第11話 末裔の巫女


 舗装されていない足場の悪い山中の道を、司は白山の後を追って走った。

 山の中にあるこの高校は、正門からだと麓の駅へ向かう道路が続いているが、裏門から出た場合はすぐに舗装されていない山道へと繋がる。


 背後からは無貌の狩人が甲高い足音を鳴らしながら歩み寄る。

 緩慢な動きで歩いているように見えるのに、全力で走っている司たちから一定の距離を保ってついてきている。

 その様子は、まるで周囲の景色ごとボロ布の狩人に吸い込まれているような錯覚すら覚えた。


 無貌の狩人が放ったボウガンの矢が足元や道端の木に刺さるたび、司の背筋は凍った。

 このままでは、遅かれ早かれ追いつかれるか――あるいは矢に貫かれて司か白山のどちらかが命を落とすことになるだろう。

 司の中で抑えていた焦りが決壊しそうになったときだった。


「黒河くん――こちらへ!」


 前を走る白山が山道の脇の林へと飛び込む。

 林の中は木の根と草地の凹凸が激しく走ることもままならない。だが、このまま遮るものの少ない山道を走るよりは遮蔽物の多い林の中のほうがマシだと考えたのだろう。


「あの木々の間を抜けます」

「……わかった」


 白山の声を聞いて、司は少しだけ冷静さを取り戻した。そうだ、今はとにかく生き延びることに集中しなくてはならない。

 二人は悪路に足を取られながら林の中を走る。

 飛んできた矢が木の幹を穿つ音が、背後から聞こえた。

 不規則な地形を走るのは体力的な負担が大きいが、確かに、矢が木々に遮られるため撃たれる危険は少ないようだ。


 だが、司は言いようのない不安を感じていた。

 これまでの無貌の狩人の動き、まるで二人を山の奥へ奥へと誘導しているようではなかったか。

 知らず知らずのうちに人里離れたこの地へと誘い込まれていたようにも思える。

 仮にあの化け物を振り切れたとして、そのあとはどこへ向かえばいいのだろうか。

 麓のほうへ引き返すにしても、あれに見つからずに下山することは難しいだろう。


 そうして司の意識がそれたとき、かしゃんという重い音を立ててボウガンから矢が発射された。迫りくる死の気配に、首筋がぞくりと泡立った。


 避けられない。反射的にそう直感した。


 そうだ。後のことなど考えている場合ではなかった。

 今この瞬間に死の危険が迫っているのだ。


「――だめ!」


 矢が司の体に届く寸前、横から白山が体ごと飛びついてきた。

 衝撃で司は急な斜面を前のめりに倒れかかる。そのすぐ上を、凄まじい速度で矢が通り抜けていった。

 矢は凌いだものの、今度は高所から落下する感覚に、再び司の背筋が凍った。斜面の上から下へ、浮遊感をともないながら司の体が地面へと落ちて行く。


 司がううっと呻くような悲鳴を上げながら身構えたとき、白山が空中で身を翻して体勢を入れ替えた。

 それにより白山は司の下に潜り込む形になって地面へと落ちていった。


「おい、白山――」


 司と合わせて二人分の体重を抱えたまま、白山の細く小さな背が、小石や根で尖った地面へと叩きつけられた。

 打ち付けられた体が、反動で跳ね上がるほどの衝撃。


「ぐっ……ぁ……」


 白山は顔を歪めて苦悶の声を上げた。

 落下した勢いのまま、斜面を滑り落ちる。粗くガタついた地面は容赦なく彼女の制服と肌に傷をつけていく。


「かはっ――は、く、黒河くん……大、丈夫ですか?」

「ばか、それはこっちのセリフだ!

