第8話 開かずの間
保健室にたどり着くまでに、かなり時間がかかってしまった。
白山を担いでいる姿を誰かに見られるのが気恥ずかしくて、人の少ないルートを選んで移動したからだ。
その間、白山は一言も発さずに司に体を預けていた。
「はいはい、いらっしゃい……て、彩女ちゃん!?」
保健室の扉を開けた司たちを、くるみ先生が出迎えた。彼女は司の背に担がれている白山を見るや、大慌てで駆け寄ってきた。
「黒河くん、これどうしたの? もしかして、この子また無茶なことを……」
「またってことは――前にもこんなことがあったんですか?」
「昔からよ。とにかく、そこのベッドに寝かせてちょうだい」
言われた通りに、司は白山を部屋の奥にあるベッドに寝かせた。
くるみ先生は慣れた手つきで診察に使う道具の用意をしている。中には何に使うのか検討もつかないような、高校の保健室には似つかわしくない道具もいくつか目に入った。
「彩女ちゃんの家とはけっこう長い付き合いでね。この子、昔から妙なことに首を突っ込んでは怪我ばっかして――」
「小浜先生……余計なことは、言わないでください……」
「あらら、起きてたの? ――じゃあちょっと診せてね」
くるみ先生は白山の制服のボタンに手をかけた。上着を脱がし、その下に着ている白いブラウスの裾をめくった。
白山の細くてなめらかな腹部が露わになった。
「ちょ、ちょ、くるみ先生!?」
「はいはーい。男子はあまりじろじろ見ない」
司は
めくれたブラウスの隙間からは、痩せているからか、へそからみぞおちまでの腹筋の縦のラインがうっすらと見えた。
そしてウエストのくびれの辺りには、火傷のような痛々しい痣。ちょうどさっきの黒い影が触れた辺りだった。
意識するとどうしても落ち着かなくなってしまう。司は白山のことをくるみ先生に任せて外に出ることにした。
「じ――じゃあ俺はもう行くんで。先生、あと、よろしくお願いします」
「ええ。ご苦労さま。後のことはあたしに任せて」
「――あの、黒河くん」
白山に呼びかけられ、司はベッドのほうに目を向けた。
「ありがとうございます。……それから……すみません」
「ああ、いいよこのくらい。どうせ時間が空いて暇だったし」
「――でも」
白山は仰向けのまま額に腕を乗せて目を閉じている。
だから、司のことは見ていなかった。
「でも、私のやっていることに探りを入れるのは、これきりにしてください……」
「……まだそんなことを」
「危険なのです」
白山は手首で目元を隠しながら、消え入りそうな声で言った。
「……あの体育倉庫は……本当に危険なのです」
時刻は18時30分を過ぎたころ。
最終下校時刻が過ぎて学校に残っている生徒はごく僅か。教員も職員室にこもって事務作業に追われている時間帯だ。
そんな中こっそりと学校に残っていた司、玲二、大輔の三人は、まるでスパイ映画の主人公のように忍び足で体育館の前までやってきた。
「なんか、こういうのってワクワクするよな。大冒険って感じ?」
大輔はご機嫌な様子で体育館の周りをキョロキョロと見回している。
「あんまりはしゃぐなよ。見つかったらどうするんだ」
などとクールぶっている玲二も口元はにやけていた。
こういう非日常的な雰囲気は、玲二だって好むところなのだろう。
「あーあ。創一も来ればよかったのになあ」
「まあアイツは真面目だからな……」
大輔は創一も誘ったようなのだが、やんわりと断られてしまったらしい。どうやらこういった肝試しのようなものは苦手のようだ。
司も創一とは違う理由で迷っていた。
体育倉庫が危険だという白山の言葉が、さっきからずっと頭の中に反響していた。
だが、同時に司は知りたいと思った。
この学校の秘密。
白山が知っていて司はまだ知らない事実。
――彼女の見ている世界を。
たとえその先に深淵が潜んでいようとも、覗き込まずにはいられない。きっとそれが、人の
「……誰もいない体育館って、なんか変な感じだな」
大輔が司に顔を寄せてささやいた。
たしかに、薄暗く静まり返った体育館は、不思議な物寂しさがあった。
