなんかしない! なあ、玲二ィ、目を覚ましてくれよ」
大輔の必死の説得にも玲二は応じず「すまん」と言ったのちに、また呪文のようなものを口にし始めた。
それを聞いて、背後にいた彩女が苦痛に呻きながら叫んだ。
「う、あぁ……っ、司さん、荒木くん! 止めてください……急いで……斉藤くんの、口をふさいで……呪文を止めて……!」
彩女の言葉を聞いた司は、急いで大輔と一緒に玲二を抑え込み、手のひらを押し付けて口をふさいだ。
玲二は振り払おうと暴れるが、大輔と司の二人がかりの力の前では手も足も出なかった。
それでもわずかな隙をつき、司の手を払って叫び声を上げる。
「くっそ。お前らなんなんだ! お前ら――なんなんだよっ!!」
玲二も必死なのか、凄まじい力で拘束を振りほどこうとする。
その時、聞き覚えのある甲高い足音が聴こえた。
――こつん。
玲二の背後、司から見て正面の空間に歪みが生じる。
こつん。こつん。
「あ、あ、無貌の狩人だ……。無貌の狩人が、やっと俺を……」
瞬間、空間の歪みから大きな
血が飛び散り、辺りにぴちゃりと降り注ぐ。隣にいた大輔は鮮血をもろに浴び、端正な顔を赤く染めていた。
「ぐ、ガハッ……ああ……ついに……」
玲二は恍惚とした表情で、棘に貫かれた自らの胸を見つめる。
大輔と司が、それぞれ声を上げた。
「あ、嘘、だろ……」
「玲二ぃぃーー!!」
ぐったりと力を失い、背を貫く棘に体重を預ける玲二。そんな彼を、司は抱くようにして支えた。
「玲二、大丈夫か? しっかりしろ!」
「ああ、心配するな……これで俺も、無貌の狩人になれる」
「無貌の……狩人に……?」
「そう、だ」
くくっと玲二は喉から声を出して笑う。拍子に、口元からごぽりと真っ赤な液体が流れた。
「魔道士になって、グラーキの棘に刺されることで、俺も無貌の狩人に……」
玲二がそう言った途端に、ぼとり、と指先がこぼれるように崩れ落ちた。
「え……なん、だ、これ……」
玲二は指が抜け落ちた自らの手を眺めながら、呆然とつぶやく。
続いて腕が、足が、ボロボロと崩れるようにちぎれ落ちていく。
「な、なぜだ……俺は、この棘に刺されることで完全無欠の存在になるはずじゃないのか……?」
手足がもげ、太ももや二の腕が崩れてもなお体の崩壊は止まらず、体の一部が服を残してボロボロと崩れ去り、さらに顔までも干からびた地面のようにヒビが入っていく。
「いやだ、やめてくれ……いやだ、やめろ、いやだ――」
「玲二!!」
司が叫ぶ。だが、崩壊は止まらずについに全身が干からびてバラバラに崩れ落ちた。
そして、最後には玲二を貫いていた棘だけを残して、まるで灰の積もった灰皿をひっくり返したように、干からびた残骸が辺りに広がった。その残骸は、もとは一人の人間だったものだ。
「あ、ああ……そんな……玲二が……」
大輔が瞳に涙を浮かべながら、呆然とつぶやく。
彩女はその様子を見て、まるで自らを責めるように唇を噛みながらうつむいた。
こつん。
甲高い足音が、また聴こえた。
大きな棘が突き出ている空間の歪みから、全身に灰色のボロ布をまとった異形が姿をあらわす。
「……無貌の……狩人っ!」
司が掴みかかろうとしたところを、白く細い手が止めた。
振り向くと、傷をかばいながら司の腕を握る彩女がいた。
「いったん……引きましょう。正面から挑んではだめです」
彩女の言葉に、司はぎりっと歯ぎしりをしながらうなずいた。
横を見ると、大輔が上の空でなにかをブツブツとつぶやいている。
「逃げるぞ。大輔!」
「ドロが……ドロみたいな化物が……玲二を……」
「ああ、くそ。しっかりしろ!!」
司は大輔の手を引いて走り出した。
大輔は、まるで意思のない操り人形のように、フラフラと手を引かれるままについてくる。
無貌の狩人がボウガンを彩女のほうへと向ける。
司が反射的に彩女の方へと走り寄り、突き飛ばす。遅れて、かしゅん、というボウガンの発射音が洞窟内にやけに大きく響いた。
「司さんっ!」
「気にするな。早く行け!」
ボウガンの矢がかすめてできた脇腹の傷を抑えながら、司は彩女に叫んだ。
こつん、こつんと靴音を鳴らしながら無貌の狩人が迫る。
彩女が門の前にたどり着くと、司に向かって手を伸ばした。
「司さん、こちらに!」
「わかった!」