 見ての通り俺はなんともない。お前は大丈夫なのか?」


 背中を打ちつけた衝撃で咳き込みながらも、司のことを気遣う白山。その姿を見て、自分の情けなさに無性に腹が立った。

 だが、そんな司の声を聞いた白山は、目じりを下げて微笑んだ。


「……よかった……」


 小さく呟くと、白山は脇腹を手で庇い、よろめきながら起き上がった。

 一瞬痛みに耐えるような顔をしたが、すぐにそれを隠して、しっかりとした足取りで走り始める。

 そして力強くうなずきながら「私は平気です」と答えた。


 ――だが、平気なはずがない。

 あれほど強く打ち付けられたのだ。きっと無理をしているのだろう。司に要らぬ心配をかけないように。

 もしここで白山を気遣って立ち止まってしまえば、より危険にさらされることになる。

 そうやって白山は出会ってからここまでの間、ずっと無理をし続けてきたのではないかと司は思った。

 そしてそんな彼女の強がりが、とても尊いものだと司は感じ始めていた。

 だからこそ、その強がりを無駄にするわけにはいかない。


「ヤツは――無貌の狩人はどうした!?」


 司は振り向き、ボロ布をまとった狩人の姿を探した。

 それはすぐに見つかった。司と白山が転げ落ちた坂の上から、ボウガンを向けることもなく、包帯に包まれた顔を二人に向けて立ち尽くしている。

 相変わらず表情も分からず得体が知れないが、文字通り見下されているような気になって司はギッと歯を噛み締めた。


 無貌の狩人の姿が歪んだ。ねじれた空間に穴のようなものが生まれる。

 そして無貌の狩人は穴の中へと溶け出すようにして消えていく。

 穴が閉じ、歪みが収まる。

 無貌の狩人は目の前から完全に姿を消した。


「き、消えた……あいつ、どこへ?」

「わからない……ですが、見逃されたとは思えません。今のうちに行きましょう」


 白山の言葉に司がうなずく。二人はさらに林の奥へと走り出した。

 悪路に足を取られるため進むのは一苦労だったが、その間も司は常に周囲を確認し、気を張り続けた。

 さっきのようなことを二度も起こすわけにはいかない。

 白山に危険が及ばないようにするのは当然だ。だがもしまた司が危なくなったりしたら、彼女はまた助けようとすることだろう。たとえ、自分自身を犠牲にしてでも。

 そんなことは絶対にあってはならない。


 二人は林の中を走り続けたが、山道が見えなくなったあたりで、白山が突然ふらつきながら速度を緩めた。

 それでも進もうとしたのか、よろよろと前のめりに足を踏み出す。だが耐えきれずにドサッと膝をついてうずくまった。


「おい、大丈夫か白山!?」

「……す、すみません……黒河くん」


 白山は膝をついたまま、必死に息を整えている。苦しげな表情を見せながら左手で脇腹をかばっていた。破けた上着やスカートから見える傷だらけの背中が痛々しい。


 司は、体育館裏で会ったときに白山が怪我をしていたことを思い出した。

 保健室で診てもらって治療はしたのだが、動き回り、さんざん打ち付けたせいで再び痛みだしたのだろうか。

 あるいは、最初から我慢し続けていたのかもしれない。

 それに、そのときから彼女は体調が悪く、酷く疲れていた様子だった。


 体力も、体の傷も、そしておそらく気力も、もう限界なのだろう。

 司はゆっくりと語りかけた。


「一度ここで休もう……もう持たない」

「……ごめんなさい」

「なんで謝るんだ……だってお前は――」

「だって私は――」


 うつむいた白山の顔を覗き込み、司は息を飲んだ。

 彼女は唇を噛み締めながら、今にも泣き出しそうに瞳を揺らしていた。

 申し訳無さそうに、自分を責めるように、小枝のような細い肩を震わせている。


 いったい何が、どんな理由が、彼女にここまでの責任感を背負わせているのだろうか。


 言い淀んでしまった白山に代わり、司が言葉を続けた。


「――とにかくさ。俺だって一晩中走り続けるのは無理だ。

 ここで息を整えよう」

「……はい」


 白山は素直にうなずいた。

 司は彼女に手を貸しながら、林の中でもひときわ太い木の根本まで移動して座り込んだ。

 気休めにしかならないかもしれないが、無貌の狩人の持つボウガンから少しでも身を守れるような場所でないと安心できなかった。木に背中を預ければ、少なくとも背後から撃たれる心配は少なくなるはずだ。