普段は意識しない足音や、風が窓を叩く音が、妙に気になってしまう。
人気のない場所とはいえ、ここまでがらんとしていると幽霊すら出てこなさそうだと司は思った。
もしも――
もしも、こんな無機質な場所に潜むものがあるとしたら。それは、人の意思や魂なんかとは無関係の、もっと恐ろしいものなのかもしれない。
なぜかそんな考えが、ひらめきのように脳裏をよぎった。
「着いたぞ、体育倉庫だ。……うひゃー、やっぱ雰囲気あるなー」
大輔が体育倉庫の扉を開けて、中を覗きながら口をへの字に曲げた。
広くがらんとした空間から、狭く乱雑とした部屋に移る。ついさっきまで使われていた用具が整然と並んでいる倉庫内を見ると、なんとなく"人の気配"のようなものが戻ってきて、地に足がついたような気分になった。
それゆえに、どことなくその静けさに薄気味悪さを覚える。
部屋に入るとすぐに、大輔が視線を上げてきょろきょろと辺りを見回し始めた。
「――なあ、今俺のこと呼んだ?」
「いや、何も言ってないけど」
「そう? おかしいなぁ………」
大輔は不思議そうな顔をして辺りを見回し続けている。
司が玲二のほうに目を向けると、玲二は黙って首を振った。
「――やっぱり誰かに……何かに呼ばれているような気がする」
司は大輔の口ぶりに、どことなく違和感を覚えたが、気のせいだと思って気に留めることはしなかった。
「さ、玲二。早く開けてみよーぜ」
「……わかったから、急かすな」
大輔は足早に体育倉庫の奥へ移動し、扉の前に立って振り返った。その瞳に、一瞬怪しい光が灯るのが見えた。
だが、司にはその目が何を意味していたのかを、推し量ることはできなかった。
「……なあ、本当に開けるのか?」
司は思わず聞き返してしまった。正直な話、今更になって不安を覚えてきたからだ。
扉を開けるべきではない。開けてしまえば、何か取り返しのつかないことになる。そんな予感がしていた。
だがこのときの大輔は、司とは全く逆の感情が浮き出ていたらしい。
「せっかくここまで来たんだし、開けてみようぜ。
………開けなきゃ、きっと後悔する」
大輔は熱に浮かされたように言った。
たしかにそうだと司も思った。前に体育倉庫で起きたことや、白山の言っていたことは気になる。けど、だからこそ確かめてみたい。そう思ってここまで来たのだ。いまさら引き返すことなんてできない。
だが。
―—その考えはきっと、正しくない。おそらくこの時の司は冷静さに欠けていた。
今になって「引き返したい」などと言うことはできなかった。要するに、状況にただ流されてしまっていたのだ。
だからこれは、自分自身への言い訳だった。
本当は、警告を発していた。
一歩引いて冷静にこれまでの状況を俯瞰している自分が、あらゆる感覚を用いて先に待つものを感じ取っている本能が、引き返すべきだと主張していた。
怖いもの見たさや好奇心によってその一歩を踏み出してしまうと、途端に引き返し難くなる。
このとき司が囚われていたものは、そういう類のものだった。
「呼んでる……扉の先で、何かが俺を呼んで――」
「――開けるぞ」
少しテンションのおかしい大輔の言葉を遮るように怜二が宣言した。
木製の鍵が、鍵穴に差し込まれた。かちりと、妙に大仰な音を立てて、扉の鍵が開かれる。
開かずの間の扉が、開いた。
錆びた
司は中を覗いてみた。そして、少し拍子抜けした。
「……体育倉庫、だな?」
自分の認識が正しいか問いかけるように司はつぶやいた。
扉の中にあったのは、もう一つの体育倉庫だった。一回り小さめの部屋の中に、ボール籠や備品をしまう棚があり、窓は外側から板を貼って封鎖されている。
長い間放置されていたのか、部屋の隅には埃が被っていた。
「昔使われていた古い倉庫かな」
大輔が顎に手を当てて首をひねった。
「でもなんで道具がそのままなんだろ?」
たしかに見た感じ、この倉庫は今は使われてなさそうだ。それには何か事情があるのだろうが、ボールや備品がそのまま放置されているのは妙に感じた。
