第4話 這い寄る違和感
"それ"の目の前に、豊丘村高校の制服を来た一人の生徒が訪れた。
他人との関わりを捨て、悲壮な殉教者となってまで渇望するものがあるというその生徒に、"それ"は興味を持った。
ゆえに一冊の書物を授けた。
書物は"それ"にとって、もはや不要となった代物だ。
だが哀しくも敬虔な若者にとって、そこに書かれたものは確かな兆しとなるだろう。
たとえ、仮初の夢に過ぎずとも――。
「司くーん。一緒に体操やろう!」
場所は体育館。
春風のような爽やかな声が耳に届いたと思えば、どんっと背中から体当たりされて司は前につんのめった。
そのさいに背中に感じた、弾むように弾力のある柔らかい感触に気を取られてしまい、体勢を立て直すまでに必要以上に苦戦してよろけまくる。
動揺をこらえてなんとか踏みとどまった司は、背後から飛びついてきた相手――クラスでも屈指の美少女のほうへと振り返った。
「み、美波……あのなぁ」
「はえ?」
「はえ? ――じゃなくて!」
頬を少し赤く染めながらきょとんとする美波。
新品の体操服に包まれた少女のスタイルがよく瑞々しい肢体にどうしても意識が持っていかれてしまい、司は直視できず軽く目を逸らした。
この学校の体育の授業は男女共同だ。――なのだが、さすがに準備運動のストレッチは男女別で行う。特にそうしろと言われたわけではないし決まりがあるわけでもないが、必然的にそうなる。
だが、あろうことかまだ周りにペアになっていない女子がいるにも関わらず、美波は司に声をかけてきたのだ。
周囲の生徒からの突き刺すような視線が痛い。
司がどうしたものかと困惑していると、美波とよく一緒にいる二人の女子が慌てながら駆け寄って来た。
二人のうちの気の強そうなほう――
「はいはーい。アンタはこっちで私たちとやりましょーね!」
「イタタタ……! ちぎれちゃう。ちぎれちゃうよぉっ!」
もう一人、おとなしそうなほうの
「ごめんね、黒河くん。うちの美波がお騒がせしました」
「いや……助かった。サンキュ」
美波の保護者ポジションである二人に礼を言いながら、司は肩をすくめた。
「おかげで、周りの男子に白い目で見られずにすんだ」
「うーん。それもあるけど……どちらかというと、それは美波ちゃんの方が――」
「どういうことだ?」
「ほら、こういうの、よく思われないから」
「いや、大輔とかならともかく――俺なんかと絡んだって、別にどうってこともないだろう」
司が答えると、美波を引きずっていた立川がばっとこちらに振り向いて冷ややかな目を向けた。
「――ハァ。アンタそれ嫌味?」
「……なにがだよ?」
べつに嫌味でもなんでもない、事実だと司は首を横に振る。すると立川は呆れたようにため息をついた。
その横で乙部が楽しそうにクスクスと笑っている。
「なんていうか……アンタたちって案外お似合いなのかもねぇ」
「なんか言ったか?」
「なんでも。ほら行くよ莉奈、美波!」
「痛い痛いっ! わかったから、もう引っぱらないで!」
立川が苛立ちに任せて耳を掴む指に力を込めると、美波は抗議の悲鳴をあげた。
さすがに少し可哀相になってきたので、司は制止しようとして彼女たちの方へと一歩踏み出す。
――その瞬間、首筋の辺りに妙に生ぬるい風が吹き抜けていくのを感じた。
「あれ。なんか今……」
司は首筋をさすりながら周囲を見回した。
体育館の窓は閉めきっており、この位置だと空調との距離も遠い。近くにいる生徒も目の前の三人の女子だけ。
いったいどこから吹いてきたのだろうか。その風はやたらと湿っている上に、まとわりついてくるような嫌な感じがした。
司の様子に気づいた乙部が、いぶかしげに首をかしげる。
「……どうしたの、黒河くん?」
「いや、なんでもない。……たぶん気のせい」
意識というものは感覚と密接に結びついている。思い込みというのは存外、感覚に強い影響を及ぼすものだ。
そうやって自分の中で理由をつけて納得していると、ついさっきまで耳をつねられて喚いていた美波が、目を丸くしてこちらの方を凝視していることに気がついた。
「さて、俺もそろそろストレッチの相手を探さないと……ん、どうした美波?」
司が声をかけると、美波は何度か口をぱくぱくさせた。それから、震える手を持ち上げて司の背後を指差す。
「つ、司くん……。う、後ろ……!」
「後ろ?」
美波の言葉に、司はゾッとしながら後ろを振り返った。先ほど背筋に感じた風の、生温くねっとりとした感覚が脳裏に蘇る。
司は緊張した面持ちで美波が指差しているほうを見る。
だが――。
「……別に、何もないぞ」
美波が指をさした先には、体育館の壁と体育倉庫の入り口があるだけだった。
そこから少し離れた場所では、談笑しながら準備運動をしている生徒のグループもいくつかあったが、これといって特に変わった様子は見受けられない。
ふたたび美波のほうへと視線を戻すと、今度はぽかんとした表情でこちらを眺めていた。
「あれ? いま、司くんの後ろに、人の手みたいなものが見えた気がしたんだけど」
「人の手?」
司が美波の言葉に首を傾げていると、その様子を見た立川が呆れたように眉根を寄せた。
「ちょっと美波ぃー? 黒河くんにかまってほしいからって変なこと言わないの」
「そそ、そんなんじゃないもん!
