第9話 古武術
耳を澄まして、神経を研ぎ澄ましてやっと捉えた不快な鳴き声。
その声は精神を蝕み、穴だらけの虫食いにするように、不安感となって頭の中にこびりついた。
「なんだ。この鳴き声……どこから……」
司は全身に走る悪寒と不安感を抑えながらつぶやいた。
声は反響するように四方八方から聴こえ、そのくせすぐ近くから聞こえてきているようにも感じる不自然なものだった。
まるでヘッドホンごしにサラウンド音声を流しているような感覚だ。
テケリ・リ。
耳が、もう一度その声を捉えた。
さっきよりも少し鮮明に聞こえた。
「どこだ……これ、どこから聞こえてきているんだ」
司たちのいる体育倉庫はそう広くはない。遠くから聴こえているような気がするのに、この部屋の外ではないような気もする。
まるで部屋そのものが声を発しているようだ。
精神を削り取るような音程にだんだんと目眩がしてきて、司は後ずさりして壁に手をついた。
その時、玲二が切羽詰った様子で声を上げた。
「司、後ろ!」
壁のほうを振り返ると、そこには黒い大きな人影ができていた。
全身に無数の蟲が蠢いているような、モヤのかかった見た目のそれは、白山を襲ったあの忌まわしき黒い
司は唇を噛み締めた。
「こいつは……」
「おい。あっちにもいるぞ」
玲二が指を差したほうを見ると、そこにも黒い影が。それだけでなく、周囲の壁のいたるところから、人の形をした影が浮き出てきた。
「囲まれてる……なんなんだよこいつらは!」
司は叫んだ。
その声に反応したのか、壁一面の人影が一斉に司のほうに頭を向けた。
無数の顔なき
瞬間、どくんと心臓が震えた。
口内の水分が枯れ、代わりに手と腋と背筋に冷たい汗が流れる。
足が震え、崩れ落ちそうになる。なのに首と胴はギチギチに固まっているように動かすことができない。
司の頭の中を、逃れようのない恐怖が支配していく。
悲鳴が喉の奥までこみ上げたとき、隣にいた大輔のつぶやく声が聞こえた。
「……俺は、夢でも見ているのか?」
「だ、大輔? ちがう、これは……」
言いかけた時、司は気づいた。大輔は壁に蔓延っている影たちのことは見ていなかった。
大輔は体を震わせながら狂気じみた目で、しめ縄の落ちている場所のやや手前――部屋の中央の一点を凝視していた。
「泥が……粘ついた泥が……」
大輔の唇がひくひくと震えた。
どこからか、かすかにびちゃびちゃと液体が流れるような音が聞こえた。
テケリ・リ。
嘲るような声が頭の奥に響いた。
大輔が「ああ!」と腹の底から絞り出すような声を上げた。
「吐瀉物みたいにくそごちゃ混ぜになってガソリンと腐った卵と糞とはちみつを足したような気持ち悪いにおいのする化け物が!」
大輔は、自らが認識してしまった存在を拒絶するように苛立たしげに吐き出した。
かすかに、甘いにおいに腐敗臭の混ざった湿った風が流れてきた。
テケリ・リ。テケリ・リ。
声が反響する。周囲の黒い人影たちは、まるで観客のように司たちのことをただ見つめている。
「粘液が。重油のような玉虫色のネバネバが……。
ずるずると……動いてやがる……こいつ、生きてんだよ!!!!」
テケリ・リ。テケリ・リ。テケリ・リ。テケリ・リ。
声がやまびこのように反響し、空気を震わす。
司はおかしくなった大輔の腕を掴み、体を向けさせて叫んだ。
「落ち着け大輔! そんなやつ、どこにもいないっ!!」
体を揺すると、それに合わせて頭ががくがくと揺れた。その瞳孔は開ききっていた。いつも明るく笑っていた端正な顔は恐怖に歪み、ひどくやつれて見えた。
司は大輔の腕を掴んだまま、部屋の出口へと踵を返した。
「逃げよう。ここは危ない!」
「……賛成だ!」
玲二も青い顔をしながら部屋の外へと飛び出した。
背後から、嘲るような不快なあの鳴き声が響く。周囲の人影たちが身じろぎをする気配がした。
三人は部屋の外に出ると扉を閉め、玲二が木製の鍵で施錠した。
そして、そのまま体育館の外まで走った。