彩女の手を、司ががっちりと力強く掴む。
手をつないだ二人は、大輔を引き連れて門へと飛び込んだ。
目の前の景色がぐにゃぐにゃと歪み、平衡感覚が崩れて目眩がする。
ゴポゴポと気泡がはじけるような音が響き、それが鳴り止む頃、辺りの景色にはっきりとした輪郭が戻る。
三人は旧体育倉庫へと戻ってきていた。
彩女が背負ってきた太いロープのようなものを床に起き、それに一つずつ札を貼り付けていく作業をしながら司に向けて口早に言う。
「今から炎の五芒星の術を準備するので、手伝ってもらえますか?」
「それは……しめ縄?」
「はい。門の向こうにあった斉藤くんの荷物の中から見つかりました」
「……そうか」
あの状況でよくしめ縄を見つけ出せたものだと、司は感心すると同時に、彩女に感謝をした。
司は玲二の最期の姿を思い出す。その悲惨さに、まるで胸に針を刺されたような痛みを感じた。
その痛みの錯覚が消えないまま、司は彩女に
空間の歪みが、大きく脈動を始める。門の向こうから、無貌の狩人のボロボロに穢れた包帯に包まれた顔が覗く。
「今です! 門をしめ縄で囲んで!」
「わかった!」
彩女はどうやら、門から無貌の狩人が出てくるときの一瞬の隙を狙って、なんらかの儀式を行おうとしているらしい。それを直感で理解した司は、しめ縄を持って無貌の狩人の背中側へと回り込んだ。
振り向いた無貌の狩人が、ボロ布に包まれた無機質な手を司に向ける。
司は身をかがめてその手をギリギリで回避し、しめ縄が無貌の狩人の周囲を取り囲むように配置した。
それを確認した彩女は、瞳を閉じて精神を集中させ、祈祷を始める。
「――
彩女の祈祷に呼応するように、しめ縄につけられた炎の五芒星の札が赤い光を帯びる。
「――諸々の
霊力のこもった青い炎が、札からしめ縄を伝い、伝わり、伝って、門を、そして門の中の無貌の狩人を包み込んで行く。
「――祓え給い――清め給え――
彩女の祈祷が完成する。
浄化の最終手段――神聖な炎により穢れを焼き尽くす儀式。
五芒星の札が張り巡らされたしめ縄の中心、門の狭間にいる無貌の狩人の体が炎に包まれる。
全身を覆ったボロ布と包帯に青い炎が燃え移り、腰の辺りまで炎が燃え広がった。
――その時。
全身を覆った包帯にほころびが生じ、隙間から目が、全身に点在する無数の眼球が、顔をのぞかせた。
燃え広がる体から、嘲るような鳴き声が何重にもなって響き渡る。
テケリ・リ
テケリ・リ
テケリ・リ
テケリ・リ テケリ・リ
テケリ・リ
テケリ・リ テケリ・リ テケリ・リ
「この声は……この姿は……いったい……」
司はかすれた声でつぶやいた。彩女も、大輔も、呆然と燃え尽きていく異形の化物を眺めていることしかできなかった。
ぎろり、と全身に点在する無数の眼球がこちらを見つめる。
無貌の狩人は司たち三人の様子に満足したように、炎が燃え移った頭部の、口元の布をめくった。
ボロ布の下から、三日月型の大きな口腔が現れる。中には、無数の犬歯。
その口が動き、重苦しい声を発した。
テケリ・リ
先ほどまでの嘲るようなさえずりとは違う、低く重たい”言葉”だった。
無貌の狩人の口がぐちゃぐちゃと粘体をこね回すような不快な音を立てながら、言葉を紡ぐ。
ふんぐるい むぐるうなふ
違う。言葉ではない。ただの空気の振動だ。
その振動を耳が捉えているだけ。生物としての反応。脳がそう判別する。
いあ いあ んんぐあ んんがい がい!
そう、認識するしかないのだ。
この意思を持った空気の振動を、人は名状・形容するすべを持っていない。
いあ いあ んがい ん・やあ ん・やあ
しょごぐ ふたぐん
ああ、名前を口にしてしまった。
それは名前を口にしてしまった。
深淵に足を踏み入れた。聞くものは深遠に足を踏み入れた。読むものは深淵に足を踏み入れた。
司たちも、皆、もう戻ることはできない。
いあ いあ い・はあ い・にゃあい・にやあ
んがあ んんがい わふる ふたぐん
玉虫色の気泡が満ちる。玉虫色の霧が広がる。
無貌の狩人の体が、燃え尽きていく。
残るはその不快な空気の振動を起こしている頭だけだ。
燃えつきろ――早く、早く燃えつきろ。
だが、もう遅かった。
それは始まった。
よぐ・そとおす よぐ・そとおす
いあ いあ よぐ・そとおす
おさだごわあ!
