第10話 無貌の狩人


 黒い人形ひとがたの影は、肉をまとうことにより人になった。

 いや、”人のような何か”というべきだろうか。それは異様な出で立ちだった。

 全身は煤けた灰色。身にまとうのは裾の破れたコートと、つば広のハット。

 肌が見えるはずの部分は、手も、首元も、そして顔も、そのすべてを埃にまみれた包帯が覆っている。

 よって無貌。

 目、耳、口といった外界の情報を得るための器官はすべて包帯が覆い尽くしている。そのため表情どころか、どのような顔をしているのかさえ判別できない。


「なんだ……アレは……人間なの、か?」


 司は思わずそう口にした。

 朽ち果てたボロ布を身にまとった、人のような何か。

 もしくは、得体の知れない何かが人の形をした皮を被ったもの。

 目の前に現れた存在を形容するなら、そのような言葉になるだろう。


 隣で白山の息を呑む声が聞こえた。


「……無貌の狩人」


 白山は呆然とつぶやいた。それに合わせるように、ボロをまとった人物は腕を――その手に持った凶々しい鈍色のものをこちらに向けた。

 殺意。あるいは、自分たちに降りかかる死の予感――およそ日常では感じることのない異質な危機感に、司の全身の毛が逆立つ。

 状況を認識するよりも早く、司の体は動き出していた。


「白山、避けろ!」

「――え?」


 叫ぶと同時に、司は白山を押し倒した。直後、風を切る音とともに白山のいた場所に凄まじい速度で鋭利な何かが飛来する。

 それは司の腿をかすめ、背後の地面に突き刺さった。


「……ぃつ。白山、大丈夫か?」

「えっ、く、黒河くん、いったい何を――!?」


 覆いかぶさっている司と地面に刺さったものを見て、白山は驚きに目を見開いた。


 地面に突き刺さったそれは、矢だった。

 ボルトと呼ばれる太く短い矢。ボロをまとった人物が手に持ったものはボウガンという引き金式の弓。

 覆いかぶさった司の腿からは血が流れていて、白山のスカートを赤く濡らしていく。

 白山はそれらを順番に目で追った。あまりにも異常な状況だったが、彼女はその状況が飲み込めたのだろう。瞳に強い光が宿った。


「何を――やっているんですか!」


 白山は司の背に腕を回すと、体を捻らせて地面を横に転がった。その軌跡を追うように、ボウガンから放たれた矢が二人の倒れていた場所に突き刺さった。

 白山は転がった勢いのまま受け身を取るように立ち上がり、司に手を差し出す。


「さあ、速く立って!」

「あ――ああっ!」


 司は白山の手を借りて起き上がると、玲二と大輔の様子を確認するため急いで辺りを見回した。

 だが玲二も、すぐ近くにいたはずの大輔さえ見当たらなかった。


「あ、あいつらは……どこいった?」


 司は湧き上がる震えを抑えながら言った。

 前方では視界の利かない闇の中で、薄灰色のボロを着た狩人がカチャカチャとボウガンを弄り、次の矢を飛ばす準備をしている。


 どうすればいい、今やるべきことは何だ?