たしかに見たんだから。手みたいなのが黒い煙みたい、に、えっと……なって……」
自信を失っていくにつれて、美波の声もだんだんと小さくなっていく。
そして美波は、もじもじとうつむきながら最後に「……たぶん」と付け加えた。
「はいはい、そういうことにしてあげるから……。
ともかくいい加減に準備運動を済ませないと、授業に置いてかれちゃうでしょ」
「うー。恭子のいじわる……」
「ちょっと。なんであたしが悪いみたいになってんのよ!」
不満そうな顔で立川の後に続く美波。二人の様子に驚いて口元を押さえていた乙部も、一転してのほほんとした表情に戻って後を追った。
だが司はどうにも美波の言っていることが気にかかり、もう一度背後を振り返った。
そして、そこにいた予想外の人物に、司は硬直した。
「……白山、彩女……?」
さっきまで誰もいなかった体育倉庫の前に、白山が立っていた。
彼女は唇をぎゅっと引き結び、険しく眉を寄せて司のほうをじっと見つめている。
視線があっても白山は顔をそむけることもなく、微動だにせずに鋭い視線を送り続けている。
言いようのない緊張感に耐えられず、司はたじろいで軽く視線をそらした。
「……やっぱり」
白山が小声で呟く。
その言葉にはっとした司が何か言いかけたところで、白山は長い黒髪をなびかせながら踵を返し、体育倉庫の扉を開けた。
扉が開かれると、彼女は当たり前のように、すっと中へ入って行った。
「お、おい白山……!」
予想外の行動に、司は慌てて声を上げた。それから少し迷ったのち、体育倉庫の中へと消えた彼女の後を追って走り出した。
倉庫の中に入ると、バレーボールやバスケットボールのたくさん入った金属製の籠や、多くのスペースを占める跳び箱や平均台、体操部が使うバトンに、近年ではあまり使われているとこを見ないフラフープやカラーボールなどが棚に並んでいるのが、最初に目に入った。
それだけならばなんの変哲もない、中学の頃と同じような体育倉庫だ。だがその奥に一つ、妙なものを見つけた。
――扉だ。
倉庫の壁の不自然な位置に、閉じられた扉があった。
この体育倉庫の奥に、まだ何かがあるというのだろうか。
その扉の正面には、
白い体操服に包まれた華奢な背中と、それを淡く隠している長くまっすぐな黒髪。
丈の短い体操服から伸びた手足もまた折れそうなほど細い。だが、しっかりと背筋を伸ばした凜とした立ち姿からは、頼りなさなどは感じなかった。
「……黒河くん」
彼女は扉の前で背を向けたまま、司の名を呼んだ。そしてふわりと黒髪をなびかせながら、上半身だけで見返る。
その時、司のことを鋭く睨む彼女の瞳が一瞬だけ揺れたような気がした。
「白山――」
「どうしてついて来るのですか?」
口調は丁寧だが、はっきりと批判の色を示されて司は言葉に詰まった。
もちろん、ついて来たことにはそれらしい理由などはない。
司がどう答えたものかと思案していると、白山は興味をなくしたように再び背を向けた。そして何かを確かめるように、白くなめらかな指で奥の扉を撫でる。
そんな彼女の様子を気まずい気分で眺めながら立ち尽くしていると、やがてため息混じりの口調で白山が言った。
「……とりあえず、そこにいると邪魔です。出て行ってください」
――邪魔だって?