中にはほとんど新品のものもあり、古くなって使われなくなったというわけでもなさそうだ。なら、なぜ廃棄もせずこんな部屋に置かれたままにされているのだろうか。
大輔は辺りを見回しながら、困ったように頭をかいた。
「うーん。開かずの間の謎は解けたけど、なんか拍子抜けっていうか……」
「体育倉庫に閉じ込められた女の子の霊が、呼んだら出て来るかもな」
「うえ……。やめろよそういうの。
ん、玲二は何やってんだ?」
司の軽口に大輔は顔を歪めながら、玲二のほうへ目を向けた。
玲二は部屋の奥で、屈みこんで手に持った何かを調べているようだ。
「なにそれ、ちょっと見せて」
「……ああ、構わないが」
大輔は玲二から手渡されたものを見ると、口を閉ざして硬直した。
司も気になって、それを後ろから覗き込んだ。
「なんだこれ……しめ縄?」
玲二が見ていたものは、神道の祭具に使われているようなしめ縄だった。
しめ縄には、紙でできた何かを剥がされたような跡があった。そして、縄の両端は千切られたような切り口になっていた。もともとは円の形をしていたのだろうか――
「なんで、こんなものがここに……」
開かずの間の扉の中――古い体育倉庫の中にいる三人は、誰ともなくそう呟いた。
保健室のベッドに横になったまま、壁にかかった時計を確認する。
最終下校時刻はとっくに過ぎていた。ずいぶんと長い時間眠っていたようだ。
白山彩女は疲労の抜けきらない体を無理やり起こすと、ベッドの横に腰掛けて、ハンガーにかけてあった制服のジャケットを着込んだ。
「彩女ちゃん、もう行くの?」
心配そうに見つめる白衣の女性に軽い微笑みで返しながら、白山彩女は腰掛けていたベッドから立ち上がった。
表情を作ることは苦手だから、上手く笑えているかは自信がない。
「小浜先生……こんな時間まで、ご迷惑をおかけしました」
彩女がそう言って頭を下げると、小浜くるみ先生は困った顔をして苦笑した。
「いつもの呼び方でいいわよ。もう誰もいないんだから」
「……はい。くるみ姉さん」
「よろしい。ところで彩女ちゃん」
くるみは目を細めて妖しげな笑みを浮かべた。彩女はこの顔が苦手だった。くるみがこのような顔をするときはいつも、彩女はいいように弄ばれてしまうのだ。
「な……なんですか」
「黒河くんとは仲いいの?」
彩女は固く身構えたが、予想に反して優しい口調でたずねられたため、肩の力を抜いた。
「……仲はよくありません。彼とは偶然――」
そう言いかけたとき、彩女はある予感に見舞われた。
本当にそうなのだろうか。これまでのことを偶然という言葉だけで片付けてしまったら、何か重要なことを見落としてしまう気がする。
「そう……やっと彩女ちゃんにも友達ができたと思ったのに」
「――だけど……黒河くんのことは、偶然ではないのかも……」
「……どういうこと?」
「彼はこの異変に、気づき始めているのかもしれません」
彩女は入学してからこれまでの、黒河司という生徒とのやりとりについて思い返していた。
「黒河くんはクラスの誰よりも早く、私に接触して来ました」
「なんだかやらしい言い方ね、それ」
「茶化さないでください」
彩女が顔をそむけながら横目で睨むと、くるみは苦笑しながら肩をすくめた。
はぁ、とため息をついてから、彩女は続きを語り始めた。
「……彼は、引き寄せている、そして引き寄せられているのだと思います。
好奇心の強さゆえか、あるいは"そういうもの"を寄せ付ける体質なのか……」
「……わかるわ」
くるみは、いつの間に用意したのかマグカップに入ったコーヒーを一口飲んだ。
よく見ると、机の上にはもう一つカップがあった。彩女に振る舞うための分だったのかもしれない。
「怪異に対する感受性が強いのね」
くるみも黒河司について何か思うところがあったのだろうか。
頭のいい彼女は、実に的確な表現をした。
「……はい。だから私のやっていることも、いずれは知られてしまうことでしょう」
「だから彼が巻き込まれる前に、遠ざけたいと?」
「私の邪魔になる前に、です」
