第7話 人ならざる獣
気がついたら、司は保健室のベッドで寝ていた。
保健の先生は今、留守のようだ。まさか付き添いで来た自分のほうが保健室の世話になるとは。
倒れた自分をここまで運んだのは白山だろう。自分よりも一回り大きい男子を一人で運ぶのは、かなり大変だっただろうな――などという妙なところを、司は気にしていた。
これは司にとっては意外なことだったが、倒れる直前までの記憶ははっきりと残っていた。
倒れる直前――華奢な体が密着したときの温かくて柔らかな感触を思い出してしまい、司の頬が熱を帯びた。
気絶する、なんていう状況を自分が経験することになるとは想像もしていなかった。それも一瞬の間に。どのような技術を使ったのかはわからないが、人はああも簡単に意識を失うものなのか。
今までに大きな怪我をしたことも体調を崩して寝込んだこともあったが、だからといってそれで気を失ったことなどは一度もない。
――案外貴重な経験なのかもしれない、と司は思うことにした。
ほどなくして保健室の入り口のドアノブがガチャリと音を立て、先生が部屋に戻ってきた。
「あら、黒河くんじゃない。来ていたのね」
「くるみ先生」
彼女の名前は小浜くるみ。名前からは、ほんわかとした印象を受けるが、白衣を着て眼鏡をかけた知的な美人という出で立ちの女性だ。
ゆるくウェーブがかった髪にアイラインの入った切れ長の目、スレンダーな体型、手入れの行き届いたなめらかな肌。まさに"綺麗なお姉さん"というイメージを体現したような容姿だった。
彼女は学校看護師と呼ばれる立場ではなく、教員免許を持った養護教諭という役職だ。しかも医師免許まで持っているという二十代の先生とは思えない超人ぶり。
そんなすごい人がなぜこの学校にいるのかは謎だったが、外見や肩書きとのギャップのあるふんわりとした名前が生徒たちの琴線に触れ、くるみ先生という愛称で親しまれている。
当然、そんな彼女に好意を持つ男子は後を絶たないという。
「それで、黒河くん。いったいどうしたの? サボり?」
「い、いえ。それは――」
司は言い淀んだ。
いきなりサボりだと疑うのはどうかと思うが、そういう用途で訪れる生徒が多いのかもしれない。
とはいえ、付き添いで来た女子に締め落とされました、なんて言うのもどうかと思う。
「――体調が優れないので」
とりあえず司は、最初に頭に浮かんだ言い訳を口にした。
「……ふぅん」
くるみ先生は目を細め、いたずらっぽい微笑を浮かべた。
その意味は気になったが、頭のよい妙齢の女性の隠された真意を推し量るには、人生経験の少ない高一の男子ではいささかハードルが高すぎる。
「そうね……入学したばかりで環境が変わって疲れていたんでしょう。
あまりはしゃぎすぎて、生活リズムを崩さないようにね」
くるみ先生の意外な返しに、司は少しの間ぽかんと硬直した。
「あれ? 信じるんですか?」
「君はウソが苦手だわ。たぶん。
それよりも、どちらかというと……ハッキリものを言いすぎて相手を傷つけちゃったりすることの方が多いんじゃないかな?」
「あ、これ、あたしの勘ね」と言って、くるみ先生はウィンクをしてみせた。
司はなんとなく心外だった。それは、司が白山に対して描いているイメージと似ている気がした。
「だから、今回は事情を聞かないであげる」
「ああそうですか」
司は憮然とした。
年上の女の人に内面を見透かされているという状況は、妙に悔しくて居心地が悪かった。
「十分回復したので、俺はもう戻ります。では」
「また来てね、黒河くん。今度はサボりに来てもいいのよ?」
「先生……あんたがそれを言っちゃダメでしょう」
とんだ養護教諭がいたもんだ、と司は嘆息しながら保健室を後にした。
保健室を出た頃には授業の時間は残りわずか。昼休みが近づいていたため、司は視聴覚室には行かずに直接教室へと向かった。
予想通り、教室には少し早めに授業を終えたクラスの皆が戻って来ていた。
「お、やっと戻ってきたな。ずいぶん遅かったじゃないか」
教室に戻った司を、玲二が出迎えた。そしてニッと、やはり顔に似合わないニヒルな笑みを浮かべる。
「サボりか?」
「ちがう」
「じゃあどうしたんだよ?」
「……途中で女子高生の皮を被った刺客に襲われてね」
この手の冗談は玲二の好むところだろうと、司は大げさな身振りで話した。
全くの嘘というわけでもないのが妙な気分だ。
だが、意外なことに玲二は真剣な面持ちをして司の顔を覗き込んだ。
「……白山か?」
鋭い口調のその問いに、司は答えるべきか迷っていた。
なんとなく玲二には、保健室への道中で起こった出来事について伝えるべきではない気がした。
「なにがあったか知らないが、アイツには気をつけろ。絶対に何か裏がある」
「いや、冗談だぞ玲二?」
「そうか。ならいいんだが……お前がアイツと二人で出ていったから心配だったんだ」