 一息つくと、矢で撃たれて傷ついた足が痛みだした。見ると、流れた血によって学生服のズボンに手のひらくらいの大きさの染みができていた。

 今までは危険が迫っていたことでアドレナリンが出ていて無視できたが、一度意識してしまうとドクドクと脈打つような痛みが辛かった。

 だが、白山の手前、弱音を吐くわけにはいかない。

 黙っていると余計に意識してしまうので、司は話を切り出すことにした。


「なあ、白山は幽霊が見えるって言ってたよな?」

「……はい」


 白山は虚ろな声で答えた。先程と同じような機械的な相槌だった。


「それって……どんな感じなんだ? この辺にも幽霊がいたりするのか?」

「――いますよ」


 低い声で答えられ、司はどきりとした。

 そんな気はしていたのだが、改めて意識するとゾッとしてしまう。

 それにしても――答える白山も普段より低く無機質な声で、妙に迫力があった。


「門が……開いたからでしょうか……いつもより多くの亡霊が、せわしなく騒いでいます……。ほら、あの茂みの影や、木の上にまで……」

「――っ!」


 白山が指さした場所を見る。もちろん司には何も見えない。

 自分の目には見えなくても、そこにが存在する。そのことがいかに恐ろしいことかを司は理解した。

 この暗い林の中、命なき者たちが自分たちを監視しながらひそひそとささやいている様子を想像して、鳥肌が立った。


「……ああ、集まってきました」

「え……それは……増えているってことか?」

「はい。それも、このあたりを守っている霊魂ではなく……穢れに染まって徘徊しているものたちが……」

「さっき言っていた悪霊ってやつのことか」

「……それに、近いものです。そこまで危険ではありませんが、長居はしないほうがいいかもしれません。

 じきに、このあたりのも淀んで来るでしょう……それに……」


 話しながら、白山は立ち上がった。

 今まで背を預けていた大木に両手をついて、呼吸を整えている。少しでも体力を回復させようとしているのだろう。


「それに、これは前触れかもしれません」

「前触れ?」

「無謀の狩人は、多くの穢れを持った悪霊を引き連れていました。

 穢れに染まった霊が集まってきたのは、もしかしたら……」

「……もうすぐ、やつが来るかもしれない。そういうことだな」


 白山は首を縦に振って肯定の意を示した。

 ならば――白山の体調も心配だが――あまりゆっくりとはしていられない。司も同じように立ち上がって動き出す準備をした。


「それじゃ早いとこ移動しよう。白山、歩けるか?」

「……いいえ。もう、遅いようです」


 白山は正面を――司たちが歩いてきた方向を見つめながら、張り詰めた表情で身構えた。

 周囲の木々や草花がざわめき出す。

 白山の言う、この山に住む霊魂が、騒ぎ出しているのかもしれない。


 こつん。


 この山奥に似つかわしくない、高い靴音が響いた。

 正面の空間が歪む。この音は、あの恐るべき狩人が、この世ではない道を歩む音だ。

 無貌の狩人が作る景色の裂け目の向こう側。自分たちが見ている世界と重なり合いながら、実際は薄皮一枚挟んだ先にある場所。

 霊魂と呼ばれるものたちの存在する世界があるのなら、かの化け物の歩いているのは、そちら側に近いのだろう。


 こつん、こつんと数度の靴音が響く。

 二人のすぐ目の前に――歪んだ宵闇よいやみの中から、無貌の狩人が姿を現した。


「くそ、アイツ……こんな近くに……」


 埃がかった腐臭。体を動かすたび微かに耳に障る、みちみちという肉を混ぜるような音。まるで血を吸ったようにいたるところが黒ずんだ服に得物。

 近くで見る無貌の狩人の異様に、膝ががくがくと震えた。


 司がひるんで動けずにいると、白山が無貌の狩人の方へと一歩足を踏み出した。


「……逃げてください」

「――白山?」


 言っている意味が分からず、司は白山の方へ顔を向けた。

 逃げるのは当然だ。だが――


「あなたは、先に逃げてください――」

「おいッ!!」

「あれは、私が食い止めます」


 司はかっと頭に血が上るのを感じた。

 何を言っているんだ。敵うわけがないというのは、もうわかっているはず。

 少女の顔に、悲壮な覚悟が宿った。


「早く……逃げてください! あなたは、私が守ります!!」


 白山の体の震えが止まった。凛とした立ち居振る舞いで、彼女は次の一歩を踏み出す。命を賭ける覚悟をしたものの強さだった。


