第6話 影法師


 今にも倒れそうなほどに青ざめている創一を連れて、司は体育館の裏にある飼育小屋を訪れた。

 飼育用の小屋は全部で三つある。三畳ほどの大きさの小屋が二つと、それより一回り小さく縦長の小屋が一つ。それぞれの小屋には兎、鶏、そして学校で飼う動物としてはややマイナーなインコがいた。

 小屋の近くには池と水場があり、その中では5,6匹の鯉が泳いでいる。そして、少し離れた位置には亀がいた。


 創一の話にあったのは、小さくて縦長の形をしたインコの小屋だ。

 覗いてみると、なるほど。確かに中央に赤い血糊のようなものがあった。

 そして周囲には、インコの持つ原色の羽根が散乱していた。

 血痕らしきものを中心に円を描くよう――まるで何かが破裂して飛び散ったかのように。


「……たしかに、血みたいなのがあるな」

「うん、そうなんだ……いったいここで何があったんだろう」


 創一の声色は、やはり覇気がない。

 小屋に残った血痕に、姿の見えない一羽。ここで何か良くないことが起きたのは確かだろう。

 三羽の――もとは四羽だったインコは、小屋の中の止まり木で落ち着かない様子で震えている。インコたちの愛らしいその姿を見て、司は悲痛な想いを抱いた。


 ――なんとか、力になれないものだろうか。

 司はもう一度小屋の中を見渡した。

 すると、小屋の中の様子にもう一つ違和感があることに気いた。


「……創一。ちょっと中入ってみていいか?」

「うん。ちょっと待って。インコたちが外に出ないようにしておくから」


 創一に入り口を開けてもらって、司はインコ小屋の中に入った。

 草と土と動物が発する独特の空気を鼻に感じる。司は小屋の中央にたどり着くと、屈んで足元を調べた。


 そこに、不自然な形の影ができていた。

 小屋のフェンスが作った網目状の影、それを塗り潰すように、濃くて深い影が一点浮かび上がっていた。

 それは実に不自然な場所にあった。小屋の中央にある止まり木より東――太陽に近い方向にあり、陽光を遮るようなものは見当たらない。


「どうなっているんだ、これ……」

「司くん。どうかしたの?」

「ああ。ここなんだけど、どうしてこんな所に影ができてんのかなって」


 創一は慎重に小屋の入り口を開けて中に入った。

 司の指し示した箇所を覗き込み、同じように周囲を見渡してから、不思議そうな表情で顎に指を当てた。


「たしかに、影になるようなものはなさそうなのに……おかしいよね」

「だろ? それになんか――」


 この影は、どことなく羽を開いた鳥の形に見える。そう言いかけて、司は言葉を飲んだ。

 変に意識してしまっているから、そのように見えるだけだろう。妙な想像をして創一を余計に心配させるわけにはいかない。

 代わりに司は影の映っている所に手をかざしてみた。

 影はその一部を司の手の甲に移し、手の厚みの分だけ伸びて形を崩す。


「うーん。普通の影みたいだね」

「…………。そ、そうだな」


 創一の言葉に答えながら、司は口の中が乾いて行くのを感じていた。

 司は手の甲のちょうど影が重なっている辺りに、何かが触れているようなむず痒さを感じていた。

 わずかな湿り気と生温かさを肌に感じる。それは、まるで生き物の体に触れているような――。


 司は背筋に嫌な汗が流れるのを感じながら、なんとか声の震えを抑えた。


「……とにかく、俺たちじゃどうにもできない……後で先生に相談しよう」

「そうだね。ありがとう、司くん」

「べつに俺は何もしてないんだけどな。

 ――ッ!?」


 その瞬間、司は手の甲に鋭い痛みを感じて、かざしていた手を引っ込めた。

 まるで何かにつつかれたような感触。手の甲を見ると、痛みを感じた箇所に小さく赤い痣のようなものができていた。


「……行こう。創一」

「う、うん。……司くん、なにかあったの?」


 心配そうに声をかける創一を無視して、司は足早に飼育小屋を後にする。

 なんてことはない。きっと虫にでも刺されたのだと、司は自分自身に言い聞かせた。




 3限目と4限目の英語の授業は、視聴覚室で行われた。

 正確な科目名は英語コミュニケーションといって、英会話を中心に実践的な英語を勉強するという名目の科目だ。授業を担当する教師も、普段の英語の授業とは別に専門の教師がいた。