玲二がこんな話を信じたことは予想外だったが、なるほど。たしかにあの状況なら白山彩女が関係していると思うのは自然だろう。
司は視聴覚室を出た時のことを思い出した。
そういえばスクリーンに映っていたあの人影はどうなったのだろうか。
玲二にそのことについてたずねると、
「ああ、アレはお前たちが出て行ってすぐに消えたよ」
「そっか……なんだったんだろうな」
つまり、あの影は白山が部屋を出ると同時にいなくなったということだ。
司がそのことについて思案していると、さっきまで立川たちと話し込んでいた大輔がこちらに来て声をかけてきた。
「よう司、戻ってたんだな。白山さんの様子、どうだった?」
「どうだったと言われても……そういえば、まだ戻って来ていないのか?」
司は教室を見渡すが、白山の姿は見当たらなかった。
彼女は今、どこで何をしているのだろうか。
「――そうだ、玲二ぃ。司にアレ見せてやれよっ!」
何かを察したのか、大輔が大げさな身振りで話題を切り替える。
本当によく気を使う男だな、と司は苦笑した。
「ああ、アレね。司にはまだ見せていなかったな」
玲二が鞄の中をごそごそと探る。そして、中から古びた木製の鍵のようなものを取り出して机の上に置いた。
「これ、何か分かるか?」
「……鍵だろ」
「そりゃ見れば分かる。……どこの鍵だと思う?」
もったいぶる玲二に、司は唇をへの字に曲げた。
「……んなの分かるわけないだろ。いいから教えろよ」
「しょーがないな、教えてやるよ。
コイツはな……開かずの間の鍵だ」
司は一瞬何を言っているのか分からずに呆然とした。
――どこの鍵、だって?
そして、慌てて二人のほうへ身を乗り出した。
「……は? 開かずの間ってまさか……」
「そ。体育倉庫にある、あの扉の鍵だよ。
さっきの授業の後に玲二が見つけて来たんだ」
大輔と玲二は互いに顔を見合わせると、大げさに不敵な笑みを浮かべた。
「というわけで、今夜行ってみようぜ。体育倉庫の扉の中にさ!」
「じゃ、また後で。体育館の前に集合な!」
その日の放課後、大輔は明るく手を振ると、玲二を連れて部活へと向かった。
体育倉庫の扉を開けるのは今日の部活が終わった後、最終下校時刻を過ぎて人が少なくなってから試みることになった。
それまで時間の空いてしまった司は、学校の敷地内をぶらぶらと歩いていた。
「体育倉庫、か。……大丈夫かな」
司は独りごちた。
大輔と玲二は開かずの間の謎を解いてやろうと意気込んでいたが、司としては内心怯んでいた。
もともとこういうミステリーみたいなものは司も好きなのだが、今回は少し話が違った。
――白山さんに、体育倉庫に近づくなって言われたよ。
階段で大輔と白山が話していた様子が脳裏に浮かぶ。あの時、白山に釘を刺されたことを司たちは今まさにしようとしているのだ。
体育倉庫と言うからには、おそらくは開かずの間に関わる話なのだろう。
白山についてはまだ謎が多くてわからないことばかりだが、なんの理由もなくそのようなことを言うとは考えづらい。
大輔はあまり気にしていないようだが、司は彼女の不器用な言葉を無視することができなかった。
体育の時間に、白山が開かずの間の扉を触ったときに起こった不可解な現象。
そして飼育小屋や視聴覚室で見た不自然な黒い影――この学校では、何か異常なことが起きているのではないかと司は感じ始めていた。
そして、その中心となっているのが、あの白山彩女という少女と、体育倉庫にある開かずの間なのではないだろうか。
そうして悩んでいるうちに、足は自然と体育館のほうへ向かっていた。
「体育館か……そういえば――」
さっき白山が向かっていたのも体育館の方面だった。おそらく体育館裏にある飼育小屋へ向かったのだろう。
白山と別れてからは2時間近く経っている。さすがにもうこの辺りにはいないかもしれないが、ダメ元で探してみようか。
そんなふうに考えて司は体育館の周囲を歩き始めたのだが、意外なことに彼女の姿はすぐに見つかった。
「――あれ、白山?」
体育館の裏手で、壁に手をつきながら白山はふらふらと歩いていた。
普段、周囲に気を張っている彼女にしては珍しく、近づいてきた司の姿に気づく様子はない。
歩くだけでも精一杯という雰囲気だ。華奢な体を不安定に引きずっている姿は、まるで操り人形のようにも見えた。
そして次の瞬間、糸が切れたようにバランスを崩し、前のめりに倒れた。
「お、おい!」
司は慌てて駆け寄り、倒れ込む白山の体を受け止めた。
彼女の体はわずかに湿っていて熱く、そして驚くほど軽かった。
「ああ……。また、あなたですか」
白山は顔をしかめて乱れた呼吸を整えている。朦朧とした意識を覚醒させようと、焦点の合わない瞳に力を込めているようだ。
そして支えていた司の体を軽く押しのけると、どん、と体育館の壁にもたれかかった。
「いったいどうしたんだよ。……お前、ほんとに調子が悪かったのか?」
白山はかぶりを振った。
