第17話 彼の日記


「おはようございます。司さん」


 早朝、第一に聞いたセリフはそれだった。

 目覚めた司が寝ぼけ眼のまま居間まで行って目にしたのは、エプロン姿の、それも襦袢の上にエプロンというなんともマニアックな姿の彩女が、朝食の皿を持って歩いているところだった。


「あの、彩女……」

「お食事の準備ができています。どうぞこちらに座ってください」


 その時ちょうど、最後の皿を並べ終えた彩女が、首元にかかったエプロンの紐を解いてテーブルにつくところだった。

 向かい側に敷かれた座布団を勧められた司は、いろいろ言いたいことがあったがそれをこらえて席についた。


「ああ、ありがとう彩女」


 司は口元をひくひくと震わせた。

 先ほどの破壊力の高いエプロン姿のあとに、このいかにもにがそうな食事である。頭の中にいろいろな言葉が浮かんで、結局声として発せられなかった。




 司と彩女の二人は制服に着替え、神社をあとにした。

 日が出ている時間とはいえ無貌の狩人に襲われる可能性があるため、二人は周囲に気を配りながら慎重に進む。


 二人の着ている制服はどうしたかというと、司の方はそれほど損傷がひどくなかったため、彩女が気を利かせてドロはたいてアイロンがけをしてくれていた。

 対して彩女の制服はひどい有様になっており、予備の冬服は持っていなかったため、夏服のセーラーを着ている。

 だが彼女にとって、細い体にこの薄着では山中の朝の冷気はこたえるようで、しきりに両腕をさすりながら震えている。


「大丈夫か、彩女?」


 司が何気なく声をかけると、彩女は寒さに堪えるように目をつむった。


「はい。平気です。ご心配をかけてすみません」


 彩女はそう言うと、深く呼吸をして気合を入れ直す。

 精神統一をした彩女は、震えも収まりシャキッとした姿勢でもう一度歩き始めた。


「……これも、修行です」

「……さいで」


 寒さで唇を青くしながらも凛とした態度で言い張る彩女。

 司はため息をついて、自らの上着を彩女の肩にかぶせた。

 季節外れの夏服を着ている少女は、驚いたように目を見開いた。


「え、司さん、これ……」

「着てなよ。でもなんか恥ずいから、学校の裏門に近づいたら返してくれ」

「……。……はい」


 彩女はぼーっとほうけた表情で司の制服の襟に顔をうずめた。


「そういえばさ。ずっと気になっていたんだけど、彩女の親父さんはどうしているんだ?」

「……え?」


 心ここにあらずという体で返事をした彩女だったが、司の質問を理解してすぐに姿勢を正した。


「私の父、ですか?」

「ああ。ずっと家にいなかったけど、どうしたのかなって」

「出張中です」

「出張?」

「神職としての仕事があると言っていました」


 彩女はさらっと言った。父親の話になると若干、刺々とげとげしくなる。その辺は彼女もクラスの他の女子と変わりなかった。

 神主にもいろいろあるんだな、と納得しつつも、あんな広い屋敷に娘を放り出して出張に行くのも放任すぎるだろうと司は微妙な気持ちになった。


「なあ、いくら仕事だからってそれ酷くないか?」

「そうでしょうか? 私は、あの人以外の父親を知らないので。ただ……」


 そこで彩女は言葉を切り、思案に暮れた。その先を言うべきかどうか悩んでいるのだろう。

 こういう生真面目なところが、彼女の魅力の一つだと司は思う。


 やがて彩女は一つうなずくと、話の続きを語り始めた。


「父さんが……いえ、父が出張することになったのは、私がこの学校への進学が決まったすぐあとでした」

「それと関係があるかもしれないって?」

「ええ。私のわがままのせいで、何か無理をさせてしまっているのかもしれません」

「考えすぎだ」


 司はそう言い切ったが、心の中では、なんとなく関連はあるのだろうなと感じていた。

 子のことを気にかけない親など、そうはいないのだ。




 学校についた司と彩女の二人は、恥ずかしいという理由から、できるだけ無関係なふりをして教室に入るという方向で、意見が一致した。

 心配した無貌の狩人の襲撃もなく、学校の敷地内は、一見するといつもと変わらない風景が広がっていた。


 少々拍子抜けしながら教室に入ると、早速、立川が挨拶をしてきた。


「お、黒河じゃん。おはよー……あら?」


 立川は司に声をかけたあと、彩女のほうへ目を向けて訝しんだ。


「アンタたち、いつの間にそんなに仲良くなったの?」

「――はい?」


 司がおどけた調子でそう返すと、立川は呆れた表情でため息をついた。


「まったくアンタは……美波という可愛らしい美少女がいるっていうのに」

「は。なんで美波が関係あるんだよ」


 そんな二人のやり取りに、彩女は居心地が悪そうに唇を引き結んでいる。