 司は動転して叫び出したくなるのをこらえながら、全力で頭を振り絞った。


 玲二と大輔の二人がいったいいつどこに行ったのかはわからないが、目の前にいる凶器を持った危険な化け物は、どうやら司と白山を狙っているようだ。

 ならば、まず自分たちが安全な場所まで逃げるべきだろう。できるだけ、アイツを引きつけられればなお良い。


 考えをまとめながら、司は白山のほうへ目を向けた。白山は化け物の出方を伺っているのか、緊張した面持ちで身構えている。

 だが呼吸が乱れ肩で息をしている様子を見ると、焦っているのか疲労しているのかはわからないが余裕はなさそうだ。

 おそらく、状況を打開できるような算段があるわけではないのだろう。


 司はもう一度、白山の手をとった。


「……このままじゃ危ない。逃げるぞ!」


 傷が痛むのをこらえ、司は白山の手を引いて走り出した。正門のほうにはあの化け物がいる。なら、目指すのは背後にある学校の裏門だ。


「――なっ」

 白山は面食らいながら手を引かれるままに司の後を追った。

 その二人の脇を、鋭い風切り音を上げながら矢が通り過ぎていく。

 矢は鈍い音を立てて木の幹に突き刺さった。あんなものが人間に当たったら無事では済まないだろう。


 司は舌打ちをする。白山の背中を押して前に出し、自分はそのすぐ後ろを追うように走った。

 これなら、司の体で死角になるから白山に矢は届かない。最悪でも自分が盾になって彼女を逃がすことができるはずだ。


「ちょ、ちょっと――黒河くん!」

 白山は悲鳴のような声を上げた。


「いいから走れッ!!」


 司が叫びを聞いた白山はぎりっと奥歯を噛みしめ、覚悟を決めたように走りを速めた。


 こつん、こつんと、やけに大きな音をたててボウガンを持った狩人が歩き始める。

 一見はゆったりとした動きなのに、どういうわけか全力で走っている司たちに突き放されることなくついてきている。


 ボウガンの矢が耳元をかすめた。衝撃で肌が裂け、血が滲み出す。


 前を行く白山は、直線的な動きにならないように不規則に走っているようだった。司もそれに追随して動くことで、なんとか直撃することは免れた。


 こつん。

 靴音を響かせながら、ボロを着た狩人は表情も声もなく二人の背中を追う。


 そのとき前を走っていた白山が突如、後ろを振り返った。


「どうした、白山?」


 つられて司も振り向くと、背後から黒い影のようなものが無数に地をはって迫ってきていた。


「な、これは……」


「……はぁッ!」

 動揺する司を尻目に、白山が気迫のこもった叫びとともに手に握った粉をばらまいた。

 するとそこに黒い影がぶつかり、青白い炎を上げ始める。


「い、いまのなんだよ!?」

「清め塩です。……ものの数秒しか持ちませんね」


 まいた粉が全て燃え尽きるのを確認するより先に、白山は道脇の草むらへと駆け込んだ。

 そして草の陰に隠れていたダンボール箱を開け、中からカセットボンベくらいの大きさの缶を取り出す。


「おい……そ、それは……?」

「――ガソリン缶」

「なあぁっ!?」


 白山は赤く塗装されたガソリン缶を抱えて走り出した。

 なんとなく意図が読めてきた司は、同じように缶を手に持ち後を追った。


「なんでそんなもんが、こんなとこに置いてあるんだ!?」

「もしものときのために用意していました」


 もしも、というのはどういうときなのだろうか。

 司はその用途が気になったが、深くは追求しないことにした。


 白山はガソリン缶の蓋を開き、走りながら地面にガソリンをまいていく。

 そして空になった缶を投げ捨てると、制服の内ポケットからマッチ箱を取り出して火をつけた。


「――はらえッ!!」


 その行動に何か意味があるのか、白山はマッチ棒の火に手のひらをかざして叫んだ。

 その後、マッチをガソリンがまかれた地面に投げ込む。


 轟音が鳴り響き、一瞬にして巨大な火の手が上がった。

 炎は迫りくる影の群れを飲み込みながら、ボロ布をまとった狩人を包み込む。


 人の姿をしたものが炎に焼かれる様は堪えるものがあったが、それを飲み込みながら司はガソリン缶を振りかぶった。


「――こいつも……もらっとけ!」


 司はガソリンを缶ごと投げつけた。

 缶は炎に包まれた狩人に命中し、爆炎となって辺りに燃え広がった。


 強烈な熱風が司と白山の体を叩く。

 あとになって、司の体に恐怖と罪悪感の震えが走った。


「……俺は、人を殺したのか?」


 白山は目の前に来て、うつむく司の顔を覗き込んで頭を振った。

 その表情は今までの彼女の態度からは想像できないほど優しく、真剣だった。


「……あれは人ではありません」

「だが……生きて、動いていた。実物だった」

「いいえ、あの者は……」


 白山がそう言いかけたとき、炎の中で動くものが見えた。

 司は驚愕に目を見開いた。


「白山、後ろ!」


 司が言い切る直前に気づいたのか、白山はすぐさま背後の炎へと振り返った。


 炎の中で、ボロをまとった狩人が立っていた。

 狩人は見せつけるように両手を広げたあと、手のひらを返して拳を握った。

 壁に、窓に、地面に無数の影が走り、一瞬にして炎がかき消えた。