「……いいえ。このくらい、大したことはありません」
「……そうは見えないんだが」
「人を見かけで判断しないでください!」
司は唖然として白山を眺めた。
彼女も口に出してから気がついたようで、顔を赤くして視線を逸らした。
「……白山、それ意味違くないか?」
「……くっ」
白山は唇を噛みながら震えている。普段なら軽口の一つでも叩くところなのだが、今はそういう気にはなれなかった。
白山の瞳は相変わらず虚ろで、肩や胸をしきりに上下させて浅い呼吸を繰り返していた。おそらく考える余裕もなくて、頭もよく回っていないのだろう。
「とにかく、無理せずに保健室に――」
言いかけた司の口を、白山は手のひらを押し付けて塞いだ。
「しっ。静かに」
白山の突然の行動に、司は目を白黒させた。口元に柔らかい感触と、かすかに甘い香りを感じる。
彼女は緊張した面持ちで、もたれかかった体育館の壁を見つめている。司は動転しそうになる気持ちを抑えながら、その視線の先を辿った。
そこには、人の形をした影があった。
いや、影という表現はおそらく正確ではない。
それは司や白山が作っている人影とは濃さ、大きさ、そして質感が違った。
その色は濃く、暗く、深い。
大きさは司たちの作っている影より一回り大きい。
触れることができそうなほど存在感のある質感は、影というより黒色の霧や染みというほうが近いだろう。
黒い
口元に触れている白山の手が、かすかに震えた。
黒い
――そして、黒い
両手両足を引きずりながら、這うようにして、体育館の壁を移動する。首を低くして周囲を見回しながら進んで行く姿はまるで、においを頼りに獲物を探す猟犬のように見えた。
それは、少しずつ司たちの方へ近づいて来ていた。
体育館の壁に背を預けたままの白山のほうへと目を向けた。彼女の痩せた首元から、汗が一滴流れ落ちるのが見えた。
司は、なんとかしてあの黒い影をやり過ごす方法はないのかと、全力で頭を絞った。
あれに見つかったら、何かまずいことが起きる予感がした。
四つん這いで這いずってきたそれが、手が届くほどの距離まで近づく。白山のほうへ顔を近づけ、まるで獣がにおいを嗅ぎ分けるように、彼女の輪郭をなぞっていく。
白山は片目をぎゅっと閉じて不快感に顔をしかめた。
人の形をした黒い獣――その手が、前足が、学生服を着た少女の脇腹に触れた。
肉を火で炙るような音が鼓膜を揺らし、焦げたようなにおいが鼻孔を突く――
司は頭の中が、さあっと冷えていくのを感じた。思考が冴えて鮮明になる。このまま目の前の少女があの影に捕まってしまうくらいなら、自分が囮になる方がいい。
司は手近にあったこぶしほどの大きさの石を拾い上げると、振り返りつつ背後の茂みへと力強く投げつけた。ガサッと大きな音を立てて石が茂みの中へと潜り込む。
すると、音に反応するように壁に映った黒い人影が茂みのほうへとのっぺりとした顔を向けた。
ゆらりゆらりと二度その身を揺らすと、瞬きのように人影は姿を消した。
直後、背後からバサッという草をかき分ける音が聞こえた。その後ジュウウという何かが焼けるような音が聞こえ、ちょうど先ほど石を投げ入れたあたりから黒い煙のような霧が立ち上った。
その霧がかき消えると、辺りに静寂が戻った。
見回しても、黒い
「消えた、のか……?」
「……そのようです」
白山は息を吐くと、壁にもたれたまま、ずるずると崩れ落ちた。
「……本当、に……あなたは、間が、悪い、ですね……」
白山は地面にぺたりと座り込むと、必死に呼吸を整えながら、そんな不満を漏らした。
憎まれ口を叩いているが、その表情に余裕はなさそうだった。影に触れられた脇腹のあたりを、きつく手で抑えている。その指の隙間から、制服に煤のようなものがついているのが、ちらりと見えた。
「そこ、痛むのか?」
「……」
うつむいたまま沈黙している。きっとそれが答えなのだろう。
そのボロボロの姿が、強がる所作の一つ一つが痛ましくて、司はどうしても彼女を放っておくことができなかった。
かがみ込み、慎重に彼女を引き寄せて背に担いだ。
「保健室まで運ぶから捕まれ。……できそうか?」
白山はこくりと小さくうなずいた。彼女の体は、やはりとても軽かった。
「……なあ、今のはいったいなんだったんだ……あれがなんなのか、白山は知っているのか?」
答えは期待していなかった。背中で苦しげに呼吸する少女は、しばらくの間沈黙した後に口を開いた。
「……母さん」
「……え?」司は背中の白山の方へと振り向いた。彼女は目を閉じたまま、眠っているように口を閉ざしている。
それが彼女のまどろみから発した無意識のものなのか、それとも何か意味のある言葉なのかは判断できない。だが、司はそれ以上問いかける気にはならなかった。
少しでも早く彼女を休ませようと、司は保健室へと急いだ。
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