 頭をスキンヘッドにした、陽気な外国人の先生だ。確かカナダ出身だと言っていた。発音がきれいで聞き取りやすく、気さくな人柄で生徒からも人気があった。


 視聴覚室を使う理由は、外国の映画を見るためだった。

 英語の学習のためということだが、内容はややコメディータッチのヒューマンドラマ。おそらく、教育課程として定められたものではなく先生の趣味なのだろう。

 字幕がついているので内容はしっかりと理解できる。だが流行りのハリウッド映画でもなく日本人としては少しずれたセンスのドラマは、司や一部の生徒(特に男子)にとっては若干退屈だった。


「創一、これどう思う?」

 司はあくびを噛み殺しながら隣の席の香山創一に小声で話しかけた。


「どうって、このビデオのこと? 僕はけっこう面白いと思うけど……。

 ほらこの夫婦の……お互い誤解していてじれったい感じとか……なんだかうずうずして楽しいよね」

「んー……なるほどなぁ」


 スクリーンの中では、西洋人のカップルが不幸な偶然から互いのことを浮気しているものだと勘違いして、痴話喧嘩のような会話をしていた。

 たしかに内容は面白いのかもしれないが、何かが物足りない。派手なアクションや感動もののドキュメンタリーなら字幕でも楽しめるが、この手の話だと微妙なニュアンスのジョークなんかがけっこう大事なので、やはりあの大御所声優の味のある演技が欲しい。


「……吹き替えだったら楽しめたかも」

「あはは。司くん、それじゃ英語の授業にならないよ」

「そりゃそうか」


 香山少年の鋭いツッコミに、司は軽く吹き出した。すると、モニターの横の椅子に座っていた先生が困った顔で肩をすくめた。静かに見ていろということなのだろうが、この陽気なカナダ人教師の冗談交じりなたしなめ方は、嫌味がなくて助かる。


 そうしてまたしばらく退屈な映画を眺めていると、隣の席の創一がつんつんと司の腕を指でつついた。


「ねぇ司くん。なんかスクリーンの調子おかしくない?」

「おかしいって、どのへんが?」

「ほら、なんか右下の方に影が映ってる」


 創一はスクリーンの一点を軽く指差す。よく見ると、確かに小さな黒い影のようなものが見えた。

 誰かがいたずらで投影機を遮って影を作っているのかと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。かといって埃などが映っているにしては、やけにくっきりと濃かった。