体育館の外。日はすでに落ちていて、周囲は日暮れ後の闇に包まれていた。
影たちは追ってくる様子はなく、今は嘲るようなあの鳴き声も聞こえてこない。
どうやら、無事逃げ切ったようだ。
「なん……だったんだよ、いったい……。大輔、大丈夫か?」
司は息を整えながら大輔の様子を見た。そこまで長い距離を走ったわけでもないのに、体はやけに疲労していた。
「あ、ああ……司、悪い……」
大輔はまだ少し上の空だが、正気に戻ったようだ。
あの部屋の中で、いったい何があったのだろうか。あとで詳しい話を聞かなくてはならない。
だが、まずはあの影のことだ。司が口を開きかけたとき、突然背後から聞き覚えのある女の声がした。
「こんな時間に、何をしているのですか?」
混濁のない、透き通る声色。それに、強い怒気と――かすかに狂気じみた揺らぎがあった。
振り返らずとも、その声の主はわかった。
「白山……どうしてここに?」
「それは、こちらの台詞です!」
薄闇の中、少女が鋭い眼光を宿して司たちを睨む。
「もう一度聞きます。あなたたちは、何をしていたのですか」
白山彩女の鋭い眼差しが、まっすぐに司たちを射抜く。彼女は怒りを隠す様子もなく、強い語気で司たちに問いかけた。
「白山、これは――」
「……知ってしまったのですね」
刹那、司を見つめる白山の瞳が悲哀に揺れた。
だが白山は決意を固めるように一度深く呼吸をすると、再び顔つきに精悍さが戻った。先ほどまでわずかに感じられた焦りの色も薄れている。
緊張した空気の中、まだ顔色の戻らない大輔がなだめるように白山の前に出た。
「ま、まあまあ……落ち着いて……」
大輔が両手を前に出した瞬間、白山はその手を掴んで引き寄せて捻り上げた。
そしてどのような技を使ったのか、体格で遥かに勝っている運動部の大輔の体をひねって反転させると、背中を手で抑えつけた。
「え、ちょ、ちょっと……白山さん?」
「黙ってください……あなたたちは私にとって邪魔なのです。しばらく、おとなしくしていてもらいます」
「んなこと言われたってさ! ……うう、なんだこれ。ほんとに動けねぇ」
大輔が必死にもがくが、その体は鉄枷にはめられたように固定されて動くことが叶わない。
その様子を見て、今まで黙っていた玲二が声を上げる。
「白山……お前っ……!」
玲二が組み合っている二人に向けて駆け出した。
「大輔を離しやがれ!」
玲二が白山に掴みかかる。
それを見た白山は大輔の拘束を解くと、踊るような動きで体勢を入れ替えて玲二の腕と襟首をつかみ、足をはらった。
すると玲二の体は冗談のようにぐるりと大きく回転して、背中から地面に倒れこんだ。
「や、やめろって白山さん!」
「――無駄です」
今度は大輔が止めにかかるが、白山にその肩を捕まれ、押し倒されるような形で地面に組み付されてしまった。
速すぎて司には彼女が何をしたのかわからなかったが、柔道の大外刈りのような動きに見えた。
「あなたたちが……この件に手出しすることをやめて、おとなしく家に帰るまで……」
白山が、キッと司のことを睨んだ。
「何度でも、叩き伏せて差し上げます!」
目を疑う光景だった。小柄な少女の細腕が、はるかに体格で勝るバスケ部の男子二人を立て続けにねじ伏せたのだ。
司は過去に自分が言った言葉を思い出し、それに抗議する。
――恐ろしい。何が"普通の女の子"だというんだ。こんな涼しい顔をして――
そこまで考えたとき、司はあることに気づいた。
震えている。
白山は毅然とした態度で立っているが、その手足と瞳だけがかすかに震えていた。
彼女の凛とした表情の裏に、怖れと安堵の色が浮かんでいるのを感じた。
思えば当然のことなのかもしれない。白山は何か武道のようなものをやっていて、すごく腕が立つのだろう。
だが、相手は自分より力の強い男子が三人だ。それこそ、力づくで抑え込まれたらいくら白山といえ、どうにもならないだろう。
こんな状況の中、司たちに立ち向かうことが、彼女にとってどれほどリスクが大きかったことだろうか。