「なあ、彩……白山もなんか言ってくれよ」

「え、えっと」


 彩女が険しい表情でぎゅっと眉間にシワを寄せる。彼女のこの表情は、困っているときの顔だ。

 だが――


「なんで、私が……」


 そう言うと、彩女はつんとそっぽを向いて歩き去ってしまった。

 照れ隠しだということはわかるが、昨日までの距離感に戻ってしまったようで少し寂しかった。


「あんまり、からかうなよ立川」

「そっちが悪いのよ。それにしても、アンタがこんな遅い時間に来るなんて珍しいわね。それに」


 ちらっと立川が司の足元に目を向ける。


「なんでそんなボロボロなわけ?」


 口調は責めているようだが、表情は司のことを心配しているようだった。

 上着の腕の部分とズボンの太もものあたりには、無貌の狩人のボウガンの矢がかすめて破けた跡がある。

 だがまさか矢で撃たれたとか言うわけにもいかず、司はどうごまかしたものかと思案した。すると、立川がやれやれといったふうに肩をすくめる。


「ま、アンタのことだから木登りでもしてて、枝にでも引っかかったんでしょ」

「いや、なんでそうな――」

「違うの?」

「――いや、そんなとこだ」


 立川の強い口調に、司は思わず肯定してしまった。

 だが、おかげで助かったのは確かだ。何かあったことには気づいているのだろうが、彼女はあえて追求しないでいてくれているのだろう。


「ところでさ、アンタ荒木くん知らない?」

「大輔? さ、さあ……」


 荒木という名前を聞いた瞬間、司はぞっとした。

 荒木――大輔と玲二の二人は、昨日無貌の狩人と遭遇したきり行方知れずなのだ。

 そしてまだ教室にいない、朝練のための運動着に着替えた様子もないとなると、最悪の状況も考えられる。


 そうやって司が二人の身を案じていると、廊下の方から美波が駆け寄ってきた。


「あ、司くん!」

「よぅ、美波」

「あ、ぅ、お、おはよう司くん。今日もよろしく―—じゃなくて、そんなことより」


 その後も、わたわたと慌てるだけで、美波からは何があったかの説明がろくに出てこない。

 司と立川でなんとか彼女をなだめて説明をさせる。


「あ、あのね。司くん、あのね……」

「ああ、聞いてるよ」

「あのね、大輔くんがね、見つかったの」


 どきりと司の心臓が跳ね上がる。


「大輔が見つかった……どこで?」

「うん。トイレの中!」


 美波が青い顔をして言った。


「大輔くん、トイレの中で一晩中うずくまってたんだって!」




 美波からの知らせを聞いて、司は大輔が見つかったというトイレへと向かった。

 トイレの中の扉が閉まった個室の前に、創一がいた。


「あ、司くん」

「創一! 大輔は?」


 司は駆けこむや否や叫んだ。


「こっち。この部屋だよ」


 創一が扉の閉まった個室を指さす。司がその個室へ近づくと、中から呻くような低い声が聴こえてきた。


「知らない……俺は知らない……」


 怯えているような声。かすれて聞き取りづらいが、大輔のものだ。

 創一が困ったような顔をした。


「一度は出てきてくれたんだけど、司くんも玲二くんも来ていないって知ると、急にまた閉じこもっちゃって……」

「そっか……。大輔、おい、どうしたんだ? 大輔!」


 司が扉を強く叩くと、中から「ひぃ」という怯えた声が聞こえてきた。


「知らない。俺は知らない! 何も見ていない!!」

「落ち着け大輔。俺だ」


 そう声をかけると、うめき声が止んだ。

 少し間を置いたあと、呆然とした声が聞こえてくる。


「つ、かさ……司なのか……?」

「そうだ。昨日あのあと、いったい何があったんだ?」

「おおぉ、司ぁー!」


 個室の扉が突然開かれ、大輔が司に飛びついてきた。

 上背があるぶん、かなりの迫力と衝撃だ。


「ちょ、やめろ。抱きつくな!」

「司ァ。無事だったんだな」


 大輔は今にも泣き出しそうなほど顔をくしゃくしゃにした。

 それを見て司も、自然と笑みがこぼれた。


「ああ。大輔もな」


 司の言葉を聞いた大輔は、心底安堵したように息を吐いた。


「司が急にいなくなったから、心配したぜ……。白山さんも無事?」

「ああ、彼女は無事だが……いなくなったって?」


 おかしい、と司は思った。

 突然いなくなったのは大輔と玲二のほうだ。だから、司は彩女と二人で逃げ出した。

 そうでなければ、二人を放っておいて逃げることなんてしない。


「なあ、大輔たちはあれからどうしたんだ?」

「どうしたってそりゃあ、俺たちはあのドロドロした化物に追われてたから、校舎の中に逃げた。それで途中で玲二ともはぐれちまったから、俺は一人で……うう、思い出したくもねぇ」