「ほんとだ。なんだろうな、あれ」


 司は声を低めて言った。不自然に映る影――どうしても先ほどの飼育小屋のことを思い出してしまう。


「……なんだか、だんだん大きくなってきているような気がするよ」


 創一も同じことを考えていたのだろう。不安げな表情で司のことを見ている。


 スクリーンに目を移すと、確かに少しずつ影は大きくなってきていた。

 最初は言われないと気づかないくらいに小さかったのだが、今はソフトボールくらいまで大きくなっている。

 それはゆらゆらと、まるでロウソクの炎のように緩急をつけて揺らめいていた。


 さすがに周りの生徒も気づき始めたようで、教室内がざわつきはじめた。皆、影について口々に憶測を立てている。

 先生が立ち上がり、投影機の様子を見た。だが特に異常は見られなかったのか、顎に手を当てて唸っている。


 やがて影がスクリーンの6分の1を塗り潰すくらいの大きさになったあたりで、司はそれがだんだんとある一つの形に似てきていることに気づいた。


「なあ、あれって人が座っているように見えないか?」


 そう声を上げたのは、前方の席にいる大輔だ。ちょうど同じことを言おうと思っていた司は「ああ」と小さくうなずく。周りの生徒のざわめきがより大きくなった。

 その影はどことなく膝を抱えて座っている人物に見えた。そして一度それを意識してしまうと、その先入観はなかなか拭い去ることができない。


 わずかに上下しているのは呼吸だ。その影は生きていることを誇示するように、丸めた背中で重々しく呼吸をしている。

 時折揺らめくのは髪だ。長い髪は女性のものだろうか。時折、まるで風が吹いたかのように、髪と裾をなびかせている。


 そして影の輪郭には、小さな何かが蠢いていた。ノイズが走るように。あるいは、その人影の肌を無数の虫が這い回るように。


 その時、教室の端から、がたん、と椅子を引く音が聞こえた。音のしたほうを見ると、白山彩女が席を立っていた。


「先生。体調がすぐれないので、保健室へ行ってもよろしいでしょうか?」


 白山は無表情で言った。

 彼女の声は驚くほど深く澄んでいたが、それゆえに底知れない冷たさを感じた。

 英語教師は人差し指と親指で円を描いてオーケーというサインを出しながら、再び機材のチェックを始めた。先生はあの影が機材の故障が原因だと思っているらしい。

 だが、司はどうしてもそうは思えなかった。


 白山は、この影について何か知っているのではないだろうか。

 昨日の体育の時間でも、白山は保健室に行っていた。だが彼女は特に体調が悪いようには見えない。彼女はたしかに肌は白くて体は細すぎるくらいなので外見だけなら体が弱そうにも見えるが、普段のしっかり背筋を伸ばしたきちんとした立ち居振る舞いからは、とてもひ弱そうには見えない。