死者を塩に。
最期の瞬間、残った口が笑みを浮かべた。そのように見えた――。
「あ、あ、あ、あぁぁぁぁァァァ――――!!」
彩女が、突如甲高い叫び声を上げ、うずくまった。
司は彼女の様子に怯みつつも、慌てて駆け寄った。
「おい、どうしたんだ? 大丈夫か? おい!」
司が背を擦ると、彩女は上体を起こし、虚ろな瞳で天を仰いだ。
「ああ、こんな……ありえない……あっては行けない」
疑問の言葉を司が言いかけた瞬間、彩女は目を見開き「来る」と叫んだ。
「いやだ。むりだよ……わたしたちは……ああ、そんな……。
あ、あ、イヤァァァァ――!」
ぶんぶんと頭を振り、涙を撒き散らしながら悶える。
「頼む、落ち着いてくれ」と言って司は彩女の体を強く抱いた。だが、彩女はうわ言のようなうめき声を何度か発した後、意識を手放してしまった。
「彩女、おい、しっかりしろ……しっかりしてくれよ……」
司は自分でも驚くほど情けない声で、情けない言葉を吐いた。
無貌の狩人は目の前で燃え尽きた。もう怪異の元凶はなくなったはず。
だがこの異様な気配と、消える間際の無貌の狩人の様子に、言いようのない不安を司は抑えきれなかった。
もしかしたら、今までは彩女という頼もしく聡明な少女がいたから、司も冷静でいられたのかもしれない。彼女を守ろうとしていた反面で、少なからずそういう部分があったはずだ。
「そうだ、大輔、大輔は!?」
司は気を失った彩女を抱きながら周囲を見回し、もう一人の級友の姿を探した。
今はとにかく、誰かに頼りたかった。
部屋の入口に、大輔の姿はあった。
大輔はふらふらと外に出ようとしていた。
「――大輔?」
司が声をかけると、大輔はゆらりと緩慢な動作で振り返った。
「ああ、司……玲二が、玲二が呼んでるんだ……行かなきゃ……校庭に……」
それを聞いて、司は胸が締め付けられた。
そうだ、大輔は大切な親友を失ったんだ。そのショックは大きいだろう。
司は涙をこらえつつ彩女を背負うと、大輔の後に続いた。
「そうだな、今はとにかくここから――」
そう口にして部屋を出ようとした瞬間、大きな轟音と地響きが巻き起こった。
「なんだ、くそ、早くここから出よう!」
司が叫んだ。だが、大輔は上の空だ。
「ああ、呼んでる……行かなきゃ……」
「わかったから……っ。行くぞ大輔!」
彩女を背負い大輔を誘導しながら、地響きの中、司は体育館の外へと走った。
体育館から出て、校庭へと向かった。
そして、恐るべき神話的怪異を目撃した。
それは、校庭の中央に巨大な地割れを作り、天へと上るように身を伸ばしていた。
蒸気を上げる
学校全体を巨大な門にして、時空を司る王のもと現れた大いなる存在。
いや、現れたというのは正確ではない。
身じろぎしたのだ。
ただの身じろぎにすぎない。
すべての生物の起源である『自存する源』は、人の行う、行いうるあらゆる事象に興味などない。歯牙にもかけない。
この星に生きるすべてを生み出した存在、この宇宙に起こるあらゆる事象を記した無数の石版。
これはただの一端を垣間見たにすぎない。
身じろぎをする際に、門からはみ出た一部が見えているだけだ。
だが、司にとってのあらゆる常識を、観念を打ち砕くには十分だった。
「は、はは……こんな……こんなのが……あるっていうのか……?」
司の口から、自然と乾いた笑い声が漏れる。
隣から足音が聴こえ、司はそちらのほうへ顔を向けた。
大輔が、その巨大な存在に歩み寄っている姿が目に入った。
「ああ、呼んでる……呼んでいるんだ……」
大輔が無感情な表情に、恍惚な声色を乗せてつぶやく。
司は現実感を帯びない思考のまま、大輔を行かせてはならないと思い、呼び止めた。
「やめろ……大輔、行くな……」
「呼んでいる……行かなくちゃ……」
そのどちらの声にも、力がない。
司には大輔の歩みを止めるために動く気力もない。
「大輔、行くな……」
司はなんとかそれだけを口にした。
だが、荒木大輔は――触れてしまった。
自存する源の持つ、すべてを記した、その石版に。
「あ、ぎあぁぁぁぁあああーー!! ああアー、玲二ィィっぃ――!!」
「大輔……」
そのとき、その瞬間、失われた。
司が思い描いていた、友と過ごす輝かしい青春が。
人の智を超えた存在により、あまりにもあっけなく。
身じろぎが、終わる。
自存する源が、地割れの中へとその四肢を引っ込める。
現れたときと同じように唐突に、その存在は門の向こうへと去っていった。
門が閉じ、地割れも同時に閉じる。
あとに残ったのは、ヒビ割れた校庭だけだった。
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