これからやろうとしていることの危険性を、彩女は理解しているつもりだった。
それでも、ここで怯んで立ち止まるわけにはいかない。
彩女は雑念を振り払うように軽く目を閉じて、心を研ぎ澄ました。
「……もう、行きますね。くるみ姉さん」
「もう少しゆっくりしていけばいいのに。疲れているんでしょう?」
「いえ。そうも言っていられないので――」
彩女は閉じていた瞼を開いた。
その瞳に、いつものような強くて危うげな光が灯る。
「何か嫌な予感が――嫌な気配が、するのです」
「……それはおおごとね」
くるみは少し表情を固くした。彩女の今の言葉の重みを理解しているからこそ、無視できない内容だったようだ。
「あなたの持つ感覚は、行動の指針としては十分に説得力のある情報だわ。……私の方も、注意して観察してみるね」
「はい。よろしくおねがいします」
彩女は保健室の扉を開けようとしたところで、いったんその手を止めた。
そして低い声で呟いた。
「私は彼を止めなければなりません」
「彩女ちゃん?」
彩女は心の中に残っていた最後の雑念を払うように、言葉を紡いだ。
「彼が呪われた真実に辿り着く、その前に――」
「変だな。さっきから確かになんか呼ばれているような気がすんだけど……」
大輔は眉根を寄せて辺りを見回している。
司は手に持っていたしめ縄を玲二に預けると、そんな大輔の耳元へと囁きかけた。
「それはきっと、体育倉庫に閉じ込められた女の子が……」
「だあー! それはもういいってのッ!!」
大輔は喚くように言った。案外、こういうのは苦手なのかもしれない。
その様子を横目で見ながら、玲二がしめ縄を目の前に掲げた。
「そんなものより、もっと恐ろしいものが出てくるかもしれないぞ?」
「もっと恐ろしいものって妖怪とかか? ほんとやめろってばー」
そう言い合ったあと、二人は黙り込んだ。
話し声が途切れてしまうと、静まり返った薄暗い部屋がやけに存在感を発してきた。
「……やっぱそろそろ帰ろうぜ。なんか俺、気味悪くなってきた……」
大輔はそう呟いて、入口の方へ向き直った。
その瞬間――
ガタン。
誰もいないはずの部屋の奥から、大きな物音がした。
司は、ごくりと生唾を飲みながら大輔の方に視線を向けた。
「なあ、今の音――」
「や、やべぇって……逃げろ司、玲二!」
「――て、おいちょっと待て押すなっ!」
大輔は青ざめた顔で司の背を押しながら部屋の外へと走り出した。
それを玲二が呼び止める。
「ちょっと待て二人とも。そこに立てかけてあった玉入れの籠が倒れただけだ」
「え、マジで?」
呆れた顔をした玲二に、大輔は恥ずかしそうに苦笑いしながら頭をかいた。
「……帰るか」
「そうだな。あーあ、結局たいしたものはなかったなぁ」
大輔と玲二は、再び部屋の出入り口へと向かった。
だが、司はまだ違和感が拭いきれず、部屋の奥を見ながら立ち尽くしていた。
長いこと手付かずだった体育用具が、いまさら突然倒れるなんてことがあるのだろうか。
司は周囲の気配に耳を澄ます。自分でもなぜこんな些細なことが気になるのか理解できなかった。
なんとなく――そうしなくてはならないと感じたからだ。
「どうしたんだ、司。もう行こうぜ?」
「いや、待ってくれ――何か聴こえてこないか?」
「ん? 別に何も……」
「確かに聞こえるんだ――本当に、何かが聞こえてくるんだよ。これは――」
かすかに耳を触る音。小さすぎてうまく聞き取ることができない。
それゆえ、その音は過剰に司の意識を奪い、無視することができなかった。
耳を澄ます。この音は、鳴き声だ。
意識を集中する。
――聞き覚えがある。
音に集中する。
――懐かしいと思った。
声に集中する。
――忘れ去られた記憶。
集中する。集中する。
集中する。集中する。集中する。集中する。
嘲ているような、不協和の音。
やっと耳が、その声を捉えた。
それは、確かにこう聞こえた。
テケリ・リ。
テケリ・リ。
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