「ドロドロした怪物……そんなの見てないぞ?」


 どうも話が噛み合わない。まるで、あのとき司と大輔で違うものが見えていたかのようだ。

 だが今は、無事に再開できたことを素直に喜ぶべきだろう。


「……ともかく、怪我がなさそうでよかった。俺たちは昨日の件について調べているんだが、大輔も協力してくれないか?」


 すると、大輔は顔を青くする。


「司、お前まだあれに首を突っ込むのか? やめとけって。やばいよあれ」

「そんなことはわかってるさ。でも、このまま放っておくこともできないだろ?」

「そりゃそうだけどさあ」


 大輔はまだ渋っている。事が事だけに思い出したくないものもあるのだろう。


 司としてはただ昨日何があったかという話を詳しく聞きたかっただけだった。

 だが、大輔は違うとらえ方をしたようだ。

 彼はしばらく唸っていたが、意を決したようにぐっと拳を握った。


「よし。わかった。俺も一緒に、昨日のことについて調べてやるよ」


 大輔はそう言って、白い歯を見せて笑った。




 司は大輔とともにトイレから出た。

 大輔の意外と元気そうな表情に、廊下で待っていた美波たちは安堵の声を上げた。


 さて、怪異について調査する上で頼もしい協力者を得たわけだが、これから何をするべきか具体的な案はまだない。一度彩女と相談する必要がある。

 司がそのように考えているときに、ちょうど大輔が尋ねてきた。


「なあ司。さっき俺って言ってたけど――」

「ああ、彼女のことだ」


 司は親指を立てて彩女の立っているほうを示す。

 彩女は大輔のことを心配だけど興味ない風に振る舞おうとしているような、微妙な態度でチラチラと覗いていた。


「やっぱ白山さんか! 俺も協力することになったから、よろしくな」


 さわやかに片手を差し出す大輔。彩女はぷいっとそっぽを向きながらも、差し出された手を握り返した。

 それを見ていた創一が、声を上げる。


「ねぇねぇ、昨日の件って何? なんか僕だけ話についていけないんだけど」

「あ、それ私も知りたい!」


 創一の言葉に乗っかってきたのは美波だ。

 教えたいのはやまやまだった。だが、突拍子がなさ過ぎてどう説明していいものか困った。

 なので結局、適当にあしらうことにした。


「だめ。俺と大輔と彩女の、三人の秘密」


 司の言葉に、美波は唇を尖らせた。


「ええーいいじゃない。けち」

「まあまあ藍原さん。司くんたちにも何か事情があるんだよ」


 不満げな美波をなだめる創一。それを見て司は、やはりこの大人しい少年は人ができていると感心した。


 だが今度は、大輔がにやにやと、なんとも嫌な笑みを浮かべながら司と彩女のことを交互に見ていて、背筋のあたりがむずむずとした。


「へぇ。かぁ」

「……なんだよ」

「いや。俺もそう呼ばせてもらおうかなーって」

「――却下です」


 彩女がピシャリと言い放つ。

 薄々思ってはいたが、彩女は大輔に対する当たりがきつい。


「そんなこと言うなよ。ちゃん」

「えー。いいじゃん彩女ちゃんで。司だってそう呼んでるんだし」

「その……司さんは特別です」


 彩女は若干顔を赤らめながら言った。

 それを見て、大輔はぽかんと口を開けてほうけた。


「え、『司さん』って……?」

「だあ。もういいだろ!」


 司が喚くのに合わせて、彩女がうなずいた。


「ええ。もうそのくらいに……司さんに、いえ、二人に伝えることがあります。

 実は、斉藤くんの席であるものが見つかったのです」

「玲二の?」


 彩女の突然の発言に、司は首をかしげた。

 彼女は先ほどまでとは打って変わって真剣な面持ちでまっすぐ司と大輔のほうを見た。


「はい。斉藤くんの……彼の日記が見つかりました。まだ全ては見ていませんが……そこに、ある単語が書かれていたのです」

「ある単語?」

「はい。それは……」


 彩女は言葉を詰まらせて、ごくりと生唾を飲んだ。

 そして、声を低く震わせながら言った。


「無貌の狩人」


 彩女のその言葉は、頭で理解する前に目眩となって司を襲った。

 この一連の怪異の真相に、これから三人は踏み込もうとしている。

 そんな予感がした。


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