 だから、どうした。


 少女の我が身を省みない覚悟に、立ち尽くす自分の弱さに叱咤する。

 白山の腕を強く握ると、踵を返して走り出した。

 無貌の狩人とは、逆の方向へ。


「え、ちょ、ちょっと……」

「お前も一緒に逃げるんだよ!」

「は、はなしてください! このままじゃ二人とも――」

「断る。黙れ。しゃべるな」

「――っ!!」


 司の理不尽な言い分に、白山が怯んだ。

 その隙に司は彼女の背を押して無理やり前へと進ませる。


 背後から、ヤツの殺気を感じる。司は勘だけを頼りに、白山の頭を上から押さえつけてかがませた。


「はぅ。く、黒河くん何を……」


 少女の抗議を無視して、司もかがみ込んで体勢を下げる。直後、かしゃんという音とともに矢が頭上を通り過ぎていった。

 そのまま体勢を立て直すと、司は白山を連れて木々の間を抜けて走った。

 無貌の狩人は相変わらずゆっくりとした動きで、だが一定の距離を保ちながら二人を追う。

 大木を盾にして二発目の矢をしのぎながら、白山はおずおずと口を開いた。


「あの、黒河くん……」

「なんだ。自分が囮になるってのはナシだからな」

「い、いえ……あの……ここから少し走った先に、私の住む神社があります。

 そこなら、無貌の狩人から身を守ることが……できるかもしれません」

「な、本当か!?」


 白山が神社に住んでいるというのも少し驚いたが、今までの話から納得がいった。

 その神社がこんな山奥にあるというのも意外だった。そういえば染無がそんな話をしていた気がする。

 思えば白山のことは住んでいる家はおろか、人間らしい情報はほとんど知らなかった。

 もし無事に逃げ延びることができたら、いろいろと聞かなくては。

 司はそう心に決めた。


「わかった。案内してくれ」

「……はい!」


 白山は力強く答えた。

 さっきと同じく、覚悟を決めた凛とした表情。だが、それに含まれた意味合いは全く違うものだった。


 前後も不覚になる林の中を、白山は迷わずに進んでいく。

 一見すると山の中には目印となるようなものがほとんどなかった。だが、彼女の目には何か道標となるようなものが見えているのかもしれない。


 無貌の狩人の凶弾が立て続けに襲いかかる。それを司は、異様に冴え渡った勘だけを頼りに避けた。

 やがて、林を抜けて再び山道に差し掛かったところで、白山が声を上げた。


「こちらです!」


 山道に飛び出すと、すぐに神社の鳥居が視界に入った。

 その瞬間、矢が司の肩をかすめて激痛が走ったが、それをこらえて鳥居をくぐり、神社の敷地の中へと足を踏み入れた。


 白山が振り向いて両手で印を結びながら唱える。


「祓え給い――清め給え――かむながら守り給い――さきわえ給え」


 脈動のような気配が、二人を、この神社を包んだ。

 無貌の狩人が、その歩みを止める。

 ボウガンを持った手を降ろし、布にくるまれた顔を司たちへと向けた後、踵を返し景色の歪みの中へと消えていった。




「た……助かった……のか……?」


 あたりを静寂が包み、虫の鳴き声や、風が木々を揺らす音が聞こえた。

 司は呆然とつぶやくと、一気に全身の力が抜け、座り込みそうになるのをなんとかこらえた。


 白山は立ち尽くしたまま動かない。背を向けていてその表情は確認できないが、肩を小刻みに震わせていた。

 生き延びた感慨に浸っているのかもしれない。


「……黒河くん、ありがとうございます……あなたのおかげで、無事に逃げおおせることができました」

「――なに言ってんだよ。半分以上は白山のおかげだろ。

 こっちこそ……さんざん助けられた」

「私も……本当は助けなくてはいけないはずの……あなたに守られて、ここまで来ました」


 白山は「こちらへ」と言って、神社の建物へと司をいざなう。

 司がそれに従い歩き始めると、彼女はぽつりとつぶやいた。


「それに……」

「ん?」

「あなたを死なせたくない……そう思うと、なぜか力が湧いてきました」


 だから、一人では生き延びることができなかった。

 少女はそう言うと、扉を開けて神社の中へと入り――司のほうへと振り向き、深く頭を下げた。


「私は、白山彩女……白山の家に生まれ、名を継いだ巫女……

 黒河くん――あなたを歓迎いたします」


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