 その化け物は、まとっているボロ布すらも焼け焦げることなく、炎に包まれる前と一寸変わらぬ姿でそこにいた。


「そんな……」


 白山は息を呑みながら後ずさった。

 司はその腕を掴み、叫ぶ。


「やっぱり逃げよう白山! こんなやつに敵うわけない」

「――は、はい」


 司の言葉に白山は素直にうなずいた。

 狩人の化け物は立ち尽くし、無言で二人のほうへ顔を向けている。

 包帯のようなものにくるまれているため表情はわからないが、なんとなく必死に抵抗する自分たちを嘲笑っているような気がして、司は無性に腹がたった。


「……くそっ!」


 故のしれぬ悔しさに歯を噛み締めながら、司は白山の手を引いて全力で裏門へと走った。


 このときの司はまだ知る由もなかった。

 その歯がゆさ、口惜しさは未知なるものへの恐怖の前景であることを。


 ――すなわち狂気へとつながる感情だということを。




 司と白山の二人は、裏門を飛び出した。

 狩人は追ってきていないようだが、何度か小さな黒影が迫ってきて、それを白山が対処していた。


 裏門を出るとすぐに、白山はがらがらと音を立てて門を閉じた。


「あんなの相手に、門なんか閉めてどうするんだ……?」

「"閉じている"ということに意味があるのです」


 白山は胸元から縦長の白い紙、札のようなものを取り出した。


「祓え給い、清め給え……」


 白山は札を門に貼り付け、手をそえたまま何かを唱えている。


「それは、御札か?」

「ええ……神札です。これでも、何もしないよりは……」


 言い終わるや否や、札が暗色の炎に包まれた。そして、塵となって消え去る。

 それを見た白山は青ざめた顔をした。


「……本当に……でたらめな……」

「なあ白山、今のって……」

「未熟な私の力では、まるで意味を成さないようです……」


 白山は「……集まってきました」と言って校舎の窓を見上げた。

 窓には、曇ったガラスに手を押し付けた跡が無数に並んでいた。

 手の跡は、長い間放置されたようにわずかに黒ずんでいる。


「げ、なんだこれは」

「亡霊です。それも、悪霊と呼ばれる危険なもの」


 白山は嘔吐感を抑えるように胸元をさすりながら喉を鳴らした。


玩具がんぐの箱をひっくり返す……とは、本当によく言ったものです」

「悪霊ってなんで……あの化け物が呼び出しているのか?」

「いいえ。あれが操っているのは悪意……なのだと思います。

 どこからか大勢の霊魂を呼び出し、人の悪意をもってそれらを使役しているのではないかと……」

「……どうしてそんなことを知っているんだ? お前はいったい……」


 司が尋ねると、白山は顔を伏せて口をつぐんだ。

 そして少しの間が空いたあと、おもむろに司に対して片手を差し出した。


「……行きましょう。早くしないと、あれがまた追ってきます」

「白山!」


 司はまっすぐに白山を見た。

 彼女の顔は、どこか切なそうに見えた。

 それで、司は彼女の真意を悟った。


 司は息を吐き、うなずいた。

「……わかった。行こう」

「……ええ」


 これは、日常の裏側への――白山のいる世界へのいざないの手だ。

 司はもう無関係ではいられない。彼女の手を取ろうが取るまいが、それは変わらない。

 だからこれは、心を決めるための儀式のようなものだ。

 白山が司に真実を打ち明けるための、司が白山にそれを知る覚悟を示すための。


 司は、白山の差し出した手を強く掴んだ。

 白山はそれを同じように強く握り返すと、司の手を引いて走り出した。

 司が白山の手を引いて走っていた先ほどまでとは、逆の立場だった。


「私は、現世に留まった死者の霊を見ることができます」

「――霊能力ってやつか?」


 司の問いに、白山はうなずいた。


「それと、穢れを祓う力。私は――私の家系は、古くからそういう体質なのです」

「……そっか」


 別段、驚くようなことでもなかった。

 あの化け物に比べれば、幽霊だとかのほうが、まだ現実味がある。


「なあ……あの全身包帯のやつは何者なんだ?」


 話の途中だったが、その化け物についてまず知りたいと思った。

 司が質問すると、白山の手が震えて少し冷たくなった。

 白山は、怖ろしいものを口にするように声を低くして言う。


「私たちが……無貌むぼう狩人かりうど、と……呼んでいるものだと、思います」

「無貌の、狩人?」


 無貌の狩人。司が、その名前を復唱する。

 直後、こつん、という靴音が背後から響いた。

 周囲の木々がざわめき、振り返った背後の景色は曲がったレンズを通したように歪んでいた。


「な――この音……まさか!」

「……くっ」


 白山は驚きで硬直している司の手を引き、駆け出した。

 歪みの中から、こつん、こつん、という足音が響く。

 まるで歪んで裂けた景色の先に、別の空間が広がっているように。


「あいつ……どうやって……」


 揺らぎ、歪み、裂け目の生じた空間から、ボロ布をまとった化け物――無貌の狩人が歩み出てきた。

 白山は喉まで出かかった悲鳴を飲み込む。そして理解を超えた光景に釘付けになっている司の手を引いて、振り向くことなく走った。

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