司は白山のほうへと走った。
「白山!」
「……黒河くん」
白山の瞳がわずかに揺れた。
司は白山の肩に手を伸ばした。迷いのためか、白山は立ち尽くしている。そのため、司の手を払おうとする動きが一瞬遅れた。
その瞬間を狙い、司は声を上げた。
「――大丈夫だ」
びくっと白山の動きが止まった。
その隙に司は白山の肩を掴み、引き寄せる。
斜めに構えていた白山は、ちょうど司と体が向かい合う形になった。
「な、なにを――」
「大丈夫だから。何があったか全部話す。それに……もし悪いことをしたなら謝る。だから話を聞いてくれ」
「――っ」
白山は目を見開いた。何か言おうと何度か口を開きかけては、それを飲み込んだ。予想外の状況に頭がついていかず、混乱しているのかもしれない。
だが、彼女の体の震えは止まっていた。そして何より、表情からは先ほどまで見えていた狂気のようなものが抜けている。
まずはこれでいいはずだと、司は胸をなでおろした。
「だ、だけど……黒河くん……」
「司の言う通りだよ」
大輔は「いてて……」と背中を擦りながら起き上がった。その言葉に、玲二もうなずく。
さすがは大輔、ナイスフォローだと司は心の中で感謝した。
「……私は、ただ、あなたたちに……」
白山はうつむいたまま小さな声でつぶやき、ぎゅっと目を閉じた。どうやら考えをまとめているらしい。
少しの間のあと、司のほうへ向き直って口を開いた。
「……わかりました。話をしましょう。あなたたちは、踏み込みすぎてしまいました。もう、知らないままというわけには、いかないのかもしれません」
白山はゆっくりとした口調でそこまで話してから、眉根を寄せて「でも……」と続ける。
「……場所を変えましょう。ここはあまりよくな――」
「あ、ア、アアァァーーッ!!」
白山の言葉を遮るように、いきなり大輔が大声で奇声を上げた。
この場にいる全員が、驚いて大輔のほうへと目を向けた。
「く、来る……あの化け物が……ア、あたマ、頭の中に、声ガ……」
「荒木くん!」
「大輔、どうした!?」
司と白山が慌てて駆け寄り、玲二は周囲を見回した。
「来る……読んデル……クる……」
大輔は地に膝をつき、天を仰いでは、うわ言のようにぶつぶつと謎めいた言葉を紡いでいる。
「ああ。それハ源をチギり、混ゼて造られシ原始ノ存……」
「大輔ェー!!」
司は大輔の体を揺らしながら、声を絞り出して呼びかけた。そうすることで、大輔は目が覚めたようにはっとした顔でパチパチとまばたきをした。
「あれ、俺……なんでこんなことを……」
大輔が呆けたように言ったが、それはこちらの台詞だと司は思った。
わからないことだらけで目が回る。司ももう限界だった。
その横で、同じように大輔の介抱をしていた白山が息を飲む気配が伝わってきた。
「な、なに……この気配は……」
白山の瞳が恐怖に揺れた。
「……多すぎる」
テケリ・リ。
嘲るような声が、校舎に響く。
周囲の壁に、木に、そして地面に、宵闇よりも深く暗い人の形をした影が、無数に現れる。
「これは……何が、起きているんだ?」
玲二が呆然とつぶやいた。口内が乾いているのか、顔を歪めて何度も喉を鳴らしている。
人影たちが、吸い込まれるように動き出した。
「なんだこれ……あの気持ち悪い化け物に、周りの影が集まって……」
大輔が絞り出すように声を発した。
人影はすべて、ある一点に向かっていた。
「――くっ……来る!」
白山が悲鳴のような声で叫んだ。
一箇所に集まった影は、よじ登るように地面から浮き出してきた。
人の形をした、大きな黒い塊。
みちみちという奇怪な音を立て、黒い塊は色と形を生み出していく。
粘り気のある泥をかぶせていくように、黒い人形を肉が包み込んでいく。
そうして、故も得体も知れぬ人が生まれた。
「なんだ……誰だ……コイツ……?」
司は震える唇から、絞り出すような声でそう問いかけた。
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