理解できずに、司は首をかしげた。授業中にこんな場所で彼女は何をしようとしているのだろうか。
そのことを意識すると、溢れ出すように司の疑問は大きくなっていった。
白山の強い口調に気圧されていたが、そもそもこの状況で出て行けという言い分のほうが無理があるというものではないだろうか。
司はむっとする気持ちを抑えながら、彼女の背中に声をかけた。
「なあ、こんなとこでいったい何をして……。――ッ!?」
司が疑問を投げかけた瞬間、扉に触れている白山の手に黒い霧のようなものがまとわりつくのが見えた。
直後、扉のほうからむわっとした生温い風が吹きつけてくる。
先ほど、美波たちといる時に感じたものと同じだ。風は湿り気を帯びていて、体の前面から背後へと、撫で回すように吹き抜けていく。
その不快な感触に、全身の毛が逆立った。
また、溢れるように吹き付ける風は扉の前にいる白山の髪や服も揺らし、彼女のきめ細かくなめらかな背中や首筋を覗かせていた。
――今度は気のせいなどではない。
体育倉庫というほぼ密室の空間で、確かに奥のほうから風が吹きつけてきたのだ。
「何だ。今の……」
粘り気すら感じるような嫌な風が収まり、体育倉庫の中に静寂が戻った。外から生徒たちの喧騒が聞こえる。
白山は背を向けているため表情は見えないが、その小さな肩は小刻みに上下していて、息が乱れているようだった。
彼女が何かしたのだろうか。
白山はもう一度、司のほうへと振り向いた。
彼女の表情はなぜか疲労の色を表していて、瞳にいつもの力強さはなかった。だが、それゆえいつも以上に凄みを増しているように感じた。
「黒河くん。ひとつ言わせてもらいたいのですが――」
白山がそう言いかけた時、体育倉庫の外――体育館の方から悲鳴が聞こえた。
鈴の音のような清涼感があり、でもどこか気の抜けた雰囲気の特徴的な声。先ほどまで耳にしていた声だった。
「――美波!」
白山のことも、奥の扉のことも気にかかる。だが今は、外にいる美波の様子を確かめるのが先だろう。
司は急ぎ体育倉庫の外へと駆け出した。
その背後で、白山がまるで諦観したように目を伏せてかぶりを振った。
急いで倉庫の外に出ると、しゃがみ込んだ美波がふくらはぎの辺りをしきりにさすっていた。
「どうした。美波?」
司が近づくと美波は顔を上げ、目に涙を滲ませながら「司くん〜」と情けない声を上げた。
「今ね、なんか通ったの、足の間を。ぬめぬめーって」
美波の言い方はなんとも捉えづらかったが、おそらく司が先ほどから感じている違和感と同じものだろう。
司はどくんと心拍数が上がるのを感じた。だがそれを抑え込んで、勤めて平静を装う。
「……何か、あったのか? さっきも人の手がどうとか言っていたけど」
「うん、あのね……」
美波が言うには、"手みたいな形をした霧みたいな変なもの"が、まるで掴もうとするように司へと近づいてくるのを見たらしい。
その後、司と白山が体育倉庫に入って行くのを目撃して気になって見ていたら、突然何か粘り気のあるものが足の間を通り過ぎていくのを感じたという。
どうでもいいことだが、体操着のショートパンツから伸びた、みずみずしくスラリとした生脚を指差して「このへん」とか言われても目のやり場に困る。
「やばいよぉ。ここ、絶対なんかいるよ……」
美波は「きもちわるい……」と言って内股を撫でた。
立川たちにこの話をしても、気のせいだろうと言われて相手にしてもらえなかったらしい。
というより美波がまた変なこと言っているとあしらわれたとか。――さもありなん。
だが先ほどまで同じように不穏な気配を感じていた司は、神妙な顔で頷いた。
「……確かに気になるな」
「えっ!? 司くん、信じてくれるの……?」
美波は一転して表情を明るくして、すがるように司を見上げた。
それを見た司は、なぜか照れ臭くなってそっぽを向いた。
「いや、信じない」
「ひどーい!」
反射的に言った軽口に、美波は司の胸を両手でぽかぽかと叩きながら非難の声を上げた。
その様子がおかしくて、司は声を上げて笑った。
そんなことをしているうちに、さっきまで感じていた不安感は薄れ、司の意識はいつもの日常へと戻っていった。
脳裏に、かすかにこびりついた違和感の残滓だけを残して。
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