 彼女は授業を抜け出して、いったい何をやっているのだろうか。


 もしかしたら飼育小屋のインコの件も、白山なら手がかりを知っているかもしれない。

 司は意を決して席を立った。


「保健室には俺が付き添います」


 手を上げて進言する。それが白山にとって予想外だったようで、驚きの色を見せて振り返った。

 スキンヘッドの外国人教師は、少し意味深な笑顔を見せながら親指を立ててサムズアップをした。――この教師は何か勘違いをしている気がする。

 教室の前のほうの席では、美波が無表情でこちらを見ていた。


「あの、私はべつに一人でも……」


 白山の様子からは困惑と苛立ち、そしてかすかに焦りが伺えた。

 唇をきゅっと一文字に結んで俯いている様子を見るに、断る口実を探しているのかもしれない。

 だが司は彼女が何か言い出すまで待つつもりはなかった。


「それじゃ行こうか。白山」

「……わかりました」


 白山は諦めたように息を吐きながら、視聴覚室の外へと歩き出した。

 周囲から浴びせられる好奇の目を無視して司は彼女に続いた。


 教室から出る時、何か妙な気配を感じてもう一度スクリーンに目を向けた。

 スクリーンの中で、膝を抱えてうずくまっていた人影がゆっくりと顔を上げた。

 影には目も口もなく無表情だ。だがそれはどことなく、自分たちのほうを見ながら嘲笑っているように見えた。


「――黒河くん」


 白山に呼びかけられ、司は我に返った。

 彼女は一瞬足を止めたが、背を向けたまま振り返ることはなく廊下を歩き出した。




「だから、あなたはなぜついてくるのですか?」


 しばらく無言で廊下を歩いて視聴覚室から十分に離れた頃、白山は司に詰め寄ってきた。

 姿勢がよく体つきも華奢なためそういう印象はなかったが、近くで見ると白山の身長は女子の平均よりやや小さく感じた。


「……本当に保健室に行くわけじゃないんだろ」


 上目遣いで詰め寄られて司は少したじろいでしまったが、怯まずに言い返す。

 白山は眉をひそめながら、少しうつむいた。


 何度か話すうちにわかったことだが、白山は嘘を付くことが得意ではないらしい。

 何か隠し事をしているのだろうが、今までだって司の質問に答えないことはあっても、誤魔化したり嘘をついたりしてやり過ごすということを彼女はしなかった。

 もちろん今回は保健室に行くと偽って教室を出てきたわけだが、それにしても不自然すぎる。司ですら、誤魔化すとなればもっと上手くできるだろう。

 ならばこちらも、要件や疑問を率直に伝えることが正解なはずだと司は思った。なにより、そうでなくてはフェアじゃない。


「白山は画面に映っていた影について、何か知っているのか?」

「……それを聞いてどうするのです」


 白山は否定をしない。つまりそれは、何かを知っているということだろう。

 その声にはいつもの力強さもない。

 司は少しためらったが、どうしてもこれだけは訪ねておかなくてはいけない。


「今朝、飼育小屋のインコがいなくなっていたんだ」

「飼育小屋……?」


 白山は表情を崩し、きょとんと首をかしげた。

 普段は張り詰めている彼女の不意に見せた無防備な表情に、司は鼓動が跳ね上がるのを感じた。

 だがそれもわずかな間だけで、白山はすぐにまたぐっと唇と眉根を固めて、緊張した表情へと戻ってしまった。


「そのことと、先ほどの件で何か関係があるのですか?」

「……今のはずるい」

「――え?」

「いや、なんでもない。――そう。飼育小屋に、さっきと同じような不自然な影ができていたんだ。

 血の痕みたいなものもあって、周りには羽根が飛び散っていた」

「飼育小屋で……そうですか」


 白山の意外な仕草に若干ペースを乱されつつも、司は今朝の出来事をできるだけ簡潔に説明した。

 どうやら白山は飼育小屋の件のことは知らなかったようだ。しばらくの間、口を閉ざして考え込んでいた。

 そして考えがまとまったように、彼女は司を正面に見据えながら口を開いた。


「飼育小屋は、どちらに?」

「ああ、体育館の裏だよ。知らなかったのか?」

「あそこですか。なるほど……」


 白山は納得したようにうなずくと、踵を返して校庭のほうへと向かった。

 それを見た司が肩をすくめる。


「そっちは保健室じゃないぞ」


 すると、白山は一瞬すねたように視線をそらした。


「わかっているくせに……」


 白山が小声でつぶやく。

 今まであまり見せなかった彼女の人間らしい部分。それがやっと垣間見られた気がして、司は顔をほころばせた。


「ああ。なんだ……やっぱり白山も普通の女の子じゃないか」

 胸の奥につっかえていたものが取れたような気持ちになり、司は思わずつぶやいた。


「は? 何を言っているのですか!」


 白山が語気を強めて振り返る。

 怒りのためか、その頬はわずかに紅潮していた。


 無理もない。自分でも失礼なことを言ってしまったと、司は思った。

 白山のことを得体の知れないとか思ってしまったのは自分の的外れな妄想だ。彼女は当然、人であり女の子なのだ。そんなことに今更気づいた。

 そんな当たり前のことをいきなり、それも意外なことのように言われては白山だって怒るのも無理はない。


「ああ悪い。でも、なんかちょっと安心した」

「安心……ですか」


 白山の声のトーンが落ち、均等に切り揃えられた前髪が目元を隠した。


「それは、あなたの思い違いです」


 もちろんだ、というように司はうなずいた。

「ああ、これは俺が勝手に勘違いしていたことだから――」

「いいえ。そういうことではありません」


 白山はかぶりを振った。背中まで伸びた黒い髪がそれに合わせて揺れる。

 うつむいて肩を落としている彼女の姿は、いつも以上に細く見えた。


「私とあなたは住む世界が違うのです」

「……どういうことだ?」

「――あなたの言う"普通"は、私にはきっと当てはまらない」


 白山は少し背伸びをすると、するりと司の首に腕を回した。

 密着した体から伝わる少女の体温に、司は鼓動が速まるのを感じた。


「これで最後です。もう私にかかわらないでください」

「いったい、な、何を――」


 白山の両手が、司の首を叩くように締め上げた。

 瞬間、司の意識が急速に遠のいていく。


「……おやすみなさい。黒河くん」


 視界が掠れていく中、耳元で白山のか細い声が聞こえた。

 その直後、司の意識は闇に